歯医者の巻
このところ、隣人の様子がどうもおかしい気がする。最初は気のせいかと思っていたのだが、気のせいも一週間ほど続けば、無視するのは難しい。
おかしいと言っても、身長が三メートルになっただとか、肌の色が七色に変わっただとか、そういった一目で感じる異変ではない。魔王の表情という、ささいな違和感である。
有り体に言えば、顔が怖い。
もともとあの顔面から愛想を見出そうとする方が間違っているのだが、ここ最近はいつにも増して目つきが鋭く、顔色は青ざめ、世界の幸い全てを呪い、人々を地の底に引きずりこもうとしているように見える。
魔王としては申し分ない面構えではあるが、隣近所に住む者としては申し分が大いにある。
見慣れたとはいえ、どうあがいても好青年という風体ではないのだから、あまり本職を感じさせるムード作りに気合いを入れられても困るのである。
昨日道ですれ違った時も、誰か殺してきた帰路ですか? という殺伐とした様子で暗雲たちこめる背景を背負っていたし、数日前祖母が買ってきた煎餅のお裾分けを持っていった時も、受け取りはしたが凄みながら賞味期限をやたら気にかけるなど、微妙な反応を見せていた。
魔王の身の上に何か起きたのだろうか。
誤ってプリンを5ダース買ったり、詐欺に引っかかりそうになったり、見かけと肩書きによらず迂闊な御仁である。
また人知れず何かに巻き込まれているのでは、と何となく気にかかっていた。
「ねえ、魔王さんさあ、最近ちょっとおかしくない?」
学校から帰宅した私は、皿の上の饅頭を口に放り込んで、母の隣に座った。勢いよく腰を下ろした振動で、ソファ全体が揺れる。
母はちらりとこちらを横目で見たかと思えば、すぐに視線をめくっていた雑誌に戻した。
「そう? いつもと同じじゃない?」
過去、母に隣人の件について相談を持ちかけて、納得のいく返事を得られたことはない。薄々わかってはいたのだが、今回もまた何も得られないのであった。
「おかしいって何かあったの?」
私たちの話を聞いていた祖母が、湯呑みを片手に台所からやってきた。淹れたてのお茶を、私の前に置いてくれる。
「具体的に何かあったわけじゃないんだけど、どうも様子が……」
私がそう言えば、祖母は思案顔で首を傾げた。
「言われてみれば、少し元気がないように見えたかも」
「げ、元気がない?」
あの迫力がみなぎる状態を、そう表現するのは正しいのだろうか。元気がないというより、慈悲はないといった風情だったように私には見えたのだが。
「まあ立場のある人だから、きっと色々あるんだろうね」
祖母がひとり納得したように頷くと、母は手を伸ばし、私の前に置かれた湯呑みを引き寄せた。それ私の、と抗議の口を開くより早くお茶を一口飲んだ母は言った。
「近々戦でもあるのかしら」
「い、戦ですと!?」
ぎょっとする私をよそに、母はカラカラと笑い飛ばした。
「冗談よ。魔王さんの地元じゃどうかわからないけど、こっちじゃそういうことはないでしょ?」
「そ、そう、ですね」
私は返事に窮した。
いつか勇者(管轄違い)が押しかけた折、我が家の庭先がファンタジー色強めの決戦の地になりかけたことを、私は二人に話していない。知らなくてもいいことは世の中にたくさんある。
母に湯呑みを奪われた私はソファから立ち上がり、今度こそ自分のお茶を求めて台所に向かった。急須にお湯を注ぎながら、改めて魔王の凶相を思い浮かべる。
「戦か……」
現在、魔王は休暇を謳歌している。緊急の案件でもない限り、休暇に仕事を持ち込むこともあるまい。とはいえ、勇者の時のように、向こうから厄介が転がり込んでくることも、なきにしもあらず。
ちょうどその時、呼び鈴が鳴り響き、玄関に鈴木さんが現れた。おなじみの回覧板を手にしている。
そろそろ、探りを入れてもいい頃かもしれない。
私は回覧板を口実に、魔王を訪問することにした。
たった数日ぶりだというのに、以前訪れた時よりも魔王宅は不穏な気配を帯びていた。 カラスがびっしりと屋根に止まり、ギャアギャアと不吉に鳴いている。心なしか、家屋に巻き付いているツタも、多めに生い茂っている気がする。
