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消極的自殺志向者の場合9

 修の住処に寄ってヤツの足を洗い、道を渡って自室に帰ってくると、急に全身の力が抜けた。宝田さんに会ったりなんかしてしまったので、疲れたのだろうと思う。そうに違いない。

 そういえば結局、少女の名前を訊いていなかったなと思いながら、部屋から修の住処を眺めてみる。

 食事をあまり摂らない少女。

 つまり栄養素を積極的に摂取しない。

 ……もしかすると、そういうことなのか?

 抱えていた問題に対して、ひとつの仮説を思いつく。

 その思いつきの裏付けを取るために、豊子さんの知り合いである光に電話をかけることにする。

 コール音が六回ほどしたところで、携帯電話のスピーカーから眠そうな声が聞こえた。

 僕は気遣いを無視して、必要な情報を得ようと話を始める。

 家族構成や、親族の既往歴などを聞いていくも、光は一点を除いて、僕が知りたいことは知らなかった。

 しかし、その一点を聞いたことで、もう一度、豊子さんの家を訪問しなければと思った。

 僕にとって重要な何かがそこにあるかもしれないのだ。

 僕の仮設が正しければ。




 翌日。九時を過ぎた辺りで家を出て、修の住処を訪問する。

 彼は準備出来ているぜ、と言いたいかのように、『お座り』をして待っていた。

「行こうか」

 僕がそう言うと、彼はリード紐を掴む隙すら与えずに、風が通り抜けるように窓を飛び越えた。

 コイツは今のように何でも飛び越えていってしまうのかもしれないなと思う。それは羨ましく、そして、たぶん僕には真似のできないことだ。

 そうして部屋から飛び出した彼は、僕が辛いと感じることのない速さで先を進んでいく。

 目的地を教えていないにも関わらず、迷いなく、間違うこともなく。

 そんな振る舞いをする彼に訊いてみたいことがあった。

「なあ、リードは嫌いかい?」

『肯定』

「そうだよな。前からお前、狭いとことか嫌いだもんな。どこかに縛り付けられるとかも嫌だよな」

『肯定』

 引っ張られたりするのなんて大嫌いということか。いや、もしかすると、その程度では収まらずに、『俺が引っ張る側だ』なんてことを考えていたりするかもな。

 そうすると、彼を縛るもう一つのものについて、どう考えているのだろうと気になってくる。

「それじゃあ、その首輪も嫌か?」

 首輪とは彼を僕ら人間の家族として縛るものだ。それを外せば彼を野良犬と勘違いする人もいるだろう。彼の外見から漂う風格などを抜きにして、単純に首輪を付けていないという理由だけで。

『……』

 彼はなにも応えない。僕は言葉を足す。

「そのくらいは許してくれるか?」

『肯定』

 なんとなくうれしくて、つい笑いがこぼれた。

 どうやら、彼は僕たちと家族的な何かを続けるつもりはあるみたいだ。一応は僕達に愛着を持っているということなのだろうか。

「じゃあリード紐は?」

『否定』

 修は間髪入れずに鋭く吠えた。

「そこは譲れないんだな」

『肯定』

 クールな犬と会話のようなことをしながら、目的地点へと向かって農道を歩いて行く。

 傍からみれば犬を溺愛しすぎている飼い主のように見えることだろう。

 でも、僕らの間にそんな愛おしくて、それでいてなんだか嘘くさいものは存在するのだろうかと疑問に思うことがある。

 なぜなら、彼は僕の体に起きていた何かしらの異常に気がつくことができて、僕はそんなことが判別できた彼の能力を恨んでいる。かなりの年月が経った今でも、やっぱり、水に流すことはできない。それは僕の一方的で、きっと愚かな考えだから、それを伝えるつもりはない。それに、僕は決して、彼自身を恨んでいるわけではない。僕が生かされたのは父や母や、そして無邪気だった僕の意思で、彼の決断ではないのだから。

 修は判断をしない。僕達に選択肢を与えているだけなのだ。

 ――ならば、何故、僕は再びこの道を修と行くのだろうか。

 僕は当人の決断に任せることが良いことだと考えながらも、それとは相反する行動を採ろうとしている。それらが全て、僕の空想だったなら、妄想が酷すぎる医者の息子としてテレビにでも売りだそう。地方議会の意外な美人性がウケるなら、どうしようもない間抜けさだってウケたっていいと思うから。




