049 姫の不在2
フィアが目を覚まして外を見ると、世界はまだ闇に包まれていた。
昨日フィアが床についたのは夜更け過ぎの遅い時間だったのだが、日が昇る前に起きてしまったらしい。精神的なストレスのせいで深い眠りにつくことができなかったのだ。
ベッドからおりたフィアは身震いした。彼女は種族的な特性として寒さには極めて強い。けれども、心の底から湧き上がる冷たさまでは防げるものではない。
フィアは少し不思議に思った。本物のディニッサは一月も前にいなくなっていたのだ。それなのに今さら寂しさを感じるなどおかしなことだ。自分が必要としているのは、姫様の姿だけで中身はどうでも良かったのだろうか? そうではない、とフィアは否定した。しかし違うと言い切れるだけの根拠は、フィアには見つけることができなかったのである。
* * * * *
フィアは服を着替えもせずに、城内を調べてみることにした。昨日は普段着のままでベッドに潜り込んだため、そのまま外に出ても問題はない。
フィアが予想していた通り、厩舎から天馬がなくなっていた。天馬の馬車はもともとユルテの持ち物だ。ディニッサを探しにくために乗って行ったのだろう。
それから中庭にシロが戻ってきていた。シロはその大きな白い体を丸めて、いつもの寝床で眠りについている。だが、シロといっしょに出かけていたファロンは城にはいなかった。きっとユルテが、言っていた通りにどこかに連れて行かれてしまったのだろう。
これからどうするべきだろう? フィアは悩んだ。できれば自分の不在を隠すように、という指令をディニッサから受けてはいる。けれどユルテもファロンもいない現状では、それがうまく実行できるか非常に心もとなかった。国の中枢から三人も消えてしまった以上、それを取り繕うのは困難極まりない。
溜息をついたフィアは、できることから手を付けようと決めた。まずはシロに今日やるべき仕事を言いつける。フィアは、シロを揺り起こして、道路整備の計画を説明した。
しかしシロは、フィアを無視するように寝転んだまま反応を見せなかった。
ヘルハウンドたちはともかくとして、高位の魔物であるシロは人間の言葉をあるていどは理解しているはずだ。それなのに反応しないのは、フィアを認めていないからだろう。しつこくフィアが付きまとうと、シロは苛立ったように唸り声を上げた。その姿にフィアは怯んだ。
シロは体長10mもあるような怪物だ。万が一戦いになったら、勝てる自信はフィアにはない。彼女は死ぬこと自体はそれほど恐れていなかったが、自分の役目を果たせないままに無駄死にするのは恐ろしかった。
フィアはディニッサがどのようにシロたちを扱っていたか思い出そうとした。
最近のディニッサの日課は、朝起きてからシロやヘルハウンドたちと遊ぶことだった。もしかしたら、あれでコミュニケーションを取っていたのだろうか?
とはいえフィアには犬や狼との遊び方など思いつかない。それでもなんとかディニッサのやっていた事を思い起こしながら、ヘルハウンドとの意思疎通を試みた。
「あ、アインス、お手」
しかしヘルハウンドの不快気な唸り声を聞くことになっただけだった。
だがこの件に関しては、フィアが全面的に悪かったといえる。なぜなら彼女は、呼びかける相手を間違っていたからだ。フィアが「アインス」と目の前にいるヘルハウンドに呼びかけた時、ぴくりと反応したのは遠くにいた別のヘルハウンドだったのである。
「姫様、どうやって、見分けてた……?」
フェンリルであるシロは大きさも巨大であるし、体毛も白く違いがはっきりとわかる。しかしヘルハウンドたちは、7匹とも色も大きさも同じでまるで区別がつかない。ディニッサには、どうしてかはっきりと見分けがついていたようだが……。
結局フィアは、シロたちとの交流を諦めることにした。彼らは貴重な労働力であったため、国力の低下は避けられないのだが、主であるディニッサも動物になれているファロンもいないとなっては処置のしようがなかった。
* * * * *
朝早くから城を出たフィアは、ディニッサの指示だとして、各部署に命令を伝えた。これは嘘ではない。じじつディニッサから彼女の不在中にどうすべきかを聞いていたのだから。嘘があるとすれば、ディニッサの不在と彼女がしばらく帰れないことを黙っていたことだけだ。
指令を下した後、フィアは自分の部隊用に用意された建物にこもって事務仕事をはじめた。
ディニッサは毎日違う場所に出向いていたため、一日二日姿をみせないくらいでは誰も不審には思わないだろう。しかし三日後に、国の主だった者たちが集まる会合が予定されている。その時までにはどうするかを決めておかなくてはならない。
しかしフィアは良い思案もないままに、ひたすら目の前の仕事に没頭してしまった。彼女は諜報部隊と魔術開発機関の責任者であるために、探せば仕事はいくらでもあった。それが現実逃避の一種だと、フィア自身も薄々感づいてはいたものの、忙しく働いていないと不安に押しつぶされそうで耐え切れなかったのである。
* * * * *
