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消極的自殺志向者の場合2

 修が突然鋭く吠えたのは、S市中心街を目標に歩いている途中のN電鉄線の高架下に差し掛ったときだった。

『興味』

 首元の翻訳機にはそう示されていた。

 修はあまり吠えない犬だ。この状況で彼が吠えるとすれば……。

「患者様候補が居たのか?」

 僕の問い掛けに、修は応えなかった。

 ただ、普段の彼のすました様子とは違った、なにか焦りのようなものがあるような気がした。僕はそれを近くに疾病を抱えた人がいるためだと推測した。普段は冷静な修が焦るのならば、その人は相当な重症患者様かもしれない。そうした場合、精密検査以降の対応が難しくなりそうだなと、漠然とだが想像していた。

 僕も修が嗅ぎつけた人物を探してみようと思い、リードひもから道の先へと視線を走らせる。

 前方、中心街方面から、こちらに向かって人が歩いてくるのが見えた。

 顔を確認すると、僕よりも年下のように見える、ショートカットの女性だった。ロングスリーブシャツからわずかに覗く、左の手首には二つ、黒いリストバンドが巻かれていた。

 なぜ、二つもリストバンドを巻く必要性があるのかを考えながら、修に訊いてみる。

「修、あの人?」

 修は低く唸っている。

『興味』

 修の唸り声に対して、翻訳機の表示に変化はなかった。翻訳機が反応することのできない音だったのか。それとも、修の感情がそのまま『興味』なのかは分からないが、修が冷静さを取り戻していないことは想像できた。

 視線をその先の道に進めていくと、その女性の後方に、おばあさんが歩いているのを発見する。頭にはふさふさと白髪が生え、脇に鞄を下げていた。

 高齢者なのにも関わらずしっかりと生え揃った髪に、母方の祖母を思い出しながら、修に訊ねる。

「じゃあ、あのおばあさんかい?」

 修が新たに吠える。しかし、翻訳機の表示は変わらず『興味』のままだった。

「あれ? 変らない。じゃあ違うのか……?」

 ならば、ウチの病院の新規患者様候補の方はどこにいるのだろうか?

 僕は進行方向から迫る二人をしっかりと観察してみようと思い、その場で立ち止まる。

 高架下で何もせずに立ち止まるなんて、僕はひどく怪しいヤツに見えることだろう。少し気恥ずかしさを覚えていると、僕の横を早足で人が追い越していった。ちらりと見えた横顔から判断するに、その人は男性のようだった。

「もしかして、今の人だったり?」

『困惑』

 翻訳機の反応が変わった。

 けれども、修は誰のもとにも近づく様子がなかった。いつもは迷いなく行動をする彼には珍しいことだと思った。

 修が動かないのなら仕方がない。僕は気分を切り替えて、こんな寂れた街の平日の昼前に何を急ぐことがあるのだろうと、さっきより少しだけ小さくなった男性の後ろ姿を眺めてみるが、特に決定的な理由は思いつかなかった。

 彼は若い女性、おばあさんの順にすれ違い、中心街へ続く道を早足で進んでいった。

 立ち止まる僕に合わせることなく時は流れていく。

 若く見える女性が立ち止まっている僕の元に差し掛かった。

「アンタさ、平日の昼間からこんなとこで何しているの?」

 自動販売機もゴミ箱もない場所で、携帯電話を弄るでもなく、ただつっ立っている僕を不審に思ったのか、女性が僕に声を掛けてきたのだ。

 貴女こそ何をしているんだ。と訊きたい気持ちを抑えて、質問に応える。だって、一般的な視点で見るならば、僕はただ犬の散歩をしているだけなのだ。なんら不審な点はないし、後ろ暗いこともない。

「犬の散……」

 ――言い終わる前に修が駆け出した。

 不審者と誤解されないようにと、精一杯、にこやかに対応している途中なのに……。

 他のことに気を取られていたために反応が遅れ、緩く握っていたリード紐が手から抜けてしまった。

「そう、犬の散歩なんだ……でも、君さ、犬に逃げられてるじゃん。それって散歩とは言えないよね」

 彼女の発言はもっともだった。

 修が大人しくリード紐に収まっているだろう、などと思っていたのが間違いだったのだ。

 僕は慌てて、彼を追いかける。運動不足の浪人生に急なダッシュは辛い。




 修が走っていった方面へ小走りで向かっていくと、少し離れた場所から犬の吠える音が聞こえた。その方角はこの先ではなかった。このまま道なりに進んでいっても、修の元にはたどり着かないだろうことは予想できた。

