東の魔王
ディニッサのいるルオフィキシラル領のはるか東。パヴィロ山の山頂に小さな城があった。ディニッサの物に比べれば、みすぼらしいとさえいえるその城が、東の魔王の居城である。
その小さいが堅牢な城の廊下を、一人の魔族が足早に歩いていた。
人間の胴体に爬虫類の足、頭にはトサカとクチバシ、さらには蛇の尻尾をもつ異形の者である。
彼の名はリゲネタへフ・ナル・ガファーナバフ。宰相として、東の魔王の領地のすべてをとりしきる立場にある。
ガファーナバフは玉座の前までたどり着くと、恭しくひざまずいた。
玉座には、彼の主リトゥネ・ナル・ドゥコーシミルトが腰をかけていた。東の魔王とも呼ばれる、大陸最大の領地をもつ覇王である。
「せわしいな、ガファーナバフ。何事か」
その言葉とは裏腹に、リトゥネの口が三日月のように弧を描く。
その赤い瞳にも、何かを期待するような光があった。
「トレッケが反旗を翻しました。旧フェーゴニ領を襲撃して奪取。さらに周辺へ支配地域を広げようとしております。詳しい数や協力者などは、おって連絡が入りましょう」
「ハッハッハ!」
リトゥネは、哄笑とともに立ち上がった。
血に濡れたような真紅の竜翼が大きく広がる。
その鍛えぬかれた巨体と、膨大な魔力には、普段から接しているガファーナバフでさえ身震いするような威圧感があった。
「フェーゴニのこせがれめ、思ったより早かったな? さて、拙速か英断か。楽しみではあるな」
ガファーナバフは、さらに頭を深く下げた。
自らの表情を悟られないように。
彼としては、バカバカしく思うのだ。
トレッケが王に心服していないのは明白だった。
であるならば、フェーゴニ領を占領した時点で殺すべきであった。
あるいは逆に、大度をみせて旧領を任せるという手もあった。ガファーナバフなら選ばない危険な方策ではあるが、もし成功したならば利益も大きかろう。
しかし実際にとられたのは、名誉は奪い力は残す、というひどく中途半端な措置であった。まるで魔狼を野に放つがごとき愚策だ。
そして、こうも思うのだ。もしも王が自分の忠言通りに動いてくれていたら、まだ誰もなしえていない、大陸制覇さえすでに完遂していたのではないか、と。
「リゲネタへフ・ナル・ガファーナバフ」
魔王の呼びかけに、宰相はハッと顔をあげる。
「それで貴様は、いつ予に背くのか?」
「ご、ご冗談を。私は陛下の忠実なしもべに御座います」
ガファーナバフの背が、汗でびっしょりと濡れる。
彼は自らの分をわきまえていた。不満はあれど、王に歯向かうつもりなど毛頭ない。
「で、あるか。……そういえば、アレはどうなったか。トゥーヌルの娘は?」
「ハッ、ディニッサは相変わらず城に閉じこもったまま、無為に過ごしているようです。姿を見たものもなく、特別な政策を実施した気配もありません」
リトゥネは失望と興味深さを混ぜあわせたような、複雑な思いを見せた。
「アレを買いかぶりすぎていたか。トゥーヌルは、敬意に値する男であったのだがな。予としたことが、身内の欲目でみていたか?」
リトゥネは顎に手を当て、考えこんだ。
「しかし、ククっ」耐え切れないように笑いながら続ける。「まったくなにもしないというのも、ある種の大勇かもしれんな。少なくとも、非凡ではある」
「ルオフィキシラル領を併合するための軍勢を召集しても……?」
ガファーナバフの言葉は、質問というより期待だった。
あれほど容易く手に入る領土はめったにあるまい。急がねば、肉の旨い部分を他の者に食い荒らされよう。
「それは許さん。どうせ放っておいても、アッフェリが仕掛けるであろうよ」
「アッフェリ、でございますか……」
今度の言葉も、確認ではなく消極的な反対の表明である。
アッフェリは、先のトゥーヌルとの戦いで功績をあげ、その領地をリトゥネより与えられた者だ。
ケンタウロス族を起源にもつ彼は、勇敢で戦には長けている。
しかしその忠誠心はあやしいものだ、とガファーナバフは見ていた。彼の領地がさらに広がるのは、あまり望ましくない。
「貴様はトレッケへの対策に集中せよ。此度は予も出る」
「……はっ。かしこまりました」
主に断言されて、ガファーナバフはさらなる提言を諦めた。
彼の役目は東の魔王の望みを滞りなく遂行すること。
──せいぜい、ディニッサとアッフェリが共倒れになってくれることでも祈っておくか。
* * * * *
足を組んで玉座にかけるリトゥネは、ガファーナバフの無念そうな顔を思い出し笑った。宰相の考えていど、彼にはすべてわかりきっていたのだ。
「大陸制覇か。たしかに気宇壮大な夢ではあるな」
己で成し遂げようとせず、人に頼るところがガファーナバフの限界ではあるが。
大陸最大の版図を持つゆえに誤解されているが、リトゥネに領土的野心は一切ない。たとえこの瞬間に全土が失われたとしても、なんの痛痒も覚えないであろう。
彼が求めているのは、もっと単純で愚かなものだった。
ガファーナバフの理想を思う。大陸がリトゥネの元に統一され、すべての者が彼にひざまずく。彼とその臣下は、果てない栄華を楽しめるであろう。
リトゥネは震えた。めったに恐怖を感じない彼でも、その想像は恐ろしい。
誰一人自分に逆らわない世界など、おぞましい。競う者がいない場所にどんな価値があるというのだろう?
彼は求める。強い相手を。
それは一対一の決闘でも、国同士の戦争でもかまわない。
けれど同時に、強者との戦いを恐れてもいた。戦い、倒すたびに、自らの勢力は強大になっていく。そして世界から光が失われていくのだ。
彼の望みは矛盾に満ちている。
その自覚があるだけに自嘲せざるをえない。
──しかし、そういうものなのだ。長く生き過ぎた魔族というのは。
なにかに執着しなければ、在り続けることができない。
最後の妻を愛し、執着し、そしてその女を失った時、抜け殻のようになった魔王トゥーヌル・ロニドゥ・ルオフィキシラルのように。
リトゥネは、娘をトゥーヌルに嫁がせたことを後悔していた。
みすみす、たった七人しかいなかった魔王の一角を失う結果となったからだ。
しかし同時に、喜んでもいたのだ。生涯で最高の好敵手と巡り会えたのだから。
リトゥネは、好敵手の娘であり、自らの孫でもある少女のことを考えた。
「さて、ディニッサ・ロニドゥ・ルオフィキシラル。貴様は座したまま死を選ぶのか。それとも──」




