歪んだ太陽
人生初のホラー小説です。こんなんでも怖いかどうか、ぜひ教えてあげてくださいね。
小説家になろうさんの企画、『夏のホラー2014』参加作品。
「ほんなら行ってきますよって」
「はいはい」
「行ってらっしゃい」
子供たちは母に向けておざなりに挨拶をする。母は困ったように笑う。
「あんたら、毎日言っとるけどなぁ」
「うぃーーす。挨拶は目を見て」
「行ってらっしゃいは感情込めて」
「知らん人が来ても玄関開けんで」
「仔山羊は大人しくしとる」
「わかっとるなら、守ればいいのに。仕方のない子ぉたちや」
母は仕事に出かけ、夕方に帰る。誰の待つ家に。誰が待つ家に。
浮気した父に戻ることを許さないままに母子だけの暮らしが始まって何年が経つか。
家とは、居場所とは、存在とは。
誰が、認識すべきことなのか。
「お母さん、誰ぞが見とる。窓の外から」
真琴に言われて、反射的に信子は顔を上げた。正面のガラスはバルコニーにつながっている吐き出し窓だ。人がいるとすればそこしかありえない。6階の角部屋のベランダに許した覚えもない人が立っているとすれば正直、その理由を想像したくもないが。左側壁の窓よりは、まだ可能性があった。
「ちゃうって。そっちやない。こっち」
真琴は中学生にもなろうというのに相変わらず声が高い。いまどきの小学生男子にしては珍しく、6年生になっても声変わりはまだだ。真琴の父という人はたいそう魅惑的な低音声の持ち主だったが、この子もじきに似てくるんだろうか。
そうやな、骨格がこれほどまでにそっくりなんやし、きっと声も瓜二つになるやろな。
奇妙な確信を抱きつつも、信子は小首を傾げて真琴を見る。彼は”ナニ言ってんの”とばかりに腕を上げ、平然と左側壁にある小窓を指していた。信子の顔が引きつる。
「そんなん、あるわけがないやろ? そっちの向こう、外やんか」
「せやし不思議やって言ってんやんか、お母さん。俺、ちょっとベランダから覗いて来るわ」
「止めや」
思ったより強い声で引き止めてしまった。その声音で美咲も顔を上げてくる。だらしなくテレビの前のソファに陣取って何やら世界の敵を倒していた彼女は、迷惑そうな顔をして手の中のコントローラーを膝に置いた、のだろう。体を起こして、背もたれ越しに目を合わせてくる。
電子音がうるさいと信子が嫌がったから、ゲームをするときはイヤホン付きで大音量を聞いていたはずの美咲にまで聞こえる勢いだったかと狼狽える母に、子供たちはニヤリと笑ってみせた。
「大丈夫。お隣さんも下の人も上の人も、もう引っ越したし」
「文句言うような人、もう、おらんよ?」
子供たちが信子をからかうような口調なのは、彼女がやや神経質なまでに隣人を気にするからだ。
集合住宅で育ったことのない信子は新婚初期に生活音のクレーム対応でひどく苦労した。後で教えてもらったがそこは、たまたま”気にする”人たちが多いアパートだったらしい。それから幾度か引越しをしたが、信子はその経験以来、多少の行き過ぎ感があるほど静かに暮らすことに固執した。赤ん坊が二人いるとき、彼らが育って幼稚園、そして小学校の低学年までは山際にある一軒家を借りることすらした。信子を溺愛してくれる祖母が経済的に支援してくれたからこそできたことだが、結果として親子が笑いながら暮らせたことを関係者全員で満足に思っているからいいのだろう。
下の子供が中学校に上がることをきっかけとしてこのマンションに越してからは美咲が劇的に大人しくなったこともあって、実に淡々と過ごせているような気がしている、と、信子は思っている。
「あら? お隣さん、またおらんくなったん?」
「お母さんはあんまり家におらんから知らんやろ? 挨拶もなしにコソコソ出てったで?」
「コソコソて。そんな言い方したらダメや」
「けど」
まだ何か言いかけようとした真琴を目で制する。このご時世、隣近所への挨拶を抜きにして入居するくらいのことは珍しくないだろうと説明しようと口を開きかけ、説教がましくなるかと視線をまな板へ落とした。信子が顔を背けたことで会話を終わりとした美咲がまたゲームの方へ没頭する。
「や、せやし、俺は窓の外におる人を見たいねやけど」
「やめとき真琴。アンタの気のせいか、もし気のせいやなかったら逆にそっちのが怖いわ。今日んところはそっとしといてくれるか」
「……はーい」
あえて顔をあげないままに頼むと、不承不承の了解が聞こえる。何拍かおいてそっと横目で伺うと、真琴は自分のデッキを弄ることに夢中になっているようだった。信子にしてみれば何度聞かされても呪文としかとらえられないカタカナの付いたイラストには、クリーチャーの名前と役割がそれぞれあるのだという。
カードを組み合わせてゲームをする、カードは事前選択式でゲームが始まったら取り替えられない。
だから、デッキと呼ぶ事前に組んだカードの組み合わせは重要なのだそうだ。……自分で説明していてもさっぱりわからない。
