道化
ゴールデンウィークより少し前のこと。
いつもなら四人で遊ぶとき以外呼ばれることが無かった美緒の家に、初めて俺一人が呼ばれて。美緒に惚れていた俺は、心拍が上がったまま、汗をだらだらと掻いていた。美緒の両親は共働きで、少なくとも日没までは返ってこない。そこまで期待している訳では無かったが、二人きりになるのかと妙に意識していたことも事実で。
インターフォンを鳴らすと、俺が失念していた人物に出迎えられた。
「こんにちは、麻井さん」
俺が一人で来ることを美緒から聞いていたのか、彼女はニヤニヤしながら俺のことを見ていた。
「……こんにちは、美鈴ちゃん」
かろうじて、そう返すのが精一杯だった。多分、表情もおかしなことになっていたことだろう。俺の様子を見て、彼女が噴出した。
美鈴ちゃんは、美緒の一つ下の妹だった。普段は俺達が遊びに来ても部活でいないことが多かったので、失念していたのだ。
彼女には、どうやら俺が美緒に惚れていることを気付かれているみたいで。俺が一人で来て浮かれていると思っていたのだろう。まさしくその通りだったのだが。
「さあ、入って。美緒姉はさっき帰って来て、今着替え中なんで──覗いて見ます?」
「ぶはっ」
思わず噴出す。
なんてこと言いやがるんだ、こいつは。
「ふふっ。冗談、冗談。ささ、どうぞ」
彼女はニヤニヤ笑いながら、俺をリビングまで案内してくれた。
三LDKのこのマンションは、リビングがかなり大きく設計されていて。寝る時以外はほとんどリビングで生活していると言っていた。
「いらっしゃい」
美緒はカウンターキッチンで飲み物を用意していた。着替え中、という言葉から既に嘘だったのか。……別にそのシチュエーションを期待していた訳では無いけど。
「おう」
俺は、照れ隠しにちょっと横柄に返事をしてみせる。
正直、美鈴ちゃんがいてくれて助かった。もし二人きりだったら、俺は普段どおりに出来なかっただろう。
リビングのローテーブルを囲んで、俺達は座った。
「あたしもいていいの?」
飲み物が三人分用意されているのを見て、美鈴ちゃんが目を丸くした。
「駄目って言っても居座るでしょ? ……それに、美鈴にも協力をお願いするかもしれないから」
協力?
まぁ、態々俺一人を呼んだ訳だし、美緒には何か計画があるのだろう。
「作戦を立てたいのよ」
美緒がちょっとマジな目付きになる。
この段階で既に、俺の意向に沿わない話なんだろうな、ということは察しが付いた。彼女が何かをやろうとしていて、俺はその協力者として期待されている訳だから。
「実はね、あたし……武のことが好きなの」
やっぱり、そういうことなんだな。だから、
「えっ?」
と声を漏らしたのは俺ではなく、美鈴ちゃんだった。彼女が動揺しているのが手に取るように判った。
「あら、意外? それとも、美鈴も武のことが好きだった?」
美緒の問いに、美鈴ちゃんは首を振った。
「いえ、そういうことじゃ無いんだけど……」
彼女はチラ、と俺の方を見る。それでは美緒にバレてしまいそうだと、美緒の注意を逸らす。
「それで、計画って?」
出来るだけ、穏やかに、ゆっくりと問う。俺の動揺は絶対に見せる心算は無かった。
「具体的なことはまだ考えていないのだけど。あたし、武に告白してみる。雅晴には、その援護射撃をお願いしたいのよ」
「ふむ……そうだなぁ」
俺は、顎に手を当てて、方策を思案。
美緒は俺の方を見ていたので気付かないみたいだったが、美鈴ちゃんは悲しげに俺を見ていた。
「美緒が告白して、直ぐにOKして貰えそうになかったら、──武が付き合ってくれると、俺が美月と付き合い易くなるんだ、とか言って見るかな」
俺の言葉に、姉妹の表情は対照的だった。
「ほんと? そうしてくれるとすごく助かる! ……もちろん、告白してすぐに断られたらそこまでなんだけどね……」
沈んだ調子になる彼女に、
「それは無いと思うけどな。武も美緒のことを憎からず思っているだろうしさ。不安なら、すぐに返事をくれなくてもいい、って言えばいい」