 音のする方へ進路を修正して、息を切らして駆け足で向かう。

 もう一度、修の声が届く。聞こえた音の大きさから、だいぶ近づいたような感じがした。

 その先の交差点で立ち止まる。歩んできた道路以外の三方向を確認すると、左折方向に位置する場所に、高架下で僕を追い抜いていった男性と修を見つけた。

 僕はまた駆け足になり、その二者に近づき、声をかける。

「修、その人、なの?」

『同意』

 少し息切れをした僕の問いに、翻訳機はそう反応した。

 男性の顔を見ると、多少の黄疸があるように見え、さらには痩せているように思えたが、僕は本職ではないので、男性を診断することは出来ない。それは技術的にも、法律的にもだ。

 顔から視線を落としていくと、男性のシャツの裾には犬が噛み付いたような跡があった。修が男性を病院に連れていこうとして、男性はそれに抵抗したのだろう。追いかけてきた犬に噛み付かれれば抵抗したい気持ちにもなる。僕だって、たとえ、服にしか噛み付かれないと分かっていても、見知らぬ犬に噛み付かれるのは嫌だし、すごく恐い。よくよく思えば保健所行きにならずに済んでいるのは奇跡だ。修が言葉を発することが出来ればもっとスムーズに行くのにな、と思った。

 そして、男性の服の弁償をしなくてはならないだろうな、とも思った。

「そうかー。――では、そちらのお兄さん、悪いですが、一旦、ついてきてもらいます。服も破れてしまったことですし」

 なにも、僕は修の行為がすべて悪であるなどと思っているわけではない。自身が疾病を抱えていると知るのは良いことだ。すべてを知り、その上で治療を拒否するのかを選べるべきだ、と僕は考えているだけだ。

 ひとまず病院で検査をしてもらおうと、男性の手を掴もうとする。

 すると男性は僕の手を避けて、「何故、バレたんだ?」と言った。

 なんだ、病院を嫌いなタイプの人だったのか。自分が何らかの疾病に罹患しているかもしれないと思っているのなら、一度、しっかりと検査をするべきなのに、これだから、病院嫌いは……。

「バレる? 知っていたのなら、自分で行って下さいよ」

 僕はため息を付いてから言う。

 僕の言葉に対して男性は気の抜けた顔をして応える。

「……いや、スリをして、すぐに自首する奴はいないだろう」

 ん?

 スリ?

 スリって、どういうことだろうか。僕が連行するのは病院の予定なのだけれど。

 なんとなくきな臭い状況だと思い、言葉を濁しながら言う。

「とりあえず、付いて来て下さい。ちなみに、この犬の嗅覚はとんでもないので逃げようとか思わないことですね」

 具体的な状況を把握できていないが、僕は来た道を引き返し、男性を連れて藤沢病院に向かうことにした。

 病気は、ならないこと、罹らないことが一番であり、罹患してしまったなら、早期発見早期治療が重要だ。

 もちろん、とても一般的なことを言えば、だ。

 この男性が何をしていようと、まずは修の判断に従わないと生命が脅かされるリスクが日ごとに高まっていってしまう。男性が自覚的に病を隠しているのでない限りは、ひとまず病院に連れていかなければならない。だって、僕は人の不幸を望んでいるわけではなく、自らの生死くらい自分で選択できるべきという考えだからだ。そのため、自分が病人であるという自覚は、もしも、病気に罹っているなら、早めに持つべきなのだ。

 男性の口ぶりから、どうやら自らの病に関しての自覚は無いようだ。

 なら、迷うことなく、精密検査だ。

 そういえばさっき、男性には修の嗅覚が凄いと言った。だが、修は特別な訓練を受けたわけではないので、男性に逃走を図られた場合に、はたして追いかけられるのかは、かなり疑問ではあった。

 修が、ある種の嗅覚に優れることは疑いようがないのだが、それが警察犬的な働きに活かせるかは不明だ。それは言わなければバレないだろう。スリをした男性が犬に追いかけられて、服を噛まれたことは事実なのだ。なにやら男性は意気消沈していて、細かいことまでは気が回らないみたいだし。