信子はふわりと口角を引き上げながら野菜を刻んだ。今夜のメニューは根菜の中華スープ、焼き魚、白いご飯の予定だ。そういえば牛のそぼろがあった。あれも夕飯で使いあげなければ痛むだろう。次からはもう少し、炊くときに生姜を効かせてみようか。
テレビ画面では次々と現れるモンスターたちを美咲が華麗に吹き飛ばしていっている。こちらも、信子にはさっぱり理解できない。ゲームの中でどれだけ強くなろうとも金持ちになろうとも、現実には反映しないのに。美咲も真琴も、二人でよく笑い声をあげながら武器や敵を品定めしている。
いったんスープの煮込みに入ってしまえば休憩が取れる。信子は玄関脇にある自室で出勤服から部屋着に着替えるとメイクを軽く落とした。ほんのちょっとだけ好奇心がうずき、窓を開けて右側を見る。誰もいなかった。
当然だろう。ここは隣のないマンションの角部屋だ。誰かが、いるわけがない。
長めの瞬きよりもう少し長い時間、信子は窓から身を乗り出して左右を見た。左側、道路を挟んだ向かいには似たようなマンションがある。けれどもちろん、そちらの方も誰かが身を乗り出しているようには見えなかった。
漠然とした不安を払しょくした信子はキッチンに戻り、スープの味を見る。魚は塩をして少し置く。そうして出てきた汁を拭き取って焼くと、白身だろうが青身だろうが生臭さが軽減するような気がしていた。テーブルの椅子に座り込み、手元のタブレット端末を操作して見たかったドラマの続きを確認する。
スリルとサスペンスと恋愛に満ちたノンストップな45分間を堪能するころには、炊き立ての白いご飯ができたよと釜が鳴った。
信子はエントランスに入る前にちろりと壁を見上げた。自室の辺り。何の変哲もないただの疑似タイル張りの壁を見て眉をひそめる。
そう、誰もいない。
いるわけがない。
……真琴が最初に誰かがいると言いだしてから、そろそろ一か月がたっていた。その間、何度も信子は真琴から同様の訴えを聞いた。一度なぞ美咲からも問われた。
しかし、都度に信子が窓を見ても誰もいないのだ。確認させれば落ち着くかと二人には好きなだけ見てくればいいと許可したが、当たり前のように、彼らも窓の外には何もいないと断言するしかない。
ただ、視線を感じるのだといつまでも不満そうに口をとがらせる。
このままではノイローゼになりそうだと三人そろって話し合い、先週末にカフェカーテンをかけてみた。明り取り用の細窓にぴったりの丈は外を遮断し、明るさだけを取り入れてくれる、はずだったが。
「お母さん、これはいかん。なんちゅーか、視線のウザさが増したで」
「こっちからは見えんからって調子に乗って、ずっと向こうから見られてる感じや。しくったな」
「……そぉかぁ。なんやろうなぁ。お母さんだけがわからんとか。困ったな」
結果として、誰もが困り果てるという羽目に陥ってしまった。美咲と真琴に聞いてみたが、二人とも外では視線は感じないのだという。あくまで、家の中にいると、あの窓経由で、ということらしい。
しかも、相変わらず信子だけが視線を感じないのだ。
一昨日あたりからついにピリピリし始めた家庭の空気に、信子は困惑していた。誰に相談もできない。隣も上も下も入居していないのだ。そういえばわりとすぐに埋まっていた空き部屋は今回に限り、未だ埋まらないようだった。信子としては気を使う相手が来ない方が助かるのだが。防犯の感覚からいくと、こちらもそうも言ってられない。
なんや、面倒になってきたな。
エレベーターのボタンを押しつつ、ほぅと息を吐く。明日が生ごみの日なので今日も魚にしてみた。珍しくきれいなアジが並んでいたのだ。たたきにして、信子の分にはたっぷりとネギと生姜をのせたい。熱い味噌汁と粒の立っている白飯。白菜は塩もみしておかか和え。
ポン酢で、ドレッシングで食べるかは自由だ。美味しいご飯こそが心と体を作る。
だがその前に、信子とその家庭には問題が立ちふさがっていた。
あぁもう。もしかしてコレ、心霊関係なんやなかろうか。
天啓のようにその考えが降ってきたのは、玄関の鍵を開けたと同時だった。急ぎ足でリビングへと向かう。ただいまとおかえりを言い合って白米を仕込みながら、信子は興奮気味に子供たちに自分の考えを披露してみた。
「なぁアンタら。ここ最近の窓と視線のことなんやけど」
「それなぁ。ほんっと、マジでムカつくわ。言っとくけど今日もずっと、やからな」
「腹立つわー。そろそろ我慢ならんのやけど、お母さん。どうにかしようよ」
「それや。なぁ。この視線、もしかして心霊関係やない?」
「「……うん?」」
子供たちは戸惑ったようにお互いの顔を見た。信子が忙しなく手を動かしている間に、徐々に頬に赤みがさしていく。うんうんと頷きあって、そこからは何を言っているのかよく理解できない単語が二人の間で交わされた。ゴーストハント、ポルガイ、都市伝説などが早口で応酬される。
信子が部屋着に着替えてリビングに戻ってきたときには、彼らの会話は大体がまとまっていたようだ。
