大人×武器
私は30歳の時、人生の大きな方向転換をしました。
それまで販売業と営業職に従事していたのですが、何を思ったかキッパリと離職(全然後悔はしていないですが)
そして本当にやりたい事をやってやろうと思い立ち、憧れていた鍛冶屋になろうとしたのです(火を見つめすぎて盲目になり、木炭の煙を吸いすぎてCOPDになったおじいちゃん鍛冶師とか、本気でカッコイイと今だに思います)
そう、鉄や鋼を打ち、刃物等を作り出すあの鍛冶屋です。昔から鉄や鋼が好きだった私は、それまでも趣味でナイフを作っていました。
最初は、板状に売られたステンレス鋼(ATS-34や銀紙1号等)を金ヤスリで削り出し、製鉄所に送り付けて焼き入れをしてもらう(個人でも一本からやってもらえます)というオーソドックスな手法。
道具も精々ヤスリ数本、万力、ボール盤、三面砥石位のものでした(細かい道具は増えて行きましたけど)
それから、ナイフ作りに嵌るにつれ、本格的なベルトサンダーやジグソー、小型の旋盤や、木を加工する電ノコなど道具も増え、最終的には、フォールディング・ナイフを作るための小型フライス盤、鍔や柄に彫り込むための彫金道具など、嵌りにハマり、最終段階まで行き着きます。
そう、自宅鍛冶です。
地面に七輪を埋め込み、電動ブロアー(落ち葉とか吹き飛ばしてかたずける道具ね)を取り付けて、木炭を燃やす。
田舎とはいえ、裏庭で火柱を上げる危ない人でした。
そして、トンテンカンテンとアンビルに乗せた鋼(青紙2号や白紙2号など)を叩いて、鉈や包丁等を作り出す。
素人仕事ながら、そこそこの物までは出来るものです。
焼き戻しや焼き入れ、サブゼロ処理なども頑張ればそこそこまでは出来る様になりました。
練習用にと軽自動車の板バネを貰いに、よくクズ鉄屋にも通いました。
板バネは上手く焼きなましが出来ると、理想的な炭素濃度を持つ良い材料になります。まあ、売り物にはならないですが。
親しくなると、出物が有るよ、と教えてくれる親父さんも出てきて、お礼に剣鉈などを作りました。
ですがやはり、素人の悲しさかプロの刃物程の性能は出ません。当たり前ですよね、偶に刃物産地に行って鍛冶教室などに参加するだけの自己流では本当のプロの切れ味〝あま切れ〟は出ません。
日本の打ち刃物は凄いのです。
よく切れて、刃持ちが良く、刃欠けせず、研ぎやすい。これらは絶妙な技術の上にしか成り立たない奇跡の様な代物です。
素人仕事では、この矛盾する難題は解決出来ませんでした。
(極単純に言うと、良く切れて刃持ちが良い=硬い、砥ぎやすく刃欠けしない=軟らかい)
三枚鋼と呼ばれる多層鋼などで調整出来たりするのですが、やはりプロの切れ味はでません。
そこで私はまず学校に行こうと決めました。
その当時、地球上で唯一の鍛冶師の学校はアメリカ南部の街、テキサカーナに有りました(テキサス州とアーカンソー州の間にあるからテキサカーナ)
そこで私はサンフランシスコに二ヶ月間語学留学し、その後、宿舎泊まり込みで一ヶ月の鍛冶修行を行いました。
教師は世界的なブラック・スミスのOX-FORGEという大男。
当時の私は今では信じられない位の行動力で突き進みました、軽く狂って居たと思います。目的の為には何でもしました。
サンフランシスコで付き合った台湾女性(しっかりやる事はやってます、美人でした)と初めての夜を過ごした翌日にフラれるという、男としての極限状況も体験し、本当に軽く狂っていました。
日本に帰ってから就職活動をするも、行く鍛冶屋さん、行く鍛冶屋さんで弟子は取ってない、無給で三年間頑張れば何とか物になるかも?と言われ続け、根性無しの私はスッパリ鍛冶屋を諦めましたが、アーカンソーの一ヶ月は忘れ得ぬ思い出となっております。
さて、ここからが本題です。
一ヶ月間、大の男達が朝から晩まで鍛冶修行をするのです。
食べ物はほぼハンバーガー、付け添えをポテトにするか、オニオンリングにするかしか悩む材料が無く、近場の外食店はその一件しか有りません(車で暫く走るとSHOーGUNという韓国人のやっているお寿司屋さんがありましたが)
更にはドライ・カウンティーという制度のある街の為、酒を売るのが禁止されていました。
そうです、もう鍛冶しかすることが無いのです。
全米中から集まった脳筋マッチョな武器好き男達に囲まれて、朝から晩までトンテンカンテン、授業はダマスカス鋼の作り方(折り返し鍛接や捻じったパーツの溶接からの鍛接まで)や、ナロータングのハンドル作り等を黒板で習い、後は実施有るのみ。
遊びは、戯れに作る投げナイフの投擲大会や、ナイフ好き=銃好きアメリカンの持ち寄った様々な銃(ライフルからハンドガン、散弾を発射するデリンジャーから、手製の銃まで)の射撃大会。余った時間で作った刀(状の何か)の試し斬りなど、もうドップリです。
何に?いや、趣味に。
本当に皆バカで気の良い奴らばかりでした。皆程よくガキで、好きな事に躊躇の無く突っ込んでいくような気持ちの良い位のバカ。
多分私はここで満足したんだと思います。日本に帰って例え就職出来なくても、自力で突っ走る情熱があれば何とかなったと思いますが、その熱が無い事に途中で気付きました。
今は全く違う仕事に従事してますが、全然後悔は有りません、何せやり尽くしましたからね。満足です。
思えば、テキサカーナ以前からアメリカン・ブラックスミス協会の重鎮ランドール氏に会いにアトランタ・ナイフショーに行き、右も左も分からないのにいきなりレンタカーを借りて6車線位の道路を走っていたら、記録的なストームが来襲、そしてコルベットに突っ込んで事故をおこし、降りてきたデップリ太った黒人のおばちゃんにファッ◯だのシッ◯だのと罵られ、殺される事を覚悟をする等、この時期は人生最大の大冒険期でした。
大人×武器=本気、マジです。マジで楽しかったっす!
因みに学校最後の試験、ジャーニーマン・テストという物には合格しましたよ。
打ち出したボーイナイフで腕の毛を剃り、2×4の木材をカットし、最後に万力で固定したナイフを90度に曲げて折れなければ合格。
つまり、よく切れて、刃持ちが良く、刃欠けせず、研ぎやすい。
これらの条件を一応はクリアーしたという事になりますね。
でもやはり、日本の打ち刃物が世界一だと思います。その件はいずれまた。