「あ、さっきの。犬、見つかったんだ」

 帰宅の道すがら、ショートカットの女性が話しかけてきた。

 誰かと思って記憶を探ると、少し前に高架下ですれ違った女性だったような気がする。

 修に噛まれた男性も女性のことを認識し、記憶していたようで、なぜか彼女にウインクをしてから「はじめまして。さっき、後ろにいたおばあさんはどうした?」と、訊いた。

 彼女は少し思い悩んだ後、応える。

「後ろって、豊子さんのこと? 予定は知らないけど豊子さんの向かった方角的に考えて、そのまま歩いて家に帰ったんじゃないかな?」

 彼女の言葉を聞き、彼が応える。

「名前を知っているということは、君はおばあさんと知り合いなのか?」

「君って……まあいっか、えーとね、豊子さんが住んでいる家は知ってるよー。K町のねー――」

 彼女は語尾を伸ばしながら豊子というおばあさんの個人情報を次々と開示していく。そういうものの保護が叫ばれる現代において無用心な女性だと思った。しかも、その個人情報は彼女自身のものではないため無用心ではなく只の迷惑な人でしかなかった。

 男性は懐から黒い長財布を取り出して、彼女に見せ、口を開く。

「ストップストップ。君はその豊子さんと知り合いみたいだから頼みたい。これをおばあさんに返しておいてくれ」

 そう言って、取り出した財布を女性に渡した。

「ええと、どういうこと?」

 彼女は訊いた。

「つい、あのおばあさんの懐からスッてしまった」

「つい、って」

 僕は思わず、会話に割り込んだ。

「すまないことをしたよ。あの人、心ここにあらずというのが一目で分かったから、昔のクセでやってしまったよ」

「はあ……そうなんですか」

 だからか。直前にスリをしたという事実があったからこそ、彼は僕が『ついてきてもらう』という言葉に警察を関連付けて、自らの罪を自白したのだ。

 僕はおばあさんの様子がおかしいとは思いもしなかった。僕とおばあさんの位置関係は遠かったし、それも仕方がないことだと思うが。

「へえー。それをこの犬が捕まえたの? やるなあ」

 女性が大きな目で修を見つめ、背を撫でながら言った。

 修は女性から視線を外す。そして、僕に向かって、さっさと行けと首を振って合図をした。道端でいつまでも話をしていないで、男性を病院に連れていけということらしい。

 僕は修の意思に従うことにする。

「じゃあ、豊子さんって人に財布を返したら、その豊子さんに藤沢病院の藤沢拓海に電話するように言っておいてくれない? 君にその財布をネコババされても、目撃者としては、なんとなく困るので」

「疑うねぇ」

 女性は少し笑って、語尾を上げて言った。

「それはねぇ」

 僕は同じように語尾を上げて返した。

 平日の昼間から一人で街を歩いている若い人を信用できるか、とは言えなかった。その言葉はそのまま僕に返ってくるからだ。

「じゃあ君も、タクミでいいの? 君も豊子さんの家までついてきてよ。それなら安心じゃん」

「いやあ、僕も忙しい身なものでね……」

「嘘だぁー」

「まずは病院に用があるんだよ」

「じゃあ、その後で。都合いいじゃん。豊子さんの家、そっち方面だし」

 はて、近所に豊子さんという人はいたか?

 近所で高齢者の住む家を脳内で検索する。――いない気がする。

 ウチのロビーでお見かけしたことはない……と思う。病院に居るわけではないので、ロビーで繰り広げられる高齢者茶話会の様子はよく知らないのだが、たぶん、いない。

「時間かかってもいいのか?」

 緊急だと検査をねじ込んでも、他の予定が立て込んでいる場合、彼を病院に引き渡すまでに一時間以上かかるかもしれなかった。

「アタシ、暇だし、いーよ。それより、その子のリードをアタシに持たせてよ」

 彼女は既に僕との会話に興味をなくしたようで、修の方をじっと見ていた。

 修のうめき声を拾いとった翻訳機は『不快』を示していたが、修をからかうのも面白いと思い、僕は彼女にリード紐を渡した。

「はい、どうぞ。大人しいからあまり力は入れなくていいよ」

「そんなふうに気を抜いていたら、君はこの子に逃げられたわけだね」

 僕は思わず息を漏らした。

 もしそれを犬用翻訳機が感知していたなら、『不快』を示していたことだろう。




 僕は人間の連れを二人増やして、藤沢病院に戻ってきた。

 道中、三人の歩みの速さを比べてみると、僕が一番速いようだった。この女性は自分勝手にズンズンと先を行くように思っていたので意外だった。

 昔、誰かに聞いたところによると、他人を置いてドンドン先を行ってしまう人は協調性がないらしい。その教えに則ると、一番協調性が備わっていないのは僕らしい。

 時刻は昼前なので、受診の終わった患者様がエントランスから出てくるのが朝よりも多く見られた。

 僕は二人にその場で待ってもらうように言い、修を住処に戻す作業を始める。

 中庭の花壇に併設された水飲み場からホースを引っ張ってきて、修の足を洗う。汚れを落とした後で僕の手と彼の足をこすり合わせて、適当に水気を拭う。そうした後に修を両手で胸元に抱える。そのまま閉鎖病棟まで連れていき、彼の部屋の窓を開け、サッシに彼を置く。彼は軽々と部屋の中に飛び込んだ。