「お母さん、もしもな、もしもコレが心霊関係やとしてよ? 対処としてどの手を使うん?」
「プロ雇う?」
「プロ? ……ああ、拝み屋さんのことな?」
拝み屋て、とひときしり笑った子供たちが落ち着くのを待って、信子は首をかしげる。
「せやけど、うち、そんなお金ないで?」
「したらどうすんのさ」
「まずは民間信仰とか」
あやふやに答えを返すと、彼らの目がキラキラと輝きだした。お母さんのタブレット貸してと奪い取ってから宣言し、二人はくっつきあってインターネットで心霊モノ対処法を検索している。塩まくか、酒は、水晶はと、きゃっきゃっの勢いではしゃぎながら、あれこれ議論しては笑いこけた。自然、その様子をみてしまえば信子だって穏やかに笑うしかない。
子供たちが幸せなら、信子はそれでいいのだから。
彼らは夕飯を食べたあとも白熱して調べ物を続けた。信子は風呂をはり、子供たちに一応の声をかけてから先に入る。
一日の疲れが美咲と真琴の、久しぶりの笑顔でさらりと溶けるようだった。屈託のない会話は心にやさしい。
とろとろとのんびり温まっていると、不意にチャイムが鳴った。客だ。
非常に珍しい夜の客に、急いで信子は風呂から上がりバスタオルを巻いたままでインターホンを覗き込む。スーツ着用の男性二人組。
訪問販売にしては、空気が硬いような。
信子は不審に思いつつも画面越しに来客と会話した。どなたですか、と聞き、警察署の者です、と帰ってきた返事に目を剥く。は? と聞き返していた。
「夜分にすいません。○○警察署の世良と申します。こっちは木藤。ちょっと奥さんにお伺いしたいことがありまして……」
「そ、うですか。……あの、どなたかとお間違えでは」
「ああいえ、申し訳ないです。沼本さんですよね?」
「……はい。そうです。あの、では、その、上がってらしてください」
信子はひどく混乱しつつも、画面の向こうの警察官バッジを見ながらそう答えるしかなかった。刑事もののドラマなら何度か見たことがあるが、身分証の真偽なんぞ一介の主婦である信子には確かめるすべがない。
急いで着替えつつも、名指しでこの部屋に辿りついた以上、警察うんぬんとやらは信じてもいいと信子は思う。子供たちを二人とも部屋に送り込み、大人の話やしゼッタイに口を突っ込んで来たらダメやでと釘を刺した。彼らはインターホンが鳴ってからこっち、ぴたりと会話を止めて信子を伺っている。大丈夫や、心配せんでいいと大きくうなずき、子供部屋の扉を閉めた。同時に玄関のインターホンが鳴る。
髪がまだびしょ濡れの上にボサボサだが仕方ないだろう。信子はいっさい言い訳をしないままに確認してから玄関を開いた。ここまで来られた以上は、しょうがないので相手をするしかない。
三和土に立ったまま、信子は中年と青年の二人組と相対した。
「沼本、信子さんでいいですか」
「はい」
「私は○○警察署捜査1課の世良です。こっちが木藤。お忙しい時間にお邪魔して申し訳ありませんね」
「いいえ」
取りつく島のない信子の反応も良くあることなのだろう。刑事だと名乗る二人は特に気にした様子もなく淡々と話を続ける。といっても、話すのはもっぱら中年の方だけだったが。
「今日お伺いしたのはですね、高坂 元義さんのことなんです」
「っ!」
相手が警察だと聞いてから忙しく可能性を考えていたが、その中でも最悪の答えだった。信子はさっと顔をこわばらせ、部屋の奥を伺う。絶対に子供たちにはアレの話題を聞かせたくなかった。
「あの、申し訳ありませんが、高坂が何をしたとしても、もう私には関係がないんです。子供たちに聞かせたくない人の名前でもあります。どういったご用件でしょうか」
「……いえ、……奥さん、もしもよろしければ場所を移しましょうか。近くの交番でお話を伺うこともできますが」
信子は目を瞬いて世良と名乗った中年を凝視した。それから、廊下の突き当たりに掛けてある時計を確認する。20時半。子供を置いて出るには不安が残るが……高坂の話題となれば保険をかけておきたかった。世良の申し出を了承し、慌ただしく子供部屋に入り事情を説明する。もとより、別れた父のことについて子供たちはあまり良く思っていなかったのですんなりと理解してくれた。三和土で待たせていた二人に片手をあげて詫びつつ、下駄箱から自分の運動靴を取り出す。小さなマンションの三和土、沓脱は子供たち二人と自分の通勤靴でいっぱいなので玄関を開け、世良と木藤に外廊下に出てもらった。扉を支えてもらって靴を履き、礼を言いながら鍵をかける。
最寄りの交番までは、誰も口を開かなかった。年頃の子供を持っている母親ならだれでも知っているように、信子だって交番の位置くらい頭に入れてある。足早にそこへ急ぎ、奥の小部屋を借りた。
「……それで、高坂が、なにか」
「はぁ。すっぱり言うなら奥さん、高坂さんがお亡くなりになられてまして」
死んだ? 予想外の単語を出されて、信子はぽかんと口を開けた。捜査1課というなら殺人が担当だから、そのあたりの関係だろうとまでは思っていたが。