俺はポンと肩を叩き、励ます。彼女が悲しそうにしているところを見たくは無かった。
「なるほど……。でも、いいの?」
「俺も、美月のことも憎からず思っていたからさ。いい機会だよ。男女四人集まって、恋愛沙汰にならない方が不健全だし」
俺は軽く請け負った。
正直、自分でもどんな顔をしているのか判らなかった。だけど、美緒は自分に都合がいい話に夢中になっていて、多少のことは気にならない様子だった。だから、
「お姉ちゃん、お母さんからお使い頼まれてなかった?」
美鈴ちゃんの表情も声色も固かったけど、美緒は全く気付かなかった。
「あ……、あーっ!? すっかり忘れてた……。美鈴、代わりに行ってくれないかな?」
焦る美緒に対して、美鈴ちゃんは怒ったみたいに顔を背けた。だから、彼女が涙目になっていたことにも気付かない。
「嫌よ。この前も、あたしがお姉ちゃんの代わりに行かされたじゃない」
「あ~ん……。雅晴ごめん、あたし、ちょっとお使いに行って来る。すぐに戻るから待っててくれるかな?」
「ああ、大丈夫だよ」
俺に見送られて、美緒が出て行った。
リビングでは、美鈴ちゃんは気まずそうに俯いていた。
「麻井さん……あなたは、それでいいんですか?」
「それで、って?」
俺はとぼけて見せるのだが、
「とぼけないでよ! 麻井さんは、美緒姉のことが好きなんでしょう!?」
声を荒げて、彼女は俺を見つめた。その目から涙が零れる。彼女は、俺に同情して、泣いてくれているのか。
「……やっぱり気付かれていたか。でも、俺のことはいいんだよ。美緒の幸せが、俺の幸せなんだ。だから、美緒の望みは、俺は叶えてやりたい。だから、いいんだよ」
「そんな……そんなのって無いよ!」
美鈴ちゃんは立ち上がって、彼女ら姉妹の部屋に飛び込んで行った。
後を追うが、寝室でもあるその部屋に、勝手に入る訳にも行かず。部屋の前で、彼女に呼びかけた。
「美鈴ちゃん……俺のことは、気にしなくてもいいから。だから……」
「麻井さんのばか! うわあああああん……」
号泣されてしまった。
彼女が、俺のどこにそこまで同情を寄せているのかは判らなかったのだが。俺が、平気そうにして見せたことが、彼女の感受性を傷つけてしまったのかもしれない。
俺はまたローテーブルまで戻り、美緒が用意してくれた紅茶を一気に飲み干した。油断したら、俺まで泣いてしまいそうだ。だけど、ここは美緒の家で、彼女はもうすぐ戻ってくる。少なくとも、自分の家の戻るまでは、泣くわけにはいかない。
だから、俺は美月のことを考えることにした。美月も、いろんな意味でいい女なんだ。俺も、彼女のことを好ましく思っているのは本当で、美緒がいなかったら美月に惚れていただろう。だから、何も悲観することでは無いんだ。美月でも、俺には贅沢すぎるくらいなんだから。
などと考えていると、美緒が戻ってきた。
「ただいま~。……あれ、美鈴は?」
彼女は買い物袋をカウンターに置くと、辺りを見回した。
「……ああ。美鈴ちゃんは、なんだか気分が悪くなったみたいで、自分の部屋に篭っているよ」
俺の言葉に、美緒は微妙な表情になって。
「まさか雅晴、美鈴に変なことしてないでしょうね?」
とんでもないことを言い出した。
「してねぇよ!」
いくらなんでもあんまりだ。思わず涙目になってしまった。
翌日になっても、健気な俺に対する美緒の疑いは晴れてなかった。
美緒は俺の席まで来て、昨日の美鈴ちゃんの話を蒸し返した。
「変なことって、いかがわしいことの意味で言ってる訳じゃないのよ。ただ、あれから美鈴の様子がおかしいのよ。あたしがいない間に、何か話をしたのかな、って」
そう言われても、俺からは何も言えず。
「本人に聞かなかったの?」
「聞いては見たんだけど……。『何かあったの? 何かされたりしたの?』って聞いたら、『お姉ちゃんは、あんないい人のことを本気で疑ってるの!?』って張り倒されそうな勢いで詰め寄られて、怒らせてしまったの。それから口も利いてくれなくて……」
思わずため息が漏れる。美鈴ちゃんに聞く時点までは、いかがわしい意味で疑ってたんじゃないか。