「また今度な」

『同意』

 修は僕との散歩を認めてくれているのかもしれない。

 少しの満足感を覚えつつ、待たせていた、男性と女性の元に戻る。

 僕に連れてこられた二人は黙って一部始終を見ていた。

「さて、お待たせしました。エントランスに行きましょうか。――そういえばお名前をお聞きしていませんでした」

「アタシはねー」

 女性が応えた。

「僕は男性の方に訊いたつもりだったんだけど」

「いいじゃん。私のことはヒカリって呼んで」

「はい、オッケイでーす」

 僕は軽くいなして、男性の顔を見る。

「俺は、ケンジだ」

「ケンジさん。――漢字で書くとどうなります?」

「賢く、政を治めると書く」

 ――賢治さん。頭に浮かべる。

「そうなんですか。ちなみに僕が連れていた犬は学問を修めるの修で、オサムという名前です」

「アタシの名前の漢字も訊きなって」

「いいです。太陽の光、のヒカリでしょう?」

「ま、そうなんだけどね……貴方の名前はどう書くの?」

「そんなことより、着きましたよ」

 数年前から反応が鈍くなったままの自動ドアのセンサーの下に立つ。ゆっくりと一秒をカウントするとセンサーのランプが灯り、少し軋んだ音をたてながらドアがスライドしていく。

 ギシギシという音が収まると、僕は切りだす。

「さて、賢治さん。健康診断って受けられていますか?」

「いや、自営業だしあまり……」

 自営業とは他人の金を懐に入れることではないですよね? と訊きたい気持ちを抑えた。

 この場所から受付窓口までの所要時間を考えると、説明出来る時間はあまり残っていない。そうなると、ひどく簡潔に説明を終える必要があった。

「諸費用は後払いで結構ですので、ウチの病院で今すぐ健康診断を受けていって下さい」

「いや、それより、俺のこと、通報とかしなくていいの?」

「では、健康診断を受けてくれたなら、貴方が財布をスッた件は僕が何とかして不問にしてきましょう」

「そんなこと……」

 それが出来るかどうかは、被害者との交渉次第になるのだが。とりあえず、嘘をついてでも賢治さんには安定した心拍数を以て、検査を受けてもらわなければ。正確な診断のためにはストレスは禁物だ。

「なんでそうなるの?」

 不満そうな顔で光が会話に割り込み、僕をじろりと睨む。

 一から説明するのはめんどうだなあという気分になる。

 彼女と豊子さんという方の関係性にもよるのだが、あまり干渉してほしくはない。

「まあまあ、とりあえず、検査行ってきてくださいよ。僕は光さんとおばあさんのところに行ってきますので。――あ、じゃあこうしましょう。受診しなかった場合、通報、ということで、一つよろしくです」

 僕は賢治さんを受付まで引っ張っていき、顔見知りの事務員さんに「入院さんが見つけた患者様です。検査よろしくお願いします」と言った。

 事務員さんは何も言わずに頷いて、賢治さんに笑顔で話かけ始めた。

 僕に小言を言わないということは、どうやら今日は入院患者様の検査が立て込んではいないらしい。

 でも、これで終わりではない。僕には賢治さんの懸念を解消するという仕事が残っていた。

 光のもとに近づいて訊ねる。

「おばあさんの家を知りたいんだけど」

「豊子さんね。じゃあ一緒に行く?」

 彼女は先程、僕を睨んだことを忘れたかのように平然と提案してきた。

「君は暇なの?」

 さっきからの疑問を思わず口に出し、訊いてみた。

「君こそ暇でしょ? それに、君がいったい何をしているのか気になるしね」

「修に付き合うには、暇な日でないと。だから、今日は、大丈夫」

 僕は『今日は』の部分を強調して言った。

 浪人生なので、毎日が勤労であり、祝日だった。そして、最近は祝日が優勢だった。勿論、自分勝手な判断で、だ。

「じゃあ、アタシも、今日は、大丈夫」

 彼女も、『今日』を強調した。

 なんだか、口調は乱暴だが、似たもの同士のような気がして、彼女の顔を見る。

 茶髪で、まつげが長い彼女の派手な外見を見て、そんなことはなかったと、その考えを打ち消した。

 彼女は僕の視線に気がついたようで、目で『何?』と語りかけてきた。

 その目に僕は何も応えることができなかった。




 光が言うには、豊子さんの家は病院を中心に考えた場合において、市街地の反対方向に位置しているとのことだった。つまり、賢治さんを捕まえた場所から考えると、僕と豊子さんの家は同じ方角に位置しており、別方向でないという意味では近所と言えなくもない。