「……死んだ?」
「ご存じありませんでしたか」
「そ……それは、知りませんよ」
「沼本さんの、前のご主人ですよね?」
主人という言葉に連結された記憶で息が止まる。ゆっくりと、じわじわと歪になっていった家庭が断片的に浮かび、消えた。
「私たちが高坂と別れて暮らしている事情は、ご存知でしょうか」
「詳しくないかもしれませんが、おおよそは」
「私は……私たちは、逃げてきたんです。高坂から。ですからずっと、連絡だとか取っていません。消したい記憶なんです。無かったことに、したいくらいで」
「……それは」
不意に青年の方が口を出してきて、ぎょっと信子は肩を揺らした。なんとなく、置物のような感覚だったのだ。今までに一言もしゃべらなかったのでわからなかったが、青年の声は鞭のように響く声だった。何もせずとも非難されているような錯覚をしそうだ。
「ええと、……私、は、高坂から……浮気されつつ、家庭内暴力、を、受けてまして」
無意識に左のこめかみを手のひらでかばうように上げ、信子はやや背を丸めた。言いたくない事情というものはどんな人間にもあることだ。DVを受けていたことは恥じることではない。浮気されたことも。愛人と比較して罵られたことは向こうの恥だと。むしろ逃げ切ったこと、それこそを誇れと信子はカウンセラーに繰り返し擦り込まれた。目を閉じ、深呼吸を繰り返してようやく浮かんできた冷たい汗を手の甲で拭く。
どんな冷ややかな目を向けられているのかと恐ろしかったが、シャツのボタンを握る手を支えにして顔を上げた。予想外に同情の視線を向けられていて瞬く。
「……それは、大変でしたな。良くぞ決心できました」
「…………ああそれで、住民票も移動せずに表札も出しておられなかったんですね」
「はい」
こぶしが震えているのに気が付いて、信子はもう片方の手で隠そうとこめかみから手を離し胸元に手をやった。だがこちらも傍目にわかるほど震えている。
それほど、高坂は信子にとっての脅威だった。プライドを、粉々にしてから踏みにじられたのだ。
「きっかけが何かは覚えていませんが、私が決意したころの高坂は、浮気していたことの……なんというか反動と、私への暴力でひどい精神状態でした。もちろん、私と、子供たちも。あの、山際の一軒家から逃げ出してきて今の家は3件目ですが記憶は薄れてないんです」
「わかります。……その、山際の家、○○市○○丁○○番地からですね、高坂さんと思われる白骨死体が先日に見つかりまして」
目を合わせてはいたが、信子の頭にその情報が沁みとおるまでにはいささかの時間がかかった。白骨、死体、旧住所。ぐるぐると単語の切れ端が脳裏に舞う。
「……え?」
「そういう事情なら、高坂さんの情報も知られてないんでしょう。ですが地元では少々、話題にはなったのですよ。一か月ほど前ですが、○○市で民家から白骨死体が出てきた、と。ニュースで」
「……申し訳ありません、テレビは、子供たちがゲームに使うので……」
「新聞も」
「読みません。インターネットがありますし」
「ええ、多くなりましたよね、そういうご家庭」
調子のいい相槌を打たれながら、信子は目を逸らすことなく世良と会話を続けた。高坂が死んだという事実を知らされた安堵からか、知らず肩が落ちる。
「そうですか……死にましたか。あの人……え?」
「はい?」
「は、白骨って仰いましたか? あの家で?」
「そうです。その点をいくつか聞きたくて、沼本さんのお宅に伺ったんですよ」
再度、ぽかんと口を開ける羽目になった信子は、今度はいささか復帰するのに時間をかけた。
山際の家は貸家だったのだ。幼児が二人と夫婦でギリギリの二間プラス台所と水回り。平屋で基本の間仕切りが障子やふすまの家だった。街から遠い、コンビニもないし彼女との待ち合わせ場所もないじゃないかと不便を幾度も訴えていた高坂が、どうして信子たち三人が出て行ってもあの家を借り続けていたのか、そこからして信子にはよく理解できない。
「……借主は、高坂のままだったんですか」
「いいえ。沼本さんが出られてから、すぐに高坂さんも借家を出られたみたいです。そのあとは短期で借り人がいたようですね」
「……ええと、高坂が当時お付き合いされていた女性というのは……」
それを聞くのには、たいそうの勇気がいった。胃の上でつかえた塊が大きすぎて、いっそ喉が痛い。自分の、女としてのプライドを粉砕した存在。高坂は、彼女には優しいのかと信子に煩悶させた、複雑な存在。
「すぐに別れた、というか、高坂さん側の一方的な思い込みだったようです。お付き合いしているという事実が」
「……え?」
「高坂さんは向こうの女性とお付き合いされていると思い込まれていたようですが、我々が話を伺った感じではそんな事実は出てきませんでした。むしろ彼女も、高坂さんに付きまとわれて迷惑していたようで」
「え、…………え?」