「……昨日の『作戦』のことじゃないかな。俺達の卑怯さに胸を痛めた、とか」
「うっ……」
美緒は、卑怯と言う単語にショックを受けた様子。そしてため息を吐いた。
俺の耳元に顔を寄せる。
「まあ、いいわ。作戦は、今日から実行に移すわ。あたしが行動して、もし脈がありそうだったら。近日中にあなたもお願い」
俺は美緒との距離感に内心どきどきしながらも、力強く頷いて見せた。
翌日、俺は武の家に誘われた。武は相談したいことがある、とだけしか言わなかった。この様子だと、作戦はうまく行っているのだろう。
武の部屋で、缶ジュースを開け、意味も無く乾杯して。
一気に飲み干して少し落ち着いたのか、武はため息を吐いた。
「……実はな……美緒に告白されたんだ。俺のことが好きだ、って。付き合って欲しい、って」
武は、少し照れたように、俺にそれを報告した。嬉しくない訳じゃあ無いみたいだな。
「へぇ。よかったじゃないか。あいつ、いい女だし、いいやつだからな。それで、どうするんだ?」
「……どうしようか、悩んでいるんだよ」
悩む理由。それは、俺達四人の関係を心配しているのか。それとも、他に好きな女がいるのか。後者だとすれば、俺にとっては都合がいい話だったのだが、俺は既に美緒と約束をしてしまっていた。それを裏切る訳にはいかない。
「俺達のことだったら、気にするなよ。──というか、お前達が付き合ってくれた方が、俺としては助かる」
俺は意地悪く、ニヤリと笑って。
「……お前、美月のことが……?」
誘導に引っかかった武に向かって、俺は頷く代わりに、声に出して笑ってみせた。
「そっか……」
武は、暫く神妙な顔つきで思案して。そして、膝を叩いた。
「そうだな。そういうことなら、決断は早い方がいいな。俺、美緒と付き合うことにするよ」
ゴールデンウィークの前日。放課後、休み中はどうしようかと、俺達だけ残って話すことになった。
教室には俺達四人以外はもう誰も残っていない。
「計画を立てる前に、重大発表がある」
武の発言に、美緒は照れたように少し俯き、美月は何事かと目を丸くして。
「よっ、待ってました~」
囃し立てる俺に、武はニヤリと笑みで応えた。
「俺、美緒と付き合うことになった。だけど、これからも俺達をよろしくな」
宣言して、武はペコリと頭を下げた。美緒も、それに倣う。
美月は、驚いて目を見開き、暫く固まって。やがて不満そうに口を尖らせた。
「……それ、私だけ知らなかったのね。なんか複雑~」
美月は拗ねて横を向いた。俺は、拗ねていても美月は可愛いなと正直に思った。だから、これから遊ぶ計画を立てるというのに、後先も考えず、行動に移した。
「美月……こんなついでみたいなタイミングで言うのもどうかと思うし、あぶれ者同士だからという訳でも無いんだが。──俺と付き合ってくれないか?」
相手が美月だったから、俺は落ち着いてこんなことが言えたのだと思う。
美月は、最初何を言われたのか判らない様子だったが、やがて耳まで真っ赤になった。
「え? ええっ?」
美月は俺を直視できず、武と美緒を見て。彼らがニヤニヤ笑っているのを目にして。
「こっ、こんなのって酷いよ。あたしだけ除け者にしてさ。あたしにだって、ゆっくり考えさせてよ!」
美月にとり、俺なんて即応する相手では無いことは判っていた。だが、拒絶するほどでもないということか。
「まぁ、すぐに答えてくれなくてもいいから。少しでもいいから、考えてみて欲しい」
穏やかに言う俺に、彼女は頷いてくれた。
連休中、俺達は毎日一緒に遊んだ。美緒の家に集まったときは、美鈴ちゃんは複雑そうな表情で俺達を迎えたのだが、それでも何も言わずにいてくれた。
時には、武と美緒を二人きりにするために、俺と美月は先に帰ったりもした。そんな日は、美月はまだ返事はくれなかったのだが、それでも俺と二人で夕方まで過ごしてくれた。
ゴールデンウィーク最終日、皆で遊んだ後。
美月は別れ際に、
「この前の返事なんだけど。私でよければ、彼女にしてください」
と俺に言ってくれた。
武と美緒は、