 門柱に取り付けられた清水という門標を確認し、玄関のチャイムを押す。

 家屋から落ち着いた歩みの音が聞こえる。

 家主が近づいてきたことを確認して、息を整えて言葉を発する。

「藤沢です。度々すみません」

 僕はまだ開いていないドアに向かって話しかける。

「はいはい。お待ちになって」

 カシュッ、と鍵の動く音がして、扉がスライドしていく。所々で少し引っかかる扉にこの家と共に過ぎていった時間を感じる。

 扉が開ききると、優しく微笑んでいるように見える女性が僕に問いかける。

「どうしたの? ――あら、ワンちゃんも一緒ね。でもおかしいわね。私の疑いは晴れたのではなくて?」

 優しく微笑んでいるように見える。

 目の当たりにした今でも不健康には見えない。

「とは思うのですが、少し気になることがありまして」

 しかし、わずかだが、豊子さんの言動には違和感がある。だから、彼女の微笑が、今では優しいおばあさんのそれとは少し違うように思えてしまうのだろう。

 当然、彼女がなにも隠していないという可能性も十分にある。

 しかし、困ったことに、僕は気になることは解明しておかないと気が済まない質なのだ。

「あら、そうなの。勉強熱心だこと」

 豊子さんは口に手を当て、笑った。そういうフリをしたように僕には思えた。一瞬だが、眉がピクリと動き、口元が歪んだような気がしたのだ。

「もう一度、もう一度だけでいいので、修の検査を受けてもらえませんか?」

「そんなに言うなら、仕方ないわね……」

 笑顔を崩さない豊子さんはそう言って、サンダルを引っ掛けて、修に近づいた。

 やはり、僕の勘違いだったのだろうか? 豊子さんの足取りには動揺などの感情の揺らぎが感じられなかった。僕の豊子さんに対する疑いが、真、であるなら、彼女は修に近づいてはいけないのだ。

「どうだ?」

 修は声をあげなかった。だが、何もない空間を噛む仕草をした。僕と彼の意思の疎通はそれで完了する。

「やっぱり、お前の意見は変わらずか……」

『肯定』

 僕と修の会話を聞いた豊子さんは訊く。

「でも、病院での検査をもう一度、などということは言わないわね?」

「ええ。僕もそういうつもりでここを訪ねたわけではないので」

「そうね……じゃあ、藤沢君、お茶でも飲む?」

 家の内で話を聞かせてくれるという意味のようだ。

 僕は、「いただきます」と応えた。

 長さを縮めたリード紐で修を繋いでから、清水家に入った。

 僕は豊子さんを助けたいのではないと思う。けれど、豊子さんが何を思うのか、その話は聞いておきたいのだろう。

 そうでなければ、花粉が目に障る田んぼを通って、爆音機が耳に障る果樹園を通って再びここまで来る気にはならない。




 板張りの廊下を抜け、居間に通されて、待つ。

 豊子さんは湯を沸かすために今は台所に居る。

 少々失礼と思いつつも、居間の様子を観察する。

 僕のそこまで長くはなく、短くもない病室の記憶と称号すると、ここは昼過ぎに街で腕を骨折し、運ばれ、局部麻酔をして手術をした後の患者様の部屋のようだった。形の上では一応、緊急入院になるので、不測の事態に備えてキープしてある個室に入院することになる。けれど、腕の骨折程度では翌日即退院であるため、病室に運び込まれる物はなく、備え付けの設備のみしかない。そして、あえて、家族が付きっきりで見舞うような症状でもないので、室内の呼吸音は一つ。だが、それは短期的な生活において形成される空間であり、清水家のように扉が軋むほどの歳月を経た家の居間にはふさわしくない風景だ。簡潔過ぎて、人の住む場所という気がしない。

「――さて、何が訊きたいのかしら?」

 いつ戻ってきたのだろうか。湯呑みを僕の前に置いて豊子さんは言った。

 この部屋の侘しさを改めて確認し、彼女への疑惑は確信に変わった。

「豊子さん、検査値を誤魔化したでしょう」

「さて? なんのことかしら」

 応える顔は優しそうな笑みだ。――そう思う。この顔は彼女なりのポーカーフェイスなのかもしれない。そういえば、僕が豊子さんの別の顔を見たのは、病院とドアを閉める時に見た、妖艶さを感じたあの顔だけだ。

「これでも、医師の息子です。糖尿病患者が検査値を誤魔化す為によくやる方法くらいは知っています。前日にまるまる三食抜くんです。そうすると、軽い飢餓状態になり、見かけの血糖値は正常の範囲に収まります。余談ですが、糖尿病は軽度の内に発見しておけば、腎臓を壊さなくて済むので個人的には、ごまかすのは止めたほうがいいと思うんですけどね。それで、そういうことを見ぬくためにあるのがヘモグロビンA1cという検査項目です。これは一ヶ月くらい前の平均的な血糖値を反映します。つまりは、このヘモグロビンA1cという数値を短期間で誤魔化すことは難しいのです。そういうことを豊子さんはどうやらご存知みたいでしたが、どこで知ったのですか?」