ぐらぐらと地面が揺れているような気がしたが、揺れているのは自分の視界だった。信子は額に手を当て、深く酸素を取り込む。何年もたってからの新事実の発覚に、ついていけそうにない。
「結果的に見れば、高坂さんは6年前に当時の奥さん、沼本さんにお子さん連れで逃げられただけなんです。金銭トラブルも出てきませんでした。会社をお辞めになったのは……いえ、無断欠勤から解雇されたのがほぼ、沼本さんがたが家を出られた時期と一致します。それからしばらくは貯金やなんやでブラブラと暮らしていたようですな。我々が聞いた範囲でも、会社を辞められる前から周囲の方々とうまくやれているような雰囲気では到底ありませんでしたが、憎まれてるというほどでもない。ですから今回、高坂さんがなぜあの家で骨になられてたのか、我々はそこから知る必要がありまして」
「そう、で、しょうね……」
世良とは違い、信子はぼんやりとした相槌しか打てない。目では刑事二人を順に彷徨いつつ、信子はそれで結局、この人たちはなんの用事だったんだろうと、ようやくそれに思い至った。ハッと息を飲む。
「あの、もしかして私、疑われてますか? その、さ、……さ、殺人、とかで」
「お心当たりでもおありで?」
「まさか! いえ、でもこういう時は別れた妻が第一容疑者だと……あの、でも」
不思議な違和感を覚え、信子は口を濁した。何かが引っかかる。どこが、今までの会話で不自然だったのだろうか。自分のアンテナに引っかかったのはどこだ。
「…………あ」
「はい」
「……あの、高坂は、その、殺されたんでしょうか」
そこだ。刑事が来た、高坂の名前を聞いた、という点で頭に血が上ってしまったが、高坂が他殺なのか自然死なのか自死なのかで自分の扱いも変わる。というか、うっかり高坂を他殺だと疑っていなかったようだ。この二人は、そんな単語を一度も口にしていないのに。
あれ、と感心するような色が一瞬だけ世良の目に浮かんだ。なぜだか木藤の表情が硬くなる。
「司法解剖の結果、まぁ自然な亡くなり方でないことは判明しました。自力では、到底無理だということも」
遠まわしな世良の言い方がくどい。ということはなるほど、高坂は殺されたということになる。
そうか。
「……私は、高坂が死んでしまったこととは無関係です。子供たちも。アリバイを証明しろと言われるなら少し難しいですが」
「どうしてですか」
「どうしてって……。まず、証明する時期がいつのことなのかわかりませんと。それに、高坂から逃げた時、私たちは最初に、シェルターを使いました。……あの、市役所がしている、家庭内暴力から逃げるためのシステムです」
「……はい」
「逃げた時からしばらくは記憶があいまいですが、高坂は一度、あそこに来ました。どうやってか知りませんけど、さも、これは普通の夫婦げんかの延長だから、みたいな理由を並べ立てて、私たちを自分の手元に引き戻そうとしたんです」
「はい」
穏やかな世良の頷きに、そうか、ここまで調査をしてから刑事というものは話を聞きに来るのかと信子は思った。意外そうな表情がまるきり出ない。事前に知っていたのだろう。
「わ、私は、私だけが殴られるならいいと思いました。けど、美咲と真琴の顔を見て、この子たちが殴られるのだけは回避しないと、と思ったんです。怖くて、パニックで、その場でしゃがみこんで泣き叫びました。それを見て職員の方も気が付かれたんでしょうね。高坂を追い返してくださって……。そのあとすぐに、私たちはシェルターを出ることにしました。当座のお金と、暮らし方のコツを書いたプリントをもらって、夜逃げしたんです。高坂から」
「ご立派です」
「……2年もたってからですが、市からお借りした資金のうち、できれば返していただけると嬉しいですって言われた分の金額を返せると同時に、違うところへ引越しまでできる目途が付きましたので、こっそりとお金を市役所の方に返しました。窓口に行くことはとても出来ませんでした。あちらの市に行きたくなかったんです。公衆電話から担当さんの振込先を聞いて、ATMから振り込みました。○○市との関わり合いは、そこまでです」
「そのようですな」
「新しいところに移って2年して、その間にまたお金を貯めて。子供たちは高坂から逃げ出してこっち、あの、……ひ、引きこもりになってしまいました。コンビニとか公園とか、学校以外には時々なら出かけられるんです。ですから強引に私がどうこうするのも躊躇われて、ええと、それで」
「……」
「環境を変えれば、いつかはあの子たちも外に出るかもしれません。私はそう思って、真琴が、長男が中学校に入ることをきっかけにしてもう一度、引っ越しをしました。それが今のところです。どちらも校区内ですし、校長先生の方に事情をお話しして、絶対に、何があっても私たちの情報を外に漏らさないように徹底してもらっております。カウンセリングも、子供たちからの強い拒否にあいまして、ろくにできておりません。どこから私たちのことがバレるかわかりませんので、私もなるたけ他の方と仲良くしないように心掛けてますし……。……あと、私には祖母がいますけど、高坂が祖母に付きまとうことも怖かったのでそちらにも連絡を一切、取っていません。どうにも高坂の件以来、他人が怖いということもありまして、働いている場所でもなるべく口を利かないようにしてるくらいですから……アリバイが難しいのは、そういうことです」
