伏見の鬼と摩訶不思議な悪鬼
血の滴る紅き三日月が堕ちるような深淵の夜――。
京都・伏見の西側の小橋の上を、愛用の朱色の指揮煙管の紫煙を燻らせるながら一匹の鬼が歩いて来る。
鬼といっても本物の鬼では無く、その瞳や雰囲気、全身から放たれる殺気からその男は京・大阪では鬼と市民に呼ばれていた。
昨今は日本も異国との貿易戦争に巻き込まれ鎖国を解除し、異人の靴が日本の土地を踏み闊歩する姿も見受けられる。
「……悪い事はよ。見つからねぇようにやる事だ。それが出来ねーんなら、堂々とやんな。……それが清濁合わせて、節義を貫く生き様よ」
紅く映える鋭利な三日月を見上げ、溜息混じりでいう鬼に盗賊らしいその男は驚愕の瞳で見据えた。
「完璧に気配は絶った。一時的に心音さえ止めていたのにも関わらず我を見つけるとは主は何者……」
月明かりが二人の男を照らし、互いの面を拝んだ。
そして頭に陣笠を被り、黒の重厚な羽織の捕り物衣装の男は天を見上げ言う。
「盗賊・恵比寿であるお前が豪商から逃げたとは思った。仲間は捕らえ、お前を追っていた。が、あまりにあの紅い月が綺麗でな。動けなかったのさ。そうしてのらりくらりと歩いてここまで来たら、お前がいた。そんだけの事よ」
つい、この鬼のような殺気を放つ男の言葉に盗賊の男は声を上げて笑ってしまう。
「くくく……はははっ! 全く面白い鬼だ。月に惚れたか?」
「鬼は誰にも惚れはしねぇさ」
瞬間、二人の殺意が互いの武器に宿り激突する。刀と刀が火花を上げ、鍔競り合いになった。
盗賊の男は言う。
「名を聞いておこうか」
「これから死ぬ輩に言う意味があるのか?」
「お前は幕府の役人だろう? 幕府の役人がこうも堂々と人を殺すのはどうかと思うが」
「すでに相当殺めてるだろお前。盗賊の姿も仮の殺人趣向者。俺を誤魔化すのは不可能な話さ」
どうやらこの男も相当人を殺めているらしく、同族である男の匂いを嗅ぎ取りそう判断していた。
しかし、この鬼は戦いを楽しんでも殺害を楽しむ事はしない。
「つぇあ!」
鬼は下段蹴りをかまし、人斬りを転ばす。そこに刀を殺到させるが素手で刀の切っ先を抑えられ逆に突きを浴びせられる。
「っと! 凄え馬鹿力と胆力だ」
息をゆっくりと吐きつつ横隔膜を下ろし、腰をかがめた。対する人斬りも次で勝負が決すると確信し、自分の溢れる愛を刀に注ぎ込むように嗤う。それを見た京史朗は一重の瞳を細め言う。
「教えといてやる。この戦いは楽しかったからな」
「楽しんでいるのは死を感じる瞬間だろう? 早く外道に堕ちろ。さすればお前はー」
「伏見奉行・鬼瓦京史朗――」
盗賊の男が全てを言う前に二人は交差し、その一人が橋の下の川に落ちた。
水面には赤い血が浮かび上がり、天の三日月と同じ色を発していた。
刀を鞘に納める京史朗は愛用の赤い指揮煙管を懐から取り出そうとした。
この時代はすでに大衆を先導する日本の国威を守ろうとする志士達からは幕府の終わりを示す幕末と呼ばれていた。
それを徳川幕府の役人として否定するこの男は背後に全身全霊で刃を繰り出した。
耳をつんざくような金属音と火花が上がり、目の前の白髪の悪鬼のような男と激しい剣の応酬になる。
陣笠を投げ、相手の隙をついた京史朗は突きを繰り出す。
「つえええああああっ!」
「摩訶不思議! 摩訶不思議!」
しかし、その白の縦縞の着物の白髪男は陣笠を右手で弾き、左手に持った刀で心臓への突きへの軌道を逸らしていた。だが、逸れただけで深々と横一文字に着物は切れ、血が噴出している。そして、二人の男は顔見知りのように動かぬまま微笑んだ。
「ようやく会えたな幸村摩訶衛門。ここいらで死んでもらうぜ」
「そう焦るなよ京史朗。摩訶不思議な事はこれから幕府が消えるまで果てしなく起こり続けるんだからねぇ」
京史朗の宿敵である幸村摩訶衛門が現れる。
この男は巷を騒がす人斬りで、徒党を組まず一人で行動するので足取りも掴めず、幕府の役人も闇から闇に消える神出鬼没さから恐れられていた。
興奮で息が上がる京史朗は言う。
「三下はここで死ぬ。幕府が異国に潰されてたまるかよ。それに、人斬り風情じゃ改革は無理だ」
「三下、三下って。君も父上に三下、三下と呼ばれていたじゃないか」
「五月蝿えぞ摩訶衛門。この鬼瓦京史朗。もう三下は童貞を捨てる前から卒業してるぜ。百人斬りを忘れたか?」
「あぁ、そうかい」
摩訶衛門は脇差を抜き足を振り上げ京史朗の体勢を崩し、二刀で仕掛けた。
負けじと京史朗も脇差を抜き二刀流で防ぐ。
『……!』
互いの両手は塞がれた――刹那。
口にくわえた鋭い殺気を帯びた摩訶衛門の匕首が京史朗の剃り跡の青い月代が広がる脳天に迫る。
同じく口にくわえ煙管で防ぐ。
「全く……よくもまぁ機転が利くものだ。その俊敏性が頭にもあれば、この徳川の時代が終わる事など察する事が出来ただろう」
「……」
「君はわかっているはずだ。この昨今の政情不安で家禄に飽きた武士は戦えず、闇雲に意味もわからぬまま異国を打ち払え!と尊王攘夷思想にかぶれて街を歩き、議論を交わす。その実態はただの宴会と変わらず、いざ異人が現れれば蜘蛛の子を散らすように逃げ、遠くから眺めている事しか出来ない者ばかり。そう、あえて言うならば屑だよ」
「あえて言わなくとも、屑は屑さ」
「なら何故幕府にいるんだい? おかしな話だよ!」
「清濁合わせて節義を貫く。それが俺の生き様だ」
「徳川の役人の家に生まれたからその節義を貫く……か。もう時代は変わる。町人が大名や将軍になれるんだよ。異人の国ではそれが普通さ」
「知った事かよ。今は殺し合いの最中だ。戯言はよせや摩訶衛門」
「そうだねぇ。僕は君を殺す。その理由は……」
足の親指と人差し指に挟んだ摩訶衛門の匕首が京史朗の腹部を刺す。
血が滴り落ち、京史朗は下を向き摩訶衛門は嗤う。
そして摩訶衛門の両手の刃が盟友であった男に振り下ろされる――。
「殺したいから、殺す。だろ?」
「!?」
刺されても尚、向かって来る鬼に摩訶衛門は気圧された。
目の前の鬼の狂気に、何も出来ず袈裟に斬られ吹き飛んだ。
そして紅い月の真下で嗤う鬼は言う。
「もう、演技はお終いか? 三下?」
「僕でなくては死んでいたよ? 全く、よく人を殺す奉行だ。そのままでは闇に堕ちるよ?」
「闇に堕ちるだ? 堕ちたら、堕ちただ。また這い上がるだけよ。この千年王城の都にな!」
その瞳は、闇に堕ちる前の目の前の友・幸村摩訶衛門が写っていた。
しかし、今の摩訶衛門は京を脅かす悪鬼でしかない。
「京史朗。君は戦いしか望んでいない。争いを解決すれば、すぐに次の争いを望む……幕府の役人であるに関わらずだ」
「それが今の時代だ。いい時代に生まれたと思うぜ」
「君は闇に消えるがいい。幕府と同じ、奈落の闇にね」
「……」
「維新回天の始まりだよ。そして、幕府は終わる。君の命運もね……鬼瓦京史朗」
冥府に誘うような煙幕が立ち込め、摩訶衛門はその場から姿を消した。
そこに入れ替わるように、伏見奉行所の役人達が集結し出した。
そして京史朗は紅い三日月を見上げ、朱色の指揮煙管で紫煙を吐き呟く。
「徳川の世は終わりゃしねーよ」