 僕の質問に豊子さんは笑って応える。

「駅前の怪しい薬局よ。分かるかしら?」

 薬事法ギリギリの表記をした商品を扱っている店はこの辺りにもいくつかある。

『パンを食べて血糖値を下げよう』食物繊維の機能性の拡大解釈にも限度がある。

『これを飲めばヘモグロビンA1cが下がる』血中成分を容易に分解するお茶って怖いな。

 ――などと思うことがあった。

 僕は豊子さんの言葉に微笑で返した。この表情をする意味を、呆れと取ってくれたのかは分からないが、彼女は話を続けた。

「第一に、私は糖尿病ではないけれどね」

 彼女は相変わらず微笑を携えて、言葉を発した。

 その表情にわずかな恐怖を感じながら言葉を続けることにする。

「ええ。検査に引っかからなかったわけですし、もちろん腎機能は正常でしょう。ですが、豊子さんの場合、通常、高いことが問題とされる数値が低すぎるんですよ。端的に表現するなら、かなりの低血糖が長期にわたって継続していることが示唆されます。それに加えて、アルブミンの値もなかなかに低値だ」

 もっとも、アルブミン値が低いのは高齢者の方々には往々にしてあることなのだが。

「藤沢くんのいうことは私には難しくて理解できないわね」

 僕は豊子さんが嘘をついていることを確信し始めていた。

 これはヘモグロビンA1cの概念を把握しているならば、理解の範疇の内容だ。それを一日ですべて忘れるものか。

「そうですか。では長期的には低血糖で、栄養失調であるはずの豊子さんの血糖値は何故、検査日において至極、正常だったのでしょうか。食事から時間を空けて検査をしたから? もちろんその場合も正常値が検出されるはずとは思いますが、豊子さんは違いますよね?」

 僕は豊子さんの表情を盗み見た。

 彼女の表情は妖艶さを増していたように感じた。

「そこで僕は一つの仮説を立てました。豊子さん、わざと検査の前に何かを大量に食べたのではないですか? 理由は簡単、検査値を誤魔化すために、です」

「どういう意図を以て、そんなことをするのかしら? わざと血糖値を上げて検査をしてもらうなんて、まったく意味ないじゃないの」

 確かに普通に考えたなら意味はない。

 でも、その人間が、僕みたいなことを考えるような人間なら話は別だ。

「意味はあります。豊子さん、失礼を承知で言います。積極的に死にたがっている。けれど、それを他人には悟られたくない。そんな人はそういう行いをするのではないかと、僕は思います」

「死にたがっている……随分とひどい言い方ね」

「ですが、僕にはそう思えて仕方がないのです。貴方はほとんど食事を口にしていないはずだ。だから継続的に低血糖で、たんぱく質の値も不足、なんて数値が検査結果に現れるのです」

 僕が光に電話をして、豊子さんについて聞き出せたことは殆どなかった。

 少し前に豊子さんの夫が亡くなったという一点を除いて。

「多少は事情を知っているということかしら。――そうね、あまり食事を摂らないのは事実よ」

 彼女は目に光を宿して言った。

 修が読み取ったのは、おそらく、この光だ。

 僕にはそれが、とても怪しげで、魅力的なものに感じられた。

 それには、多分近寄ってはならないのに、近寄らざるをえない。

 あと一歩で届きそうで、その一歩を踏み出したのなら、きっと戻っては来られない。

 向こう側には何があるかといえば、僕の宗教論とかそういう観念的なものさしでは、何もない。

 無だ。

 それが救いで、誰もが等しくたどるべき道なのだ。

「体を維持するのに必要なカロリーを下回れば、特殊な疾病でない限り、人は痩せます。あまり、過剰に削ると周りに感づかれますよ。脂肪に含まれる水分の割合を考慮すると、体重の変動がない状態から一日、二〇〇キロカロリーも減らせば、適度な減量が可能です。豊子さんの場合、その倍の四〇〇キロカロリーくらいを減らすことで、自然な終わりを演出できるかと思います」

 豊子さんは僕の話を少し意外そうな顔をして聞いていた。

 そして、一つ声を出して笑ってから、言葉を発する。

「周りですって。藤沢くんはおかしなことを言うのね」

「といいますと?」

「どこに私にとっての周りがいるの?」

 僕は何も応えられない。

「誰に気が付かれるというの? 誰が気づくっていうの? 貴方だって、あの子を連れていなければ、私に関心なんて持たなかったはずだわ」

 僕はなんと言えばいいのだろうか。分からなかった。

 黙っていると、豊子さんが続ける。

「いえ、勘違いしないでね。別に藤沢くんに文句を付けたいというわけではないの。私が少しだけ長生きしすぎただけなのよ」

 豊子さんが息を吐いて、お茶をすする。

 僕もそれを見て、緊張で乾いた喉を潤せることを思い出し、お茶を飲む。

「それにしても、貴方は止めたりしないのね」

「ええ、僕も程度は低いかも知れませんが、そういうことを考えたことがあります」

 そう言って、僕は消極的自殺志向の考え方などを語った。

 少しは豊子さんと合い通じるものがあると思ったからだ。

 対して、豊子さんの反応はこうだった。

「私は確かにそういう考えを持っているかもしれない。けれど、貴方は私とは違うと思うわ」

 何故、豊子さんはそんなことを言うのか。わからない。

「簡単なことよ。だって、もし君がそういう考え方を持っているなら、あの子、修くんがいつも一緒にいる藤沢君に反応しないのはどうして?」

 どきりと心臓が鳴るのが分かった。

 確かに、僕が真に死に近ければ、修が僕を病院に連れて行かないのはおかしなことだ。

 どういうことだ? なぜだ?

「確かに貴方の目を見れば、いろいろなことに悩んでいることは判るわ。でも、ゆっくり考えなさい。だって、貴方は私と違って若い。答えを急がなくてもいいのよ。どうせ、歳をとれば勝手に世界が早送りになるのだから、今は急ぐ必要なんてない。存分に悩んで、少し休んで、気が向いたら何かを始めればいいの。だから、簡単な答えにすがるのはまだ早い。私はそう思うわ」




 豊子さんの修に関する問いに明確な回答を見つけられないままで、僕は彼女の家を辞した。

 玄関口には、柱につながれ不服そうな表情をした修がいた。

 彼を縛るものを解いてやる。

 実際、その気になれば逃げることは容易いはずなのにも関わらず、彼がそこに居ることに安心をする。

 僕は手のひらの痛みに気がついた。いつからか、爪が食い込むくらいに手を握っていたみたいだ。

 通りを吹き抜ける風が冷たい。周りは果樹園やら田んぼばかりで、遮蔽物が少ないためにそのように感じられるのだろう。

 季節は既に冬の一歩手前だ。次第に山も汚い朱に色づき始める。

 紅葉を樹木という単体で考えるならば、それは生まれ変わりの始まりと言えるだろう。しかし、その葉っぱたちにとっては、死だ。逆に、少しマクロ側に視点を移して、山という集合体に着目すると、搾取になる。腐った葉っぱは山の豊かさに貢献する。

 なら、僕が死んだら、どうなるんだ?

 生まれ変わりか、無か、それとも栄養か。

 分からなかった。

「なあ、修、僕はヤバくないのか?」

『肯定』

 僕は、無を求めていたはずだ。クリスマスを祝ったり、度々神に祈ったりもする。けれど、自殺は禁忌ではなく、輪廻もないと考えている。

「本当に、全く?」

『……』

「そこまでヤバくない?」

『肯定』

 翻訳されるまで少し時間がかかった。言い淀んだとも思えるが、それは、機械の調子が原因なだけであって、僕にとって都合の良い勝手な思い込みだろう。

 初期がんやリストカットと並列に置いて比較した際に、修が死の匂いの優先順位を迷うくらいの、強い死への意思は尊重されるべきだと、そう思った。

 そして、僕の小賢しい意思程度では豊子さんの考えには遠く及ばないみたいだ。

 僕もそういうナニカを。

 失ってしまうことで、器質疾患、精神疾患に及ぶくらいのナニカを手にしてみたいと思った。

 だって、修によると、僕はまだ死ぬ気が足りないらしいから。

 きっと、ジョーシキを振り切るほどの愛だけが自殺を許可させる。

 僕が考えるに、愛には自己愛と他者愛の二種類に大別できる。

 そして、その中にも、高尚な愛と低俗な愛があると、僕は思う。

 低俗な自己愛、他者愛、そして、高尚な他者愛が自己を殺す。

 高尚な自己愛が自己を殺すときは無い。なぜなら、そんな精神性の人は、他者を圧倒するプライドで人を導いていく。そして、たぶんそれで手一杯になっているから。

 自己愛が当人を死に向かわせるときは、いつの時代だった低俗な理由だった。死して自らに残るものはなにも無い。その選択の先には何も存在しない。証明は出来ないけれど、きっと。