長い身の上話を語り上げ、信子はふぅと大きく深呼吸した。言い忘れはないだろうか。これで、信用してもらえるだろうか。だらだらと喋った内容が、向こうの欲しがる情報であればいいのだが。
「つまり、大体、二年おきにお引越しされてるんですな。……なるほど、いや、良くわかりました。沼本さんが、ごく慎重に高坂さんとも御親戚の方とも縁を切られてることが」
「……」
「私としては、もうこれで十分です。お前は、何かあるか?」
「いえ」
世良は自分の横に座っていた木藤におざなりな確認を取った後、信子を促して立ち上がった。良かった、なんだか知らないがこれでもうお終いかと安堵した信子が、つい欲を出す。
「……あの、今度のことで、私の祖母に会われましたか」
「ん? ええ、はい」
「げ、……元気、でしたか」
絞り出すような声に同情してくれたのか、世良は木藤の背中を叩いて小部屋から先に出させた。ごそごそと靴を履いている青年の背中にかけるように、優しく声を出す。
「お元気でしたよ。ただひたすら、沼本さんとお子さんのことを気に掛けられていたようです」
「……」
言葉もなく、大きく肩を震わせる信子がふらふらと危なっかしい足取りで靴を履き、かろうじて礼を言って夜道を歩きだした。慌てたようにマンションまで送ろうとする二人を涙でいっぱいの目で断り、妥協案として5mほど後ろから付いてきてもらうことになる。
時折、しゃくりあげるような声を上げる信子の背中を見やりながら、世良は木藤に宣言した。
「…………沼本さんの線は薄くなった。もう蔵入りだな」
「……それがいいって、駄目だってわかってても、俺もそう思います」
刑事としての本能が、これ以上は無理かと判断したようだ。検察は高坂と思われる白骨死体が最初から土中にあれば5年以上前のものだと鑑定を上げてきた。ただし、白骨化までの時間で遺体が露出されていたのなら推定時間はその半分になると。
だが高坂の足取りは、3年前から不明なのだ。
とにかく白骨になってしまえば正確な時間判定は難しい。特に今回は衣服も身に付けてなく装身具も一切が無かった。庭先の荒れ果てた元畑を新しい借主が掘り起こそうと思わなければ、まだ発見が遅れていただろう。
信子はどこまでもグレー。だが、決め手を探すことすら難しい。
世良は肩を落とす。彼らの目の前では少し離れて、第一容疑者がマンションのエントランスに入るところだった。何気ないお辞儀でさえ綺麗な所作をしている被害者の元妻は、犯人なのかもしれなかったが同時にただのDV被害者の主婦なのかもしれない。事前の調べでは、さきほど聞いた信子からの聞き取りとほぼ変わらない結果が出てきていた。少なくとも、正直に話してくれたようだ。
どうして人と関わらないように暮らしていたのか、隠れるように幾度も住まいを変えていたのか。それだけが付け入る隙だったが、先ほどの話からすれば、3年前といえば信子の住まいは確定している。安定した引越しの期間。
彼女の決めたルールは守られ、聞く限りにイレギュラーはない。
「お蔵入り出すのは、ほんと、何度目でも辛いもんだ」
「俺は初めてなんで」
「…………飲みに行くか。報告書上げてから」
世良は、信子に何度もしてあげたかったことを木藤にしながら帰路を促した。つまり、背中を温かく叩き、慰める。相手が女性だからできなかったが、世良としては子供にするようにそうしたかった。
どれだけ、彼女がグレーでも。
黒ではない。
世良がそう判断したことで、高坂 元義の殺人と遺体遺棄に対する案件は以降、座礁ファイルに綴られることになる。
「ただいま」
信子は声をかけながら居間に入った。子供たちは部屋に入っているはずだ。自分が入れたのだから間違いがない。
彼らが、自主的に動けるわけもないのだから。
子供部屋から美咲と真琴を連れ出す。彼らは信子に何があったのかを強く聞きたがったが、とりあえずはお茶が先だ。彼らをソファに追いやってから、とっておきの紅茶を入れる。ティーバッグだが構わない。リーフで入れるような余裕なんて、とうの昔に捨て去った。
時計を見れば21時半になっていた。年寄に電話をかける時間でもないだろう。祖母は多分、80歳に近いはずだ。何年か会わなかっただけで、死んでしまったわけじゃないのだからいつでもまだ会える。
明日。
明日に電話すればいい。気がどれだけ急いても、他人に迷惑だけはかけてはいけない。それが祖母とのルールだった。
「なぁなぁお母さん、もういい? 聞いていい?」
「それよりなぁ、やっぱりこの部屋やと鬱陶しいわ、視線。なんやの」
「それな、なんとなくわかったわ」