 S市中心街から最大に離れた場所に存在するのは、農道、農園に加えて、比較的に古さを感じる住宅地といったものだ。それらの中には高い塀に囲まれた住宅もあり、趣のある場所だが、僕はあまり行く機会のない地域だった。

 光はそれほど遠くないと言ったが、高低差の激しい農道が多々あり、浪人生活者には少々苦しいものがあった。

「まだ、つかない、のか?」

 僕は少し呼吸を乱しながら言った。

「もうへばったの? 修君の散歩、ちゃんとしてんの? 不安だなあ」

 今日が久しぶりの機会だとは言いたくなかったので、話題を変えよう。

 さらに、どちらかと言うと、犬のほうが君付けで気を遣われ、名前を呼ばれていることにも、悲しいので触れないでおこう。

「ちなみに光は何歳なんだ?」

「十七。君は? っていうか名前は?」

 十七歳。――彼女の同世代は高校生という年齢だった。

 やはり、彼女が平日昼間に出歩いているのには何らかの事情があるのだろう。それを不躾に聞くほどに僕達は親しくなかった。なにせ僕と彼女は出会ったばかりなのだ。

「藤沢拓海、二十歳だ」

「タクミ、ね。さっきのフジサワタクミに電話しろっていうのは君のことだったのか。それに微かにタバコの匂いがすると思ったけど……うん、そういうことか」

「本当に? 匂いする?」

 僕は衣服の匂いを嗅ぐ。

 特に何も感じなかった。

「うん。ドギツイって感じではないけど、少しね。――あ、ここだよ。豊子さんの家」

 その味には慣れたが、僕はタバコの煙の匂いが好きではない。しかし、僕からはタバコのにおいが少しはするらしい。慣れというものは恐ろしいものだ。でも、仕方のないことだと、気をとりなおして、豊子さんの家と示された場所を見る。

 縁側のガラスが薄そうな、特に変わったところのない農村部の古くからある住宅という感じがした。

 光が門柱を抜けたので、僕もその後に続き、お邪魔する。

 庭に設置された農作業用の手洗い場を通過して玄関の前に立つと、つるつるとした石の表札に清水と掘ってあるのが見えた。

 清水豊子が高架下ですれ違ったおばあさんの名前らしい。

 光が呼び鈴を押した。

 ――まだ、心の準備が……。と、言ったところでもう遅いので、心を冷静にすることは諦めて、緊張を味方につけることだけを考えると、これからの見通しが立ってくる。

「はいはい」

 落ち着いた声が家屋から届く。

 特に炊事などの用事をこなしていたわけではなかったようで、声がしてからわずかの時間でドアがスライドしていく。

「あら、光ちゃんと……貴方は犬のお散歩をしていた人ね。わざわざ、光ちゃんが家に来るなんて、どうしたのかしら?」

「こんにちは、豊子おばあちゃん」

 礼儀正しく頭を下げ、光が言った。

 明らかに、僕に対する態度とは大きな差が感じられた。

「はい、こんにちは」

 僕は光の態度に釈然としないものを感じつつも、決意をして声を出す。

「おばあさん、ひとまず、僕の話を聞いて下さい」

 緊張で声が上ずっているのだが、気づかれただろうか。

 しかし、それも仕方がない。僕はこれから善良なおばあさんに嘘をつくのだ。少しくらい調子が乱れないほうがどうかしている。

「はいはい、なにかしら? 光ちゃんの知り合いなのでしょう?」

「うん。一応ね」

 光が言った。

 一応なのか。

 一応だろうな。

 たぶん彼女は僕の名前を漢字で正確に書くことすらできない。

「まあ、上がっていって。あまり片付いた家ではないけれどね」

 確かに立ち話でするべき話ではないと思い、僕は豊子さんのご好意に甘えることにした。

 緊張しているが、脱いだ靴を揃えることを忘れない、ということだけを考えて、豊子さんの家に上がった。

 居間に通され、少し待っていて、と言われ、待っていると、豊子さんは僕達の為に緑茶を用意してくれた。

 僕はその間、話すべき内容を整理し続けていた。

 豊子さんが淹れてくれた緑茶をすする。味はあまり分からなかった。だが、強い渋みを感じることはなかったので、少なくともとても安価というわけではないようだと思った。緑茶の繊細な甘みやうま味を評価するには僕は緊張しすぎていた。

 もう一度、でっち上げるストーリーを整理する。

 ――いける……か?