 好きな人が自殺をしたとしよう。その人を恨んではいけない。その人の中での最優先でなかっただけのことだ。低俗な自己愛ゆえの自殺は当人の自由だ。勝手にすればいい。

 愛する人が自殺をしたとしよう。その人を恨んではいけない。その人の中で圧倒的な最優先だったのだ。高尚な愛ゆえの自殺はとても悲しい。

 なんだかうざったくて、思いつきでよく説明できない概念的なことを考えてから修を見ても、やはり現在も僕を病院に引っ張っていく気はさらさら無いようだった。

 僕はそのことにほんの僅かの希望を覚えながら、自宅へ帰る。

 医師は相手の意識がなければ勝手に助けなければいけない。

 人の身をメスで切れるんだ、そのくらいの制約はあったっていい。

 でも、僕はやっぱり、そうは思い込めない。そんなことは出来ない。

 今の僕にはキケンが無いと修が教えてくれた。

 ――だけど。




 自室のベランダに出て煙草を吸っていると、廊下の軋む音の前触れもなく、ドアの開く音がした。

 こんなふうに無音で廊下を歩いて僕の部屋を訪れるのは一人しかいない。

 物音の人物を想像しながら、煙草の灰を落とさないように気をつけて振り返ると、想像に違わぬ人物がそこにいた。

「おじいさん、ノックぐらいしてくださいって何度も言っているでしょ?」

 僕の祖父であり、S市藤沢病院の病院長であらせられる、藤沢雄その人だ。

 ちなみに父の名前は広志。三代揃って規模の大きい名前を貰ったものだ。

「私とお前の仲じゃないか、ノックなど必要ない」

「はいはい。そうですね」

 祖父には何度言っても無駄なことは知っていた。ただの恒例のやり取りを済ませると、祖父が切り出した。

「拓海、お前は最近、修の散歩をしているようだな」

「はい。それがなにか?」

「私の日課を奪いおって……おかげで病院を抜け出す口実を一つなくしたではないか」

 日課だって?

「ええと、おじいさんが修を散歩させていたとは本当ですか?」

「もちろんそうだ。と言っても、私が修を散歩させていたのは夜だがな。お前な、あんな黒い犬が紐も付けずに町を徘徊していたらマズイだろうが。……まぁ、昼間の私が見ていない時でも、たまに脱走していたようだが……」

 多少は修の単独行動もあったようだ。だがその散歩の多くの時に祖父も付き合っていたというのか?

「じゃあ、町から患者様を見つけてくるのはおじいさんの力なんですか?」

「そんなわけなかろう。あれの嗅覚は特別だ」

 全ては僕の妄想であったわけでなく安心した。

「そうですか」

「ああ、そうだ。だがな、私だって長い経験がある。だから、生きたがっている人間と死にたがっている人間の違いくらいはわかるぞ、なあ、拓海よ」

「……何が言いたいんですか」

「最近のお前は、なんというか、『際』だった。だがな、今は良い顔をしておる」

「はあ……そうですか。自分ではよくわかりませんが」

「そうだ。何があったかは知らんが、お前は少し変わった。だから、これはもう必要ないだろう」

 そう言って、祖父はカラーボックスの上に置いてあった煙草のカートンを二つ拾い上げ、僕の部屋のドアは半開きのままで、さっさと出ていった。

 まったく、結構な歳のくせに素早いものだと、呆れ半分で感心をする。

 きちんとドアを閉め、もと居た場所に戻ろうとすると、カートンのあった場所に紙幣が一枚置いてあるのに気がついた。

 意外と分かっているじゃないかと思い、僕はそれを拾い上る。

 しかし、それは五千円札だった。

「おい、クソジジイ。いつの時代の金銭感覚してるんだよ……」

 値上げする前でも二カートンを買上げるには足りないが、まあ、でも気にしないことにしよう。勿論、自分でも吸うのだろうが、あれは屋上で終末期の患者様と語らう為に使われるはずだから。

 情報が錯綜する。自分は何も知らないという発想にならない。

 けれど、僕が理解していることなんて大した規模じゃなく。

 今までは、それで、よくて。

 きっと、これからは、それで、よくない。

 心が震えるような喜びを得たいのなら、

 自分を愛し、他者も愛せってことなのか。

 今さっき気がついたのだけど、僕は人の為に走りまわるのが嫌いじゃないみたいだ。


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