「すみません、魔王さーん。回覧板です」
チャイムを押してから、ドア越しに呼びかける。
呼びかけたところでドアチェーン対応を受けることとは間違いないのだが、「何奴」「瀬野と申す者」の手間くらいは省きたい。
やがてドア越しに、重低音が響いた。
「何奴」
特に手間は省けなかったようである。次回の課題としたい。
「私ですよ。回覧板だって言ったじゃないですか」
少しの沈黙の後、ドアチェーンが許す範囲でドアは開いた。
「ヒエ……」
思わず一歩下がってしまった。
理由は簡単である。ドアの隙間から見えた顔が、大変に怖かった。
昨日よりさらに、顔面の治安が悪くなっている。眼光は冴えて鋭く、肌に走る傷は生々しく脈打つように赤く色づいている。目が合った瞬間に塵にされそうだ。
魔王が引っ越してきた当初であれば、私はここで腰を抜かして四本足で這いつくばりながら逃げ去っていたところだろう。幸い、いや幸いかどうかはわからないが、魔王への免疫がいくらかできた今、多少おののく程度で済んだ。
「ご苦労」
怖い顔が喋った。
言葉に反して、まったく労っている顔つきではない。
私はじっと魔王を観察しながら、心で唸った。探りを入れるべくやって来たものの、一体この七代祟っている最中のような面構えの相手に、どう話を切り出したものだろうか。
逡巡しながら、慎重に口を開く。
「あの、魔王さん、最近調子どうっすか」
これが最適解ではないことくらいは、私もわかっている。わかってはいるが、世間に揉まれてもいない田舎の高校生風情が、賢いやり口など知っているはずもない。
魔王は不吉に目を一度光らせ、こちらの真意を問うように、瞬きをひとつした。私はごにょごにょと言い訳めいたことを言った。
「気のせいか、いつもと様子が違うような気がしたんで……」
「ふ……」
魔王はわずか口角を持ち上げた。笑うとますます迫力が増す。
「節穴と侮っていたが、それなりに見る目は持ち合わせていたか」
「あ、やっぱりなんかあったんですか?」
思わず身を乗り出すと、魔王は笑みを引っ込めて黙り込んだ。
私が感じていた通り、何らかの事情を魔王は抱えているようだ。しかしその口は重く、なかなか理由を語ろうとはしない。どっしりとした構えが常である魔王の沈黙は、果てしなく長そうだ。
気にかかることは確かだが、いつ終わるとも知れない黙秘に付き合うのも正直億劫なので、一旦帰ることにした。
「あの、では私はこれで」
「待たぬか」
ドアチェーンからにゅっと伸びた手が、私の二の腕をつかむ。
「話はまだ終わっておらぬぞ」
「始まってもいなかったと思いますが……」
ドアチェーン越しの表情は、変わらず険しい。何か言おうとしたのか、うっすら魔王の口が開いたが、結局言葉を発することなく閉じた。
またも沈黙がやってくる。
これまで、そんなこと自分で何とかしてくれという、しょうもない用件でいちいち私を呼びつけていたとは思えない、この慎重な態度はどうだ。もしや、思った以上に深刻な状況に見舞われているのではないだろうか。
母が冗談交じりに口にした「戦」の一文字が脳裏に浮かぶ。
もし本当に、この地で戦が勃発しそうなら考え直してもらいたいし、それが無理なら早めに連絡してほしい。水道工事だって、前もってお知らせをしてくれるではないか。
じりじりと緊迫している中、時だけが流れていく。引き留められたものの、私は未だドアチェーンも外してもらっていない。
長い……。
思った通り、魔王の沈黙は映画のエンドロールくらいあった。
映画のエンドロールには感動と余韻があるが、この玄関先でもたらされるのは辛抱と忍耐である。
さして気長ではなく、限られた生を生きている私は早々に音を上げた。
「すみません、袋を開けた煎餅が湿気る頃なので帰ります」
そう言って再び背を向けたが、さっきと同じ調子で引き留められた。
「何度待てと言わせる。このうつけ」
悪口だけはしっかりと言われる始末。
「いやだって、全然話す素振りなかったし」
「わからぬか。間合いをはかっていたのだ」
なんの間合い?
