戦いの後
ぴちゃぴちゃ。
頬に何かが当たっている。湿っていて、微妙になまぐさい臭いも漂ってくる。
目をあけると、小さい狐がいた。
葛の葉が、オレの頬を舐めていたのだ。
オレはいったい──
ハッとして体を見下ろす。
服がボロボロだし、血まみれだ。けれど、ケガはない。
ついさっきまで戦っていた、魔物の前で気絶してしまったのだ。
喰われてしまっていても、おかしくなかった。だがフェンリルは、意外に義理堅い生き物だったようだ。
「ディニッサ様、体はへーき?」
首をひねると、ファロンの不安そうな顔が見えた。
「大丈夫じゃ。心配をかけてすまなかったの」
「ビックリしたよー! 葛の葉に聞いてきてみたら、血まみれなんだもん」
「葛の葉が、ファロンを呼んでくれたのか。助かったのじゃ」
撫でると、葛の葉が嬉しそうに鳴いた。
「もうっ、危ないことしちゃ、めーだよ?」
「うむ。これからは、もうちょっと考えて行動するのじゃ」
今回はたまたまうまくいったが、戦いに負けて死んでいたって不思議じゃなかった。この世界は日本ほど安全じゃない。もっと慎重に行動しないと、すぐに命を失うことになるだろう。
ふと足元を見た。血にまみれたゴワゴワとした長い毛がある。
なんといままでの会話は、フェンリルの背中の上でなされていたのだ。
「ウォ~ン」「ウォ~」
森から吠え声が聞こえた。その鳴き声は、だんだんと大きくなってくる。
黒く大きな犬が、何匹か飛び出してきた。
真っ赤な目にするどいキバ。子牛ほどの大きさがあり、いかにも獰猛そうだ。
そういえば、フェンリルにヘルハウンドを止めろと命令していた。フェンリルの咆哮を聞いて、ヘルハウンドたちがここに集まってきたのか。
「ディニッサ様、じっとしてて。ファロンが倒してくる」
「いや、戦う必要はない。そやつらは、フェンリルの手下なのじゃ」
「? そういえば、フェンリルがおとなしいのはどうして? 魔法ー?」
「いや──」
事情を説明しようとして、やめた。
ヘルハウンドの後ろから、ノランたちが姿をあらわしたからだ。
ヘルハウンドが、フェンリルの後ろに回りこんだ。ノランたちの攻撃を受けたのだろう。その体は、血で赤黒いまだら模様になっていた。ヘルハウンドたちは、フェンリルの影に隠れるようにして震えている。
「ノラン、もうよい! フェンリルは降伏したのじゃ」
ノランたちが小走りで近づいてきた。
兵士はおらず、魔族が4人だけ。みな服がボロボロで戦いの激しさを思わせる。
「フェンリルを降したと? 信じられん……!」
ノランがうめくようにつぶやいた。
他の3人の魔族も、まるで夢でも見ているかのような面持ちだった。
「わらわの力ではない。そなたらが弱らせてくれたおかげじゃ」
これは謙遜ではない。
そもそもさっきの戦い自体、本来はフェンリルの勝ちだった。オレが勝てたのは、フェンリルよりオレが無知だったからにすぎない。
フェンリルが降参した時点で、すでにオレの魔力はカラに近かった。
けれどフェンリルには、まだわずかに余力があったのだ。あのまま戦い続けていたら、オレは気絶し負けていただろう。
つまりオレは、ガソリンメーターが0の位置をさしているのに、アクセルを踏みっぱなしにしていたわけだ。それを見てこっちが余裕だと勘違いしたフェンリルが、給油ランプが点灯した時点でビビって降りた。
どの程度の魔法を使うと魔力切れになるかを把握していない、オレの未熟さが幸いしたわけだ。
なんともまあ、初戦闘からギリギリだったものだ……。
「まったくなにを考えていますの!」
クナーの叱責で我にかえった。彼女はオレに近寄り、指を突きつける。
その姿を見て、ホッとした。彼女が突き出してきたのは、左手だったのだ。
ちゃんと腕が再生できている。
「フェンリルが来たら逃げると約束したはずですわ。それがそんなにボロボロになって。領主としての自覚がたりませんわ! 第一、私は──」
しかし安心したせいで顔が緩んだのか、よけいクナーの怒りに火を注ぐ結果となった。早口で次々に文句が飛んでくる。
「……それは、そなたが勝手に言っていたことじゃろ。わらわは逃げることに同意しておらぬのだから、その約束は無効じゃ」
オレの返事にクナーが目を釣り上げた。
にんじんみたいな赤毛が逆立っている。
「まったく、ああ言えばこう言う! 本当に度し難いお姫様ですわっ」
そういってクナーが背を向けた。
顔も見たくないほど怒らせてしまったか。彼女はオレを守ろうとしてくれていたわけだし、少しもうしわけなく思った。
背を向けた彼女が、小さくつぶやいた。
「……ですけど、貴女のおかげで命拾いいたしましたわ。不本意ですけれど、お礼はいっておきますの」
パチパチパチ。
彼女のセリフを聞いたオレは、自然と拍手していた。なにせ完璧だ。完璧なツンデレ具合だ。芸術的とさえ言っていい。不可解そうな顔で振り返ったクナーに言ってやった。
「美事。まことに美事なツンデレじゃ」
「ツンデレ……?」
残念ながらこの世界には、ツンデレに相当する言葉がなかったらしい。
うまく翻訳がおこなわれず、クナーをますます不思議がらせてしまう。
「……姫よ、貴方こそ見事だ。フェンリルを手懐けられる者がいようとはな」
ノランが、歩み寄りながらオレを褒め称える。
だが途中で怖い顔に変わった。ノランは歯を食いしばり、怒りに震えている。
「だが! それゆえに問いたい。なぜっ、なぜそれほどの力を持ちながら、今まで何もしなかったのか」
今度はノランに糾弾された。
その顔はひどく真剣で、さきほどのクナーのように、簡単にすまされそうにはなかった……。