 とにかく僕は口を開くことにした。なにも娘さんを僕にくださいなんてセリフを言いに来たわけではない。ならば、長くて無駄な沈黙は僕に対する不信感を生む原因になる。

「まずは僕の話を聞いてもらってもよろしいでしょうか?」

「ええ、いいわよ」

 高齢者は優しい。という世間の思い込みはまるっきり間違っていると思うが、豊子さんは優しい、と思わされる笑みを浮かべて彼女は応えた。

「豊子おばあさん、鞄の中身は家に返ってきてから改めましたか?」

「いいえ。だって、結局今日はなにも買わなかったもの。あ、でも、あなた達が来てくれるなら、たくさんお茶菓子でも用意しておけばよかったわね。ほら、こんなものしかなくって……」

 豊子さんは否定の意を示すために首を横に振り、その後、優しげな口調で僕達に一口大に切り分けられた羊羹を勧めた。

「いただきます」

 僕は頭を下げて、豊子さんの様子をうかがう。

「はい、どうぞ。ほら、光ちゃんも食べなさい」

 豊子さんは笑顔を崩さずに、光の前に羊羹の乗った皿を差し出す。

「ありがと、豊子おばあちゃん」

 光は年長者に遠慮することなく、羊羹に爪楊枝をさして、一つ食べた。

 僕は豊子さんが手をつけてから、食べようと思っていたので、もう少し様子を見ることにする。

「あら、貴方も食べなさい。ほら」

 そう言って、彼女は爪楊枝を羊羹にさして小皿にとって、僕の前に差し出してくれた。

「すみません、いただきます」

 ここまでされたらいただかないわけにはいかない。僕は頭を下げて、それを口に運ぶ。

 こしあんで作られて甘みが抑えられた羊羹だった。ゲル自体の甘さが抑えられているのは中に栗の甘露煮が入っているためだろう。あんにはエグ味が感じられない。どうやら結構な値がしそうな逸品だと思った。

 そして、羊羹の味を分析できる程度には緊張もほぐれてきたようだ。

「そういえば、貴方、どこの家の子なのかしら?」

 子どもの由来を聞くのに、家系を訊くのはこの地域だけなのだろうか。この場所以外に住んだことのない僕には分からないが、とにかく、この場所にいる限り僕は、藤沢さんの家の子ども、という情報から話が始まる。

 そんなことを考えていると、光が口を開く。

「タクミはねえ、あそこの藤沢病院の子どもらしいよ。ね?」

「ええ。あそこの病院の子どもです。あ、病院が基準だとすると、孫、といった方がいいのかもしれません」

 そう、藤沢の家の子どもであると同時に、僕がこの場所で生きていく限り、藤沢病院の跡取りであることは消えない。

「あら、そうなの。じゃあ、貴方の名前はなんて言うの」

「拓海です。藤沢拓海と言います」

 豊子さんの聞き方は、僕を独立した一つの存在と認めてくれているような気がして、なんとなく、下の名前を二度言ってしまった。ちょっと恥ずかしい。

 そうだ、本題を忘れていた。

「光、さっきのアレを豊子さんに返して」

 そう言うと、彼女は懐から豊子さんの財布を取り出して、その下に両手を添え、丁寧な所作で豊子さんに渡した。

 意外なところがあるものだと、僕は少し感心した。その明るく染められた髪の毛とゴテゴテとしたまつげからは遠い印象を受ける。

「あら、どうして光ちゃんがこれを?」

 自らの財布が光の手にあったことに、豊子さんは驚いた様子だった。

「心当たりはないかと思います。しかし、豊子さんが気付かない内に財布は、とある人物によってスられていたのです。そして紆余曲折あって、財布は僕達の元に来たわけなのですが……」