その日、夜遅くにフィアが城に戻るとシロがいなくなっていた。料理人のコレンターンやエルフのメイドたちは、お腹がすけば戻ってくるだろうと言っていたが、フィアにはシロがもう帰ってこないのだと直感的に理解できた。
シロはディニッサに「勝手に城から出るな」と言いつけられている。そして驚くべきことに、魔物であるシロはその命令を今日まで忠実に守ってきたのだ。であるにもかかわらず逃走したということは、シロがディニッサの不在を感じ取ったということなのだろう。
* * * * *
フィアは自分の部屋にもディニッサの部屋にも行かず、そのまま城から街に戻った。彼女自身にも意外なことだったが、シロの出奔は予想以上にフィアにダメージを与えていたのだ。誰も彼もが自分の元から去ってしまう、そんな錯覚をフィアは感じていた。
そしてこれもまた意外なことだったのだが、ユルテとファロンが城にいないということもフィアの心を寒くしていた。もともと侍女同士はそれほど仲が良いというわけでもなかった。ディニッサが入れ替わるまでは、毎日のディニッサ当番も交代でおこなっていたため、侍女同士が触れ合う機会もほとんどなかった。
フィアは、ユルテもファロンも嫌いではなかったが、深い愛情を持っているかと問われれば即座に否定しただろう。彼女にとって重要なのは、あくまでディニッサであって他の侍女は付け足しに過ぎなかった。ユルテやファロンも似たようなことを思っているはずだった。
しかしじっさいに二人がいなくなってみると、まるで自分の体をもぎ取られてしまったような喪失感をフィアは感じることになった。たとえ交流が少なかったとしても、たとえそうは意識していなかったとしても、長い時間をともにした彼女たちはフィアにとって大事な人になっていたのである。
「姫様は、すぐ、帰ってくる。ユルテと、ファロンも、いっしょに帰ってくる。だから、だから……私が……」
フィアが自分を奮い立たせるために言った言葉は、嗚咽によって途切れてしまった。一度涙がこぼれると、止めようもなく次々と涙があふれてくる。フィアは涙を拭いながら、誰もいない夜の街を1人歩いた。
* * * * *
城から戻った日、フィアは眠らずに朝まで働いた。そしてその後も食事のひまさえ惜しんで仕事を続けていった。
次の日も城に戻らず仕事を続けた。
魔族の頑強な体は便利なものだが、このようなときは苦痛を増やしてしまうことにもつながる。たとえ不眠不休で働いても、疲れて眠ってしまうことも許されないのだから。
* * * * *
「フィア様……無理……ダメ」
仕事を続けるフィアを止めたのは、愚鈍そうなトロールだった。フィアはぼんやりと、背の高いトロールを見上げた。
「おで……すごい……見つけた。だから……フィア様……大丈夫」
「ドドール……?」
そのトロールは、ドドールという名のフィアの副官だった。
その話しぶりと外見から、彼は頭が悪いと思われている。しかしフィアはそれが間違いであることを知っていた。彼は特異な頭脳を持つ天才なのだ。
言葉をうまくしゃべれないのは、ドドールが使っていた言語がこの世界では珍しく、共通語ではなくトロール語であったためだ。共通語も文法自体は完全に把握しているのだが、発音がうまくできない。
外見と言葉のハンデのせいで、ドドールはまともな扱いを受けることができずに苦労していたらしい。仕事に困って兵士として志願してきた彼を、フィアは魔術研究機関の副官に抜擢したのだった。
フィア自身もあまりうまく話をできるタイプではなかったため、彼のたどたどしい話を我慢して最後まで聞けたことが幸いした。ドドールは、フィアでさえ完全に理解できないような高度な理論を面接で述べていたのだ。
「ちょっと、アンタほんとバカねっ。アンタはまともにしゃべれないんだから、用意した手紙をてきぱきフィア様に渡せばいいのよ。だいたいアンタがそこに突っ立ってたら部屋に入れないでしょ。のろまなのは話だけにしておきなさいよ!」
フィアが見ると、ドドールの影に隠れるようにノームの少女がいた。フィアが決めたもう一人の副官だ。彼女、レノアノールには、諜報部隊を統括する役目を任せてある。ドドールのような天才肌ではないものの、おそろしいほどの情報処理能力と事務能力、さらには組織管理能力を持ち合わせていた。
これほどに有能な人材がフィアの下にいることには理由がある。レノアノールは優秀ではあったが、その能力にふさわしく──あるいはその能力以上に──自負心も大きかったのだ。
レノアノールにはまわりの人間が馬鹿に見えるらしく、周囲とうまくやっていくことができなかった。彼女のような人材を生かすには、組織の頂点にでももってくるしかないが、いくら才能があるとはいえただの平民が責任ある地位につくなど、この世界の常識ではありえない。
しかしこの世界の常識を知らない──良く言えばこの世界の常識にとらわれない──カイが上に立つことで状況が変わった。フィアの推薦とディニッサの許可によって、レノアノールは生まれて初めてその実力にふさわしい役目を得ることができたのである。
「二人とも、どうしたの……?」
「い、いえっ、たまたま美味しそうなお菓子が手に入ったんで、フィア様にどうかなと思って。いや、あたしらみたいな平民が買える、じゃなくて手に入れられるようなものなんでフィア様のお口に合うかはわからないんですけど、というかきっとお口に合わないと思うんですけど、本当によろしければどうかな、なんて思って」
早口でまくし立てるレノアノールの持つ器の上には、白いクリームがかかった焼き菓子がいくつか乗っていた。彼女の話から察するに、フィアのためにわざわざ買ってきてくれたらしい。よく見れば、ドドールも手にティーポットを持っていた。
正直なところ、城での美食に慣れているフィアからするとたいした品でもなかった。しかし一般的な平民にとっては、貴重な砂糖が豊富に使われた菓子は珍しいものだ。彼らの給料から考えると、かなりの出費となる。
「どうして……?」
「そりゃ、フィア様には良くしてもらっていますし、あたしらがこうやって仕事をできるのもフィア様のおかげですし、それにその、フィア様が元気がないような気が……いえっ、もちろん勘違いでしょうし、勝手なことをしてご迷惑かもしれませんけど、つまり、その──」
不分明なフィアの質問を、レノアノールは正確に読み取って返事をしてくれた。ようは、フィアを心配して慰めにきてくれたということらしい。
フィアは考える。自分はレノアノールたちに良くしたりしただろうか。フィアの性格上、誰かを故意に傷つけたりいじめたりすることはない。しかし親身になって彼らに接したかというと、それもない。ただふつうに部下として扱っただけだ。
「あり、がとう。いっしょに、食べる……?」
「え、いいんですか、アタシらなんかがご相伴にあずかっても。いや、でもそのほうがフィア様も……。じゃ、じゃあお言葉に甘えて──って、アンタはなにボーッとしてるのよ。さっさとお茶の用意をしなさいって」
「1個……ない」
ドドールが困ったような声を上げた。彼はカップを一つしか持ってこなかったらしい。手に持ったお盆の上の食器を見て悲しそうな顔をしている。
「なら、交代で、使えばいい」
「ひえっ、だ、ダメですよ、ぜったいそんなの! アタシがすぐに取ってきます」
そう言うとレノアノールは、フィアの返事も待たずに走りだした。その姿を見ながらフィアはあらためて考える。彼らの心配を受けるほどのことを自分はしただろうか。どう考えても答えは否だった。
副官の地位を与えたことは大きなことかもしれないが、彼らがその地位に感謝してフィアに尽くしているというのは少し違うように思えた。
その後、あまり綺麗ではないティーカップを急いで持ってきたレノアノールと、終始おろおろとしていたドドールと三人でささやかなお茶会が催された。
* * * * *
「心配、かけて、ごめん。今日は、お城に戻る、から」
お茶会のあとでフィアは二人にそう宣言した。彼らとともに過ごしながら考えてひとつの結論に達したのだ。彼女がそう意識していなかったにしろ、フィアは彼らのために何かをしたのだろう。それがこのように帰ってくることになった。
それとひきかえ、たとえばシロやヘルハウンドたちに何かをしたことがあっただろうか。いっしょに遊ぶことなどなかったし、ディニッサのようにヘルハウンドの背に乗ることすら避けていた。彼らがフィアの言うことを聞いてくれないのも無理は無い。
実のところフィアはディニッサと一緒にいる時に、ディニッサがひんぱんに兵士たちや信者たち、さらにはヘルハウンドたちまでと交流していることを、時間の無駄だと思いながら見ていたのだった。
しかしあれらが無駄だったわけではないらしい。そのすべてが帰ってくるわけではないにしろ、なにがしかの影響は周囲に与えていたのだろう。
たとえばフィアが、ユルテやファロンとふだんから話し合う機会を設けていたとしたら、現状はまったく違ったものになっていたかもしれない。そして過去は変えようがないとしても、未来は変えていけるはずだった。
* * * * *
「フィア様……!」
フィアが城に戻ると、メイドたちが集ってきてホッとした様子をみせた。ディニッサどころか、城を取り仕切る侍女三人まで消えてしまったのだ。彼女たちが不安になるのは当然のことだった。
フィアは自分のことだけしか考えていなかったことを反省した。そしてディニッサが帰るまでは、国の運営だけではなく、メイドたちの扱いまでディニッサの代わりを立派に努めようと決意した。
「心配、かけて、ごめん。これから、は、頑張って、みんなに甘えていく、から」
がんばって甘えるという意味のわからない言葉に、メイドたちは一瞬怪訝な表情を浮かべた。そしてフィアが本気で言っているらしいことを察して笑い出した。
笑われたことで、こんどはフィアが不思議そうな顔をした。彼女にしてみればディニッサが甘えてくれることは、この上なく嬉しいことだったからだ。
自分が嬉しいことだから、同じ役目のメイドたちも嬉しいはずだ、とフィアは考えたのだが、もしかしたら間違っていたのかもしれない。けれど、メイドたちの笑いにはフィアを嘲るような様子はなかった。
だから、きっとこれでいいのだろう。そう思ったフィアは、二人のメイドに自分を抱きかかえさせて風呂場まで連れて行ってもらうことにした。
「抱っこ、して」