無駄にカラフルでレーシーなカフェカーテンを見つめたまま、信子は笑った。賭けてもいい。窓の外には誰もいないだろう。そしてこの先もずっと、自分が子供たちの言う『視線』を感じることもない。断言できる。
「アンタらやし、わかったんやろうな。目ぇの力やな」
「ん? どういう意味やん。わからんし」
「あたしらやから? 何が」
「…………いいや、なぁんも、なんも」
信子はマグカップを傾ける。彼女の口が閉じている間は子供たちもしゃべれない。客観的に見れば腹話術とでも言えばいいのか、美咲と真琴の分は信子が声帯を貸しているのだ。ご飯については影膳のようにして毎回、一緒に食べている。服も靴もシーズンごと、定期的に買い直しては毎日、洗った。信子と靴のサイズが二人とも同じだから外出時にどれかの靴を選んで履けば、自動的に靴はくたびれていった。そう、使っている人間がいることは間違いない。
紅茶は温かった。渋さだけが出て苦く、香りも飛んでしまっている。せっかくのとっておきだ、次はもっと美味しく淹れて飲もう。
子供たちが珍しくゲームもデッキも当たらずに信子にだけ視線を当てて、再度聞いてくる。その無邪気に熱心な顔。
真っ黒い瞳と、きゅっと引き結ばれた唇。
あのとき、この子たちの顔面は陥没していた。
物言わぬ躯に成り果て、うつろな片目で夜空を見ていた。土砂降りの雨が視界さえ曇らせるような深更、ひどく生温い水滴越しに、濁った空を。
生きている人間は信子以外に誰もいなかった自宅の庭を、高坂の死体がいつの間にか違う家に移動していたのだというのなら、あのとき祖母は上から見ていたのだろう。言質は取っていない。不用意なことをする気は毛頭ない。
高坂は、金が欲しかったのだと見苦しく言い訳していた。書類上の縁だけが切れていない元妻の祖母の家に不法侵入し、居丈高に信子に命令しつつも高坂の声は潜められていた。恥を、自分にも晒せない人だったのかもしれない。どうでもいい。
子供たちが信子と父親を見つけ、騒ごうとしたのが高坂にとって堪忍袋の緒を切るきっかけだったのだろう。それまではさすがに子供にだけは手をあげない人だったのだが。やめて止めてと信子の声に煽られるように美咲と真琴を殴り、蹴り倒した。
馬乗りになり、たった一回。
それだけで、子供たちは息を永久に止め、愛らしい姿かたちを哀れに歪められた。
だから信子も同じことをしてやったのだ。呆然としている高坂を剥き出しの地面に蹴りやり、片手で高坂の前髪を掴んで後頭部を叩きつけた。全体重をかけ、二度。
美咲と、真琴の分。
刑事、世良に話したのはそれほどの嘘ではない。子供たちは確かに不登校になっていた。人間不信に陥りピリピリはしていたが家族三人、けれど、それでもあのときまではそっと仲良く暮らしていたのだ。信子は秘密裏に祖母に会っていたことと、高坂を殺害したのが自分だったということを言わなかっただけ。
信子はカップを手に持ったまま目を閉じる。しばし考え、ソファの方に目をやった。
そこにあるのは、精巧には作ってあるがただの人形だ。顔の造作すらない。必要がない。
信子が、人形を子供たちだと認識しているのだから。
たとえ物言わぬ人型であっても、母親が、あれを子供だというのなら。
あれを人形だと、生きていないと断じる世界の方が。
間違っている。
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無様な格好で地面に横たわる高坂を放り、信子は急いで子供たちのところへ駆けつけた。だがむろん、どちらの子も一目で死んでいることがわかるほどの惨状だ。心臓マッサージもした。そんなあほなことがと、小さな肉体にすがりついて泣きもした。
けれどどうしても、救急車を呼べるほど理性は飛ばせなかった。
信子は何度も深呼吸した。三つもの死体を前に、落ち着けという方が意味不明だろう。ましてや、最愛の子供たちが死んでしまったのだ。
いいや、殺された。
……ふと、悪魔のような考えが浮かんだ。
そうやんなぁ。どこの誰なら、どんな母親なら我が子が死んだとか認めるやろか。
死んでないとも。ああ、そんなん信じられますかいな。
この子たちは、まだ、私と暮らすべきや。
信子は心を決めると高坂の襟首を掴んだ。子供のころから、怒らせると怖い子だよと祖母はいつも笑っていた。冷静に、淡々と切れるんだからタチが悪い、女の子の切れ方じゃないと、上機嫌に宥められていた。その記憶と共に、腹を決める。
祖母の家には簡単な焼却炉があった。庭の面積が広いから落ち葉を燃やす為にずいぶん昔に設置したのだ。同じ理由で大型のコンポストもあった。枝打ちのためのノコギリ、大型の鋏。刃物。
どこまでも大粒の雨で視界が鈍い灰色に見える。この雨は台風の前触れだろう。明後日に上陸予定だとニュースがうるさく言っていた。二か月おきに定期的に入る庭師は、夏前だということで昨日入ったばかり。
何もかもが、まるでご都合主義な推理小説のように膳立てされている。