どうも魔王は、語りたがらない割に、話は聞いて欲しいようだ。 喋らずにわかってもらおうとは、都合良すぎはしないだろうか。とはいえ、以前のように脳に直接話しかけられても困る。
「じゃあ、こうしましょう。今から私が十数えますから、その間に心を決めて話して下さい。数え終わっても魔王さんが話さなければ、」
「余を殺す、と……」
「帰るだけですよ!」
私は息を吸って、かくれんぼの鬼のように、間延びしたカウントを始めた。
いーち。にーい。さーん。しー。ごー。ろーく。
こちらを見下ろす魔王の目つきは絶対零度だ。話す気配を見せるどころか、カウントに合わせて、ドアを徐々に閉めていく。
なーな。はーち。きゅーう。
完全にドアが閉ざされた。
そして、いよいよ私が十を数えようとした時、ドアチェーンを外されたドアが大きく開いた。魔王が私をつかんで、身を隠すように中へと引っ張り込む。
「……る」
ドアが閉じる音に混じって、蚊の鳴くような声がした。あまりに小さかったので、魔王の声だと一瞬気づかなかった。
「え? なんか言いました?」
聞き返すと、魔王は先ほどより大きく口を開いた。
「この地に病魔が蔓延っている」
「病魔?」
想像から外れた、不穏な単語に面食らう。私が瞬きを繰り返していると、魔王が強張った声色で囁いた。
「朝も夜もなく渦を巻いた怨嗟の波動が、身の内を蝕もうとしておる」
魔王は、ゆっくりとした動作で自分の頬に手を当てた。冷えた美貌が苦痛に歪む。
その所作に、私は見覚えがあった。いつか、アイスキャンディーを食べた光景が頭の片隅で点滅する。
もしかして。
「歯が、痛いんですか……?」
魔王は実に不服そうに、小さく頷いた。
「……つまり、歯に違和感を感じながら過ごしていたものの、ここ最近はずきずきとはっきり痛むようになってきたんですね?」
「左様」
向かいのソファに座った魔王は、インタビューを受ける大物のように悠然と答えた。ただし、頬には手が添えられている。
あの後、人目を憚るように、私を家の中へ招き入れた魔王は、とくとくと窮状を訴えた。訴えた割には、歯が痛い以上の情報はなく、聞かされたのは、ほぼ「許しがたい」「このままで済むと思うな」「必ずや心胆を寒からしめてやろうぞ」など恨み言のデパートであった。
何事かと思えば「歯」って……と拍子抜けしたものの、同時に納得もした。
歯にまつわるトラブルはつらい。頭痛や腹痛とは違って、一度起きたら勝手に治ることはなく、確実に悪化していくことを考えると、悪夢の始まりとさえ思える。私も昔、虫歯を患った時分、世界の終末を願う程度には荒んだ心境に追い込まれた。歯痛は、人類が背負うには少々荷が重いと思う。
しかし、目の前で、すこぶる凶暴な顔を晒しているのは人類ではない。
「魔王さん、歯の病気にかかったんですよね」
「そうだと言っているではないか。愚な問いを重ねるな」
「でも前に、人の病気にはかからないみたいなこと、言ってませんでしたっけ」
話を聞いている時に、どうも引っかかったのである。
アイスキャンディーによる刺激に眉をひそめていた