「あら、そうなの~。返ってきてよかったわ」

 話を遮って、豊子さんが魔の抜けた声を出した。

 僕は脱力しかけるも、真剣なトーンで話を続ける。

「ここからが本題です。紆余曲折の大元である、とあるスリのことを許してやって欲しいのです。その理由はといいますと、このスリ、可哀想なヤツなのです。随分と前に盗みからは足を洗って、真っ当に働いていたのですが、数日前に重篤な病気が発覚しまして、それでその人物は自暴自棄になり、病院を抜けだして、スリをしてまった。簡単にまとめるとこういうことなのです。僕は、あまり、事件を大事にしたくないのです。後日、必ず、そのスリには謝罪にこさせますので、どうか穏便に済ませて頂けないでしょうか?」

 一気に言い終えて、僕は頭を下げた。

「あら~。それで、その人は大丈夫なの?」

「……と、いいますと?」

「重篤な病気なのでしょう?」

 賢治さんはまだ検査中のはずだろう。なので、僕は大半のことをでっち上げて話をした。

 であるからして、具体的な病名などの詳細については分からなかった。だから、修の判断が間違っていた場合、僕もけっこうな嘘を付いたことになってしまうのだ。

 しかし、その点に関しては不安をあまり抱いていない。修の判断は、最早疑いようがない程の精度だということは分かっている。

 そして、怒ることなく、なによりもスリの体を心配する、このおばあさんは優しい心の持ち主なのだと思った。

「それはプライバシーとなりますので……申し訳ありませんが……」

 だから、僕は万能の言い訳を切った。もっとも、そんなことは窃盗の被害者に言うべき言葉ではないのだが。

「ああ、最近はそういうものなのね。ごめんなさいね。――あの辺りを歩いていたということは、入院先は藤沢病院かしら?」

「ええ。そうです。ですから、僕がお話をさせてもらいにきました」

 何が『ですから』だ。たまたまだろう。

 豊子さんは嘘に気がつく様子はなく、僕の言葉を真実として少し考えを巡らせるような顔をしてから、応えた。

「そうねえ……私も藤沢さんにはお世話になったし、今回は不問にしましょう。それに、私も光ちゃんの手前、理解のある大人として、いい格好をしたいしね」

「ありがとうございます」

 僕はもう一度頭を下げた。

 僕はまた、少し、心に重くて悲しい物を抱えた気がした。

「じゃあ、一つ交換条件ね」

「なんでしょうか?」

 ここで金品を要求されたりしたら、賢治さんを売ろう。僕が交渉の決裂を伝える頃には検査は終わっているだろうし、あの人に対してそこまでの義理はない。

 そんな残酷ともいえる企みをして言葉を待つ。

「あなたたちに、また私の家に来てほしいわ」

 豊子さんが笑顔をみせて言った。

「僕たち、ですか?」

 予想外の要求に言葉に詰まる。

「ええ。駄目?」

 意図がわからないが、ここでグダグダ言って話がこじれても面倒だった。

「僕は構いませんが……」

「アタシもいいよ」

 会話の途中から不気味な程に黙っていた光が一言だけ返答をした。

「あら、よかったわ」

 豊子さんは笑顔で、お茶のおかわりを淹れてくれた。

 このお茶は上質なものだったということが、今、やっと分かった。

 思い返せば、訪問して以来、豊子さんの不快を示す表情を見ていないと思った。

 そのような、できすぎた人間性に、言葉に出来ない恐ろしさを感じた。ひどく勝手ながら。

 彼女からすれば、まったく筋違いなのだろうが、僕は豊子さんに対して、恐ろしいという感情を抱いてしまった。僕は理由がなければ他人に寛容になんてなれやしないから。




 また来ますと言って、豊子さんの家を辞する。

 その約束が口先だけのことにならないようにと、脳に、心に留める。守られない約束なんてものは大嫌いだ。

 生き物には必ず守られている約束がある。

 それは命には終わりがあるということだ。

 個人はそれぞれ、唯一の世界を持つことを許されている。

 僕達はそれぞれの死というタイミングで世界の終わり知ることが出来ることを約束されている。それは個人個人にとって宇宙が誕生すること以上の衝撃であり、とても不思議なものだと思う。

 ウザったい思考をしながら、豊子さんの家の門柱を通り抜ける。それと同時に、光が口を開いた。そのタイミングの良さは、敷地を出るという、まさにその瞬間を待ちかねていたことを思わせた。

「ねぇ。なんで豊子さんに嘘をついたの? 大体、スリの賢治さんをタクミが庇う必要なんてないじゃない」

 つまりは、賢治さんが入院すれば病院が儲かるんだ。とは言わなかった。実際のところ、僕にそんなつもりはなかったわけだし。

 ならなぜ、こんな周りくどいことをした?

 全ては修のせいだ。彼が疾病を見つける力なんて持っていなければ、僕が余計な真似をすることもなかっただろう。それに、そもそも、彼がいなければ、僕は今を生きていないのだから。

 だから、僕を生かした修は悪だ、とはならない。

 彼が悪いのではなく、周りの人間と、なによりなにも知らなかった僕が悪いのだ。僕はこの先を生きるのなんて、めんどくさいと思っている。だから、あの時に戻れるのなら僕は治療しないことを選びたかった。

 同じことが賢治さんにも言える。彼はまず、自身の疾病を知る必要がある。彼は大人で、死にたいのなら、医療を拒否すればいい。けれど、選択肢は必要だ。死のリスクを排除する、それとも受け入れる。その二つを選ぶために自らの状態を知る必要がある。

 そのための精密検査に不安を持ち込ませない為に、僕は余計な真似をしたわけだ。

 さて、ここで一つ考える必要がある。

 修が入院さんと呼ばれる理由を光に教えるか、だ。光のバックグラウンドに関して想像を巡らせる。

 高校生? フリーター? まあ、少なくとも、彼女は修を解剖して調べるようなマッドな研究者でもなければ、動物を題材にする感動のノンフィクションライターでもないだろうと思った。

 そもそも、病院関係者誰もが、修の存在を周囲に言いふらし、存在を秘密にしていることでもないので、彼女にも話をしてもいいだろうという判断を下す。

「ウチの犬はさ、人が病気に罹患しているか、否かが判るらしいんだよね。――どう? 僕の言うこと信じる?」

「へえー。うん、信じるよ。あの子、賢そうじゃん」

 彼女はノータイムでそんな反応を返した。

 実際に修に命を救われたわけでもないのに、そんな話をすぐに信じるられるのか……少し、面白くなってきた。

 そんな彼女には更にメルヘンなストーリーを教えてあげようと思った。

「修にそういう力があるんじゃないかということになったのは、彼が僕の病気を見つけたことがキッカケなんだ。さあ、これは信じる?」

「そう。それも信じてもいいかなー」

 そんな調子ではマルチ商法に騙されるぞ、なんてことを思いつつも話を続ける。

 今日の僕は何故か話を聞いてもらいたいらしい。

「僕の不調を悟った修は、僕の親父に危険が迫っていることを知らせるようとした。その手段には修も苦心したみたいでさ、家の本棚にあるアトラスに体当たりとかしていたよ。今では、病気を患っている人の服を噛んで、病院に連れてくることがサインになっているけどね。それも少し具合が悪いから、いっそのこと修も喋ってくれないかなーとか思って、翻訳機を付けてみたんだけど、まあ、あまり上手くはいなかないものだね」

「ちなみにアトラスってなに?」

「ちょっと大きな書店の医学コーナーに行くと、解剖学アトラスっていう体の資料集が売っているんだ。アトラスっていうのはもともと地図帳って意味なんだけど、そんな体の地図帳で細部に走る血管とかを勉強したり確認をするんだ。――で、修ってば、頭で僕の腹を軽く小突いてから、アトラスに体当たりを繰り返していたんだよ。笑うだろ?」

 笑い話のように話したが、実際、その時は家族皆で、修は気が触れてしまったのかと、心配をしたものだった。

「その本が医者用の本だってことを、修君は知っていたわけか。やっぱり賢いんだね。けど、伝え方に問題があると思うなー。該当する病気の本を引っ張り出して、タクミの腹の上に置けばいいじゃん」

「おいおい、君は犬の言語能力を上等に考えすぎじゃないか? しかも、修は病気を診断しているわけじゃないと思う。彼は、何かが、あるか、それとも、ないか、それを僕達に教えてくれるだけなのさ。多分だけどね」

「ふーん。診断はできないのかー」

「おそらくね。それにアトラスや症例集は国語辞典より重いものもザラで、あんなもの犬には持てないと思うな」

 そして、腹の上に落とされるのも勘弁願いたい。

 その後は他愛もない会話を続けた。

 好きな音楽の話、浪人生の生活や、彼女が高校を休んでどこで遊んでいるかなど。

 各々がどこかに潜ませている、触れてはいけないものに気をつけながら。

 僕は光を言葉遣いが荒い女性だと思っていた。それでも、割といいやつなのだと、思いを改めた。

 勿論、心に素手で触れるような会話を交わしたわけではないので、表層的な意味でいいやつと思っただけで、その感情に特に深い意味はない、なにも。


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