「よかったよかった」
と俺の肩や背中をべちべち叩いたのだった。だが、あまりにしつこく叩くものだから、
「だーっ、うぜえ! 美月、こいつら置いてとっとと帰ろう」
美月の手を取り、その場から離れたのだった。
背後の冷やかしを他所に、
「家まで送るよ」
少しでも彼氏らしいところを見せようと柄にも無いことを言ってみたりして。
「……うん」
美月も微笑んで頷いてくれた。
それから暫くは、見かけ上は普段どおりだった。
暇なときは、四人で集まって遊んで。テスト前には四人で集まって勉強して。
いつも四人で行動していたから、誰も俺達の、関係の変化に気付かなかった。
だけど、そのことが美緒には不満だったらしい。
学校の中でも、武とべたつき始めたのだ。
俺達は元々校内でも仲良く過ごしていたので、暫くはそれでも気付かれなかったのだが、やがて女子たちの間で噂が広がって。
直接美緒のところに聴きにくるやつまで現れて。美緒がそれを肯定したことから、皆に周知されてしまった。そして、少し遅れて俺と美月のことも周知されたのだった。
そこまで来ると、逆に四人で集まることの方が不自然な空気になって。たまには四人でも集まったりしたが、二人でいることの方が多くなった。
夏休みに入っても、その状況は変わらず。遠出するときは四人一緒に遊んだが、そうでないときは、毎日では無かったのだが、それぞれのペアで過ごした。時には偶然遭遇することもあったが、合流するでもなく。
俺は美月と二人で過ごすことに不満は無かったのだが、それでも美月の様子はよく見ていて、彼女の変化に気付いては居たのだ。別に彼女が不満そうにしている訳でも無かったし、何か言われた訳でも無かった。ただ、俺と二人でいるときは、妙に大人しかった。四人で集まっていたときは、もっと元気で、よく笑っていた。俺と二人だと、静かに微笑んでいた。単に、俺がつまらない奴というだけの話なのかもしれないが。
だが、それは美緒の方でも同じ状況らしかった。武は、美緒のことを恋人として扱ってくれてはいたのだが、やはり普段とは様子が違うらしいのだ。美緒の方が、観察歴は長い。美緒の話を聞いて、俺の不安は懸念に変わって。そしてそれは、確信に変わる。
一緒に遊ぶ約束をしていなかったある日。俺は、武と美月が二人で会っているところを偶然目撃してしまったのだ。
初めはただの偶然かと思ったのだが、尾行して、偶然近くまで寄れたとき、彼らの話を聞いてしまった。
「俺、美緒の言うとおりにしている心算なんだけど、うまく答えられていないみたいなんだ。やっぱり、気持ちが入って行かないのかな。俺、美緒のことも好きなんだけどさ。──本当は、美月のことが好きだったんだよ」
武の言葉に、美月は泣き出してしまう。
「私……あなたが美緒と付き合うって言うから、あなたのことを諦めたのに!」
そんな話、俺は美緒には言えなかった。
だから、美緒には、
「武に美緒の気持ちを押し付けるだけじゃなく、武の望むように美緒も頑張るんだ」
くらいのことしか言えなかった。
美緒にその話をした後。帰り道で、美鈴ちゃんに会って。
「あの人とはうまく行っているの?」
悲しげに聞く美鈴ちゃんに俺は、
「口にこそ出さないが、彼女は俺を拒絶している。心を開いてくれるのが先か、破綻してしまうのが先か。俺にも判らないんだ」
そう答えることしか出来なかった。
だけど、世の中は残酷だった。
夏休みに、武と美月が二人きりでいるところを何度も学校の連中に見られていたのだ。
直接それを言ってくることは無かったが、噂になって。
そして、それもやがて美緒の耳に届いて。だが彼らは、それを自ら俺達に告げることもしなかった。
だから、俺は美緒に相談されて、対策を練った。
まずは、休日の夕方に、美緒は武を、俺は美月を自宅に連れ込んで、両親に『今正式にお付き合いしている恋人』と紹介した。
美月は、俺が親に紹介したいという言葉に戸惑いを見せたが、
「何か駄目な理由でもあるのかい?」
そう問うと、彼女は何も言えずに従ってくれた。
