お風呂地獄
相当な時間がたったあとで、全身を洗われ終わった。
ただ立っていただけなのに、ひどい疲労感がある。
しかし、禅寺での修行が役に立つとは思わなかった。
無の境地にはまったく至らなかったものの、気はまぎれた。
社長ありがとうございます。
新入社員研修で禅寺とか頭おかしい、って言ってスミマセンでした!
オレはふらふらと歩いて、浴槽に入った。
深い。立てばちゃんと足はつくが、お湯が胸の下あたりまでしかこない。
かと言って座ると頭までお湯に浸かってしまう。
水位を首の辺りにするには、中腰を保たなくてはならない。
肩まで浸かる派のオレとしては、ちょっとイラッとした。
やるせない思いで天使さんの方をみると、なんだかすごいことになっていた。
彼女の全身は、巨大な白い球体に覆い隠されて見えなくなっている。
球体の中ではかなりの勢いで水が流れているようだ。さながら洗濯機に人を放り込んだがごときありさまだった。
しばらくすると白球は床に流れ落ちた。中から泡だらけの天使さんが登場する。
すぐさま滝のような水で泡を洗い流していく。オレにかけた時間の10分の1もかけずに、彼女は自分の体を洗い終えた。
……着替える時もそうだったけれど、重要なのは「姫様」だけで、自分のことはどうでもいいらしい。こわい。正体がバレた時のことを考えると、背筋が凍る。
天使さんは所在無く立っていたオレのところまで来ると、オレの体を軽々と抱え上げ自分のひざの上にのせた。そうすると、お湯ががちょうど首の辺りきた。
とてもいい湯加減だ。最初にやり過ぎだと感じた金色の天井と壁も、浴槽でゆったりしながら見ると、別の感慨がわいてくる。風呂の水面が、天井の金色を反射してキラキラと輝いている。植物の模様をかたどった壁もとても美しい。
つまるところ、この場所から見ることで最大の効果を発揮するよう計算して作られているのだろう。みごとなものだ。
さらに、天使さんがオレの体を優しく抱きしめてくれている。
背中に押し付けられた胸の感触も心地よい。
パーフェクトだ。
これを極楽と言わずなんと言おうか。さっき恐怖でふるえたのも忘れて、この世界にしばらくいるのもいいなあ、などと思った。
* * * * *
風呂から上がると、天使さんがオレの頭をなでた。
可愛がろうとしたのかと思いきや、そうではないらしい。彼女が触れると、あっという間に髪が乾いてサラサラになったのだ。魔法、すごい。
また服を着せてもらい、脱衣所に置いてあった椅子に座らせられる。
椅子の前には小さなテーブルがあり、飲み物が用意してあった。
喉が渇いていたのでちょうどいい。
水を飲んでいる間、天使さんはひたすらオレの髪にブラシをかけていた。
水でも飲めばいいのに、と思ったが、彼女の横顔を見て考えをあらためる。
ものすごくイイ笑顔だったのだ。目がキラキラしている。
彼女がブラッシング自体を楽しんでいるのは明白だった。
意識が戻ってからずっとドタバタしていたが、ようやく落ち着いて考える時間ができたようだ。現状の整理をしてみよう。
現状──
異世界の、悪魔っぽい少女の体に入り込んでしまった。
本来のこの体の持ち主がどうなったかは不明。姫と呼ばれている。
少なくとも大金持ちなのはたしか。
また、この世界には魔法がある。
現状を引き起こしたのも、魔法の影響である可能性が高い。
目的──
元の世界に帰る。
当然だ、妹の体調も不安なのに、この世界で遊んでいるわけにはいかない。
天使さんと触れ合えなくなるのは、少しおしいけどな。
行動──
やっぱり魔法、か? 魔法で来たならば、魔法で帰ることもできるだろう。
天使さんにすべてを打ち明け、魔法を使ってもらうという手はある。ただ、彼女の偏執的な愛情をみるに、危険性が高い。最後の手段にしたほうがいいだろう。
となると、自分で魔法が使えないか調べるのが先決か。
様子をみながら情報を探していくか。それとも天使さんに聞いてみるか。
どちらも一長一短だ。
様子見の場合。時間がたつほどボロが出やすくなるだろう。
なにせ、自分の名前すらわからないんだから。魔法の情報を集めるのにも時間がかかるかもしれない。
そうなると致命的なのは、陽菜の問題だ。
こっちに来る前、家でみた妹の様子は明らかに異常だった。陽菜もなにかに巻き込まれているおそれがある。家に帰って確認しないコトにはとても安心できない。
天使さんから魔法の使い方を聞き出す場合、正体がバレる可能性が高い。
その後の反応も不明。牢屋にでも入れられるか? (おそらく)この体自体は、本物の姫様のモノのはずなので、そう無茶はされないと思うが……。
……熟慮の結果、速度優先に決めた。
妹の安否確認をしないことには、はじまらない。
「ん。ん~」
「姫様、どうかいたしましたか」
「魔法の、勉強したい……」
ドキドキしながら、そう口にした。これほど緊張したのは会社の面接以来だ。
天使さんは後ろにいるため、顔の確認はできない。どんな表情を浮かべているのだろうか。
「……魔法のお勉強、ですか。書庫にいけばその手の本はあるはずですけど」
ブラシをかける手を止めて、天使さんが答えた。
「でも分厚い本ばかりですし、読むのは疲れますよ?」
「大丈夫」
思ったより順調に話が進んだ。
その本を読めば、なにか手がかりが得られるかもしれない。
「ふふふ……」
急に天使さんが低い笑い声をあげながら、オレを後ろから抱きしめた。
「ふふ、あなたは、誰?」
天使さんが、オレの耳元で優しくささやく。
ハッとしたオレは天使さんの方をむく。そして、すぐに後悔した。
口ぶりこそ優しかったものの、その目はまるで笑ってない。
「あなたは、誰?」
同じセリフが同じ口調でくりかえされた。
「見て、わからないの?」
オレは動揺をおさえ、演技を続ける。
「私の姫様は、そんな言い回しはしませんよ」
「そういう遊び、やってみただけだから」
「ふふ。頑張りますね。でも、言い訳はムダなんですよ?」
オレを抱きしめる手に力がこめられた。
椅子の背もたれがギシギシいっている。
「勉強したいって言いましたね。それから、分厚い本もちゃんと読むって」
さらに力が加わる。
「ありえないんですよ、姫様がそんなことをするなんて。姫様の一番嫌いなことが努力で、二番目に嫌いなことが疲れること」
ダメすぎるッ。どんだけダメ人間なんだよ、このお姫様は!
頑張らないはずの姫様がやる気を見せたことで、あっさり正体が露見してしまったらしい。
「すまん。だまして、いたのはあやま、る。でも、オレも、違う世界に、連れてこらえて、わけが、わからず……」
万力のような腕に苦しめられながら、とぎれとぎれに釈明する。
「違う世界? ……。ああ、なるほど、あの時のはそういう……」
「この、から、だは、本モノの──」
最後まで言葉を続けることはできなかった。
あばら骨がまとめて何本か折られたせいだ。
声の代わりにセキが出た。
口から血が溢れ出る。
たぶん、折れた骨が肺に刺さった。
「姫様は! 姫様は! 姫様は! 姫様は!」
彼女の激情とともに、地獄の抱擁は力を増すばかりだ。
考えが、甘かったらしい……。
体がバラバラになったような痛み。
胴体が押しつぶされて、内臓が口からはみ出しそうだ。
こりゃ、今度こそ死んだな……。
──最後にオレが目にしたのは、血まみれのテーブルとコップだった。