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入院さん

 俺は病室に住んでいる。

 それは人間の時間にしてはとても長い間で、俺の時間に直してもやはり同じ事だった。

 俺の名前は――ま、そんなことはどうでもいいか。

 人は俺のことを『入院さん』と呼ぶ。

 もしアンタが俺とどこかで出くわすことがあったのなら、そう呼んでもらうと助かる。俺の本当の名前は平凡なものであるため、このあだ名はわかりやすい。

 病室に住まわされるなんて、最初はめんどくさいことになったと思った。だが、懐刀の住処を病室なんて意外な場所に拵えるボスは大物だと考えてやらんこともないのだが。普段は病室で過ごし、彼の命令があれば、街で仕事をしてくるというわけだ。

 ボスは俺に汚れ仕事ばかりを押し付けてくる。もっとも、俺が仕事をすることで彼の苦労も増えるのだ。つまり彼はワーカホリックに違いないのだろう。そんな彼に付き合い続ける俺も変わっているのかもしれないが、こちらにもそれなりの理由はあるのだ。

 俺の仕事を一言で表すならば『街にはびこるキケンを嗅ぎつける』というところだろうか。ソイツをボスに密告し、その後にボスは『キケンを払う』という手はずになっている。

 簡単に言ってしまうのならそんな関係性だ。

 俺がいなければボスは機能しにくい。

 反対にボスがいなければ俺の存在価値がない。

 悪くない関係性だと思わないか?

 今日も街から『キケン』の匂いがした。

 俺は病室から外界へ飛び出す。

 さて、すぐにでも街へ駆けていこうと思っていたのだが、病院の花壇に水をやっている女が話しかけてきた。

 俺はこの女が苦手だ。そして友人の『ヤツ』も彼女を苦手だと言っていた。

「あら、入院さん、お仕事?」

 俺とヤツ二人がこの女を苦手としている。つまり俺たちに問題はなく、この女こそが問題なのだ。

「関係ないだろ」

「しっかりね」

「黙っていな。お前たちはここで大人しくしているんだな」

 女は何がおかしいのか、クスクスと口に手を当てて笑っていた。

 こちらからしてみれば、不自由なく満ち足りた日常のなかであえてわざわざ花に水をやるなどという余計な仕事をしている女のほうにこそ疑問を感じる。そういうことする必要がある人間は他にいくらでもいる。

 ここで女に意見しても意味がないので、俺はキケンの元へと向かうことにする。

「頑張ってねー」

 背後から女の声がする。

 わずかに向けた視線の端で女が手を振るのを捉える。

 まったく、本当に鬱陶しい人間だ。




 キケンの匂いがする場所に向かって街を歩いていると、人々は俺を注視してくる。

 そんなに俺が気になるのか。

 カーブミラーに反射して見える俺の黒ずくめの姿はいつにも増してキマっていた。このキマリ具合ならば、いくらでも見てもらって構わない。

 十秒後の世界にキケンが迫ってくることを嗅覚が感じ取った。

「そろそろか……」

 俺はそれを駆け足で六秒に圧縮する。

「わっ、びっくりしたー」

 対象の前に飛び出して急停止すると、目の前のソイツは間抜けな声をあげた。巷の人間は反射神経が鈍っているようだ。

 相手の姿を確認する。キケンを含有するのは生涯の拍動数では俺の半分にも及ばないであろうことが、その姿形から伺える小さな女だった。

 俺は女と目線が合うように首を傾け、言う。

「お前、顔色が悪いな。でも、安心しな、なにも言わずに俺について来ればいい」

「アナタ、凛々しい顔をしている」

 そう言った女が俺の顔に触れてこようとしたので、頭を振って拒絶する。

「バカにしているのか?」

 だが、コイツから香るキケンの匂いはなかなかのものだった。この調子では事態は急を要するだろう。

「視線を逸らさないで」

 女が俺の目を覗き込む。

 丸く、くりくりとした目はこの女の鬱陶しい性格を予測させるものだ。

「めんどくせぇガキだ」

 今は戯言に付き合っている時間が惜しかった。

 だが、俺の焦燥は伝わらなかった。小さな女の手が俺の顔に伸び、顎を押さえつける。

「こうすると、少しマヌケにも見えるわ」

 クソ、離せ、何をする。

「お前が顔を掴んでいるせいだ。それより、ちょっと来い」

 だんだんと苛立ってきた俺は手を振り払い、ガキの服を引っ張る。

「ちょっと、なあに?」

 俺はそれには応じない。無言でガキを一度放してから、顎を進むべき方向へ振って、そちらへの進行を促した。

 ガキは含み笑いをしてから、何かを悟ったように頷いた。どうやらついてくる気になったらしい。

「ホント、簡単で困るぜ」

 俺は独りごちる。

「何か言った?」

 返事の代わりに随分と素直なヤツだと鼻を鳴らす。

 ガキはトコトコと小さな歩幅になり、俺の少し後を付き従ってくる。

 俺の嘲笑に気がついているのかは分からないが、ガキはニコニコしながら俺に付いて来る。

 ――まったく、チョロイもんだ。

 少しの間、ガキ相手に苛立ったことは、ほんのわずかな気の迷いだろう。




 ガキを病院の所定の場所まで連れて行くと、合図をした。

「あ、入院さん」

 合図に応じたのは、住処から出た時に遭遇した女だった。

「やっとけ」

 少々疲れていたので、ここから面倒な女に付き合わされるのは勘弁願いたかった。一言残し、余計なおせっかいを焼かれる前にその場を立ち去ってしまおうと考えていた。

「はいはい。後は任せて――ありがとう」

 彼女の目が真剣なものに変化したのを確認した。普段の態度はいかがなものかとは思うが、それでもさすがにプロフェッショナルだ。俺は安心して住処へと引き返した。



 ――――



 少女は閉鎖されていると聞いている病棟の窓から飛び出した存在があったのを認めた。そのことに関して、担当の看護師に訊ねた。

「そういえば、私をここに連れてきてくれた彼は何なの? いつも病院にいるの?」

 矢継ぎ早の問い掛けに看護師は苦笑することもなく応える。このような質問を過去何度もされたことがあるのであろう。

「彼は『入院さん』という愛称の付けられた、藤沢病院長の愛犬よ。その理由、貴女なら分かるわね? あの子は入院してもらう必要がある人を引っ張って連れてくるから『入院さん』と呼ばれているのよ。真っ黒の毛並みがとっても可愛らしいでしょう?」

「そうだね。初めて会った時にあの子、私を見上げてきたの。その時の凛々しくて、でも少しマヌケな顔はとっても素敵だと思った」

「あら、そうなの。それを聞いたら彼も喜ぶと思うわ」

 少女に応える看護師の顔は緩んでいた。

 少女は『入院さん』とまた会いたいと、そして、その際にはまた顔をいじくってやろうと思っていた。

 入院さんは何か不愉快なものを感じてくしゃみをした。


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