そして、次の段階として、教室で、クラスメイト達に見られている状態で、二人して彼らを問い詰めた。
武は美緒に問い詰められても、何かの間違いだととぼけて。
俺が美月に問いただしても、美月は何も答えない。
「俺は、お前達の口から言って欲しかったんだ。俺も、お前達が会っているのを見たんだ。そして──聞きたく無かった話も聞かせてもらったんだよ!」
俺の言葉に、武は愕然として。美月は叱られたようにビクッと体を震わせて、俯いた。
一方、それを知らされて無かった美緒は、
「えっ? 何? 何を言っているの……?」
泣きそうになりながら、不安そうに俺達を見比べて。
武は顔を顰めて、それでも何も言わずにいた。
その様子を見て、俺は無精に腹が立った。
「そんなことまで、俺の口から言わなきゃいけないのか? 俺達はこれまで誠実にやってきた心算だ。それなのにお前達は、ただ俺達のことを弄んで。誠実であろうとすら思わないのか!?」
俺の言葉に、武はようやく重い口を開いた。
「俺は……本当は美月のことが好きだったんだ……」
武の言葉に、美緒の目から涙が溢れた。
「でも……あたしと付き合うって……言ってくれたでしょう?」
そう。駄目なら断ればいい筈なのだ。俺の誘導など気にせずに。
「ああ。美緒のことも……美月の次に好きだったからさ……。そして、俺が美緒と付き合えば、雅晴が美月と付き合いやすくなるって言われたから……」
武の言葉に、美月が俺を睨む。
「そうだよ。俺達は、自分達の意向を、ちゃんとお前達に伝えた。そして、お前達はそれについて、自分で考えて答えを出してくれた筈じゃ無いのか?」
俺に関しては、嘘も含まれてたけれど。俺の言葉に、二人は何も返せず俯いた。
「それを今更、そのときはまだお互いの気持ちを知らなかったから、無かったことにして欲しいとか。虫が良すぎるとは思わないか?」
「ああ……だけど……好きだった相手の気持ちを知って……もう抑えられないんだ……」
ひでーなこいつら、などと周囲から野次が飛ぶ。
「……そう、なんだ……。じゃあ……するしか無いね」
美緒は俺と目を合わせ、頷いて。そして、よろよろと教室から出て行った。
武は、机にがっくりと突っ伏して、嗚咽を漏らした。
「雅晴……あなたは誠実だったと言えるの?」
美月は再び俺を睨む。
「あなたは、私に少しも彼氏らしい態度を見せなかったじゃない!」
俺の前では様子が変わってしまう美月に、俺はほとんど普段どおりにしか接することが出来なかったのだ。でも、それは逆切れだろう。
「俺と二人きりになったら沈んだ調子になって、大人しくなってしまうお前に対して、俺がどうして彼氏面出来ると思うんだ?」
自分でも思い当たるのだろう、美月は俺の言葉に俯く。
「俺は、俺と一緒にいる間も、お前が俺のことを見ていないことにずっと気付いていたよ。だけどお前は、俺と付き合うと言ってくれたじゃないか。だから俺は、お前が俺のことを見てくれるようになるまで、ずっと待つ心算だった。少なくとも、お前から別れを切り出されるまでは。だけどお前は……別れ話をするでもなく……俺のことなんてお構いなしに、武に……それでよく俺の誠実さを責められたものだな!?」
その余りのことに、俺まで涙目になってしまった。だが、美月にはその気配すらなく。
「ちくしょう……絶対……泣くものかと思ってたのにな……。お前は……俺なんかには……その価値も見出せないんだな……」
俺も、彼らに背を向けて、廊下に向かって歩き出す。
戸口の所で、クラスメイトに何処に行く? と尋ねられたが、俺は、ちょっと頭を冷やしてくるとだけ答え、扉を開いた。
「うおっ」
思わず声を出してしまった。目の前に、美鈴ちゃんが立っていたのだ。
「さっき……、姉さんが出て行くのが見えました。やっぱり……想定どおりだったのですね……」
彼女は左手を胸に押し当て、涙目で何かを訴えるように俺を見ていた。
彼女には、どうやら最後の計画まで漏れてしまっている様子。
「ああ……。だから、あいつの所に早く行かないとね。間に合わなくなってしまう」
俺は、出来る限り、穏やかに微笑んで見せた。