ぼろぼろと涙を流しながら、信子は無造作に焼却炉の前で高坂の服を剥いた。丸めて炉の中へ放りいれる。灰もコンポストに入れることがあるのか、それはわからないが大型のコンテナのようなリサイクラーも炉の横にあった。鉄製のふたを開け、重たくて邪魔な体を投げ入れる。
腐敗が進むかと考え、枝打ちされたばかりの細い幹や葉、腐葉土を高坂の上から敷き詰めた。それだけで処理を終わらせる。価値のない男に割く時間は、ただの無駄でしかない。不愉快だ。
取って返した信子は、今度はしごく丁寧に子供たちの体を撫で、ノコギリで荒く解体した。こぼれた内臓も、厚めの袋に何重かにして入れる。バラした体もパーツごとに同様にした。油性のマジックで名前を書いておくことも忘れない。
子供の持ち物には記名を。当たり前のことだろう。
彼らを連れて帰る準備を大体終わらせ、いったん祖母の家に入った。バスタオルで簡単に水滴を拭い、車の鍵を持ち出す。車のシートが濡れないようにタオルを敷くのは借りた者の礼儀だ。慎重に、祖母の家で所有している車を汚さないように子供たちを載せる。
高坂は、新しいマンションに引っ越した3日目にやってきた。信子たちがひっそりと隣人への挨拶を済ませ、ばたばたしている隙間を縫って祖母の家に挨拶がてら泊りに行ったときに後をつけていたのだろう。深夜に祖母の家のチャイムを鳴らした。
『俺、お前たちの新しい家の部屋番号まで知ってる。今度、泊りに行くから』
『ところで、すぐに金が要るんだけど。オマエ、今、幾らまでなら出せる?』
夜更けの祖母の庭で、下種な言葉に凍りついた信子をかばうように美咲と真琴が出てきて、それで。
信子は深夜の土砂降りの中を帰宅した。丁寧に子供たちを空っぽの冷凍庫に入れる。
つくづく、引っ越してきたばかりなので助かったと感じ入った。彼らを入れておけるスペースがある。
この子たちの体については、帰り道で考えた。まずは骨だけにしてしまおう。細かく砕いて、どこかで買ってきた人形にでも埋め込んでしまえばいい。この子たちと離れるなんてことは、欠片も考えられなかった。
だって美咲も真琴も、ただ、形を変えて信子のそばにいるだけなのだから。
肉については切り刻んで少しずつ生ゴミに出してしまおうか。肉体から違うものに魂を入れ替えたのだから、もとの抜け殻はもはやゴミとして扱えばいい。高坂の死体をリサイクラーに入れてしまったことで子供たちを同じ空間に入れることができなくなり、連れて帰ってきただけで、骨さえあれば美咲と真琴は彼らたりうる。
そこに未練はない。
信子は新居に鍵をかけ、忙しく祖母の家に戻る。あと何日間かして高坂の体の腐敗が進んだあと、どこかに埋めに行かねばならないだろう。どこぞの山中に放ってもいいが……ここには置いておけない。祖母に迷惑がかかってしまう。
車寄せに一人きりで乗ってきた車を停める。
いつの間にか、気まぐれな雨はやんでいた。
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「ほんなら行ってきますよって」
「はいはい」
「行ってらっしゃい」
美咲と真琴は信子に向けておざなりに挨拶をしてくる。それを軽く咎めるように、信子は困った笑顔で窘めた。
「あんたら、毎日言っとるけどなぁ」
「うぃーーす。挨拶は目を見て」
「行ってらっしゃいは感情込めて」
「知らん人が来ても玄関開けんで」
「仔山羊は大人しくしとる」
「わかっとるなら、守ればいいのに。仕方のない子ぉたちや」
誰が来ても、玄関は開けたらあかんよ?
信子は仕事に出かけ、夕方に帰る。子供たちの待つ家に。彼らいわく、視線だけで存在を主張する『誰か』が加わった家に。
家庭内暴力から浮気した元主人に、決して今後、自分たちに関わることを許さなかったままに母子だけの暮らしが始まって何年が経つか。
今週末は、久しぶりに祖母に会える予定だ。元気だと刑事が言っていたが、やはり顔が見たい。すぐにでも。
信子の足取りは早く、長年の肩の荷が下りたことで顔色も明るい。
家族とは、家とは、居場所とは、存在とは。
ただ母が守り、認識すべきことだ。
はい。というお話でした。
信子さんたらリサイクラーに入れたあと、高坂さんの遺体を移すのを忘れてましたよ。だから刑事さんとおしゃべりしたときに、すごく驚いたんですね。
彼女には遺体遺棄について偽装の意志がないので、これまで発覚しなかったのは単純にタイミングが良かっただけでしょう。もちろん、祖母は事後共犯です。主犯に知らされない共犯。
ロマンですね。
地の文に嘘はついてはいけない、というルール。会話を『』にしてしまえば一発で今回のネタはわかってしまいます。世の中のミステリー作家全員に、心底から敬服いたしました。
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ホラー? という仕上がりになってしまいましたが。
これが、私の思うホラーです。ふふん。