「あなたは……麻井さんは……そこまで姉に……」
彼女は俯いて、俺にしがみ付いた。
そして、涙を零しながら、また俺を見た。
「あたし……では……駄目ですか?」
俺の為に、そんなことまで言ってくれるのかと、俺も涙が溢れて、視界がぼやける。
「もう、手遅れなんだ。俺は、選択を間違えた。こんな事態を回避する選択肢はいくつかあった筈なんだ。だけど俺は、美緒が傷つくところを見たくないばかりに、最悪な選択を続けてしまった。だから俺は、それを清算しなければいけないんだ。ごめんな……俺なんかのことで、君にまでそんな気持ちを味合わせてしまって」
俺は、美鈴ちゃんの手を優しく振りほどくと、外に向かった。あいつが待っている。
「嫌……いやあああああ……」
背後で、美鈴ちゃんの泣き声が響いていた。
美緒の家まで辿り着いて。俺は、インターフォンは鳴らさず、そのまま玄関のドアノブに手をかけた。鍵は掛かっておらず、中には乱雑に脱ぎ捨てられた美緒の靴があった。
俺は勝手に上がりこんで。リビングに姿は無く、彼女らの寝室のドアを開けた。
中では、美緒がベッドの上で体育座りをして待っていた。
「来て……くれたんだ」
彼女は、俺を見て微笑んでくれた。涙を流した後はあったが、今はもう泣き止んでいた。
「当たり前だ。俺が約束を破ったことがあったか?」
大げさに言ってみる。
「昔はしょっちゅうだったじゃないの」
彼女は声を上げて笑った。
そして、直ぐに真顔に戻る。
「……でも、あれ以来……ずっと約束を守ってくれていたわね。あたしのせいで……こんなことになってしまって。あなたまで巻き込んでしまって……あなたにどうお返しすればいいかも判らないの」
「それなら……俺の為に、死ぬのを止めて欲しい」
そう。俺達はここに、死にに来たのだ。
彼女は、俺を見つめて。そしてため息を吐いた。
「ごめん。それだけは、駄目。あなたのことを大切にしたい気持ちよりも、自分を消してしまいたい気持ちの方が強いの。だから、駄目なの」
やはり、そのルートはもう残っていないのか。
「じゃぁ……キスさせて欲しい」
俺には、最早照れなども無く。
「えっ? あたしと?」
「ああ。……実は、まだファーストキスも済ませてなくてね」
自分でも笑ってしまう。美月と付き合って四ヶ月も経っているのに。未だにキスすら出来ずにいたのだ。心を開いてくれない美月に、どうしても求めることができなくて。逆に美緒は、武とどこまで進んでいたのか。俺が気にしていい話では無かったので、今まで考えないようにしていたのだが。
「え~? 何よそれ……もう、しょうがないわねぇ……」
彼女は呆れて、それに同意してくれた。
俺は、彼女のベッドに腰掛けて。これまで抑えていた気持ちをようやく解き放って、貪るように彼女の唇を奪い、抱きしめた。
美緒にも美月にも受け入れて貰えなかった矮小な俺に、自分でもつくづく呆れてしまう。だけど、その矮小さ故に、俺はもうこれだけで一生分の満足を得ることが出来たのだった。
何秒か、それとも何分か。経過した時間は判らなかったが、俺は唇を離した。
「自分で時間を使ってしまってアレだけど、早くした方がいいかも。美鈴ちゃんにはバレちゃってるみたいだし」
マンションの屋上まで上がり、金網のフェンスを越えて。
一歩前に飛び出せば、十分に死ねる高さから落ちることが出来る。
彼女は下を見て。決意が揺るがぬよう、深呼吸をしていた。
「最後に、お願いがあるんだ。飛び降りる時、抱きしめていていいか?」
「……ええ」
彼女は、これから死ぬとは思えないくらい、穏やかな笑顔で頷いてくれた。
俺は横からそっと、彼女を抱きしめた。俺の手に、彼女の手が重なる。
「そろそろ、いいかな?」
心の準備は出来たか?
彼女は微笑んで、頷いた。
俺は、彼女を抱きしめたまま、背後の金網を蹴った。
「……実は俺、お前のことが──」
こんなときにまで間の悪い俺は、突然の強風に煽られて途中で色んなところにぶつかって、最愛の人への告白すら最後まで言えずに終わった。
救いが無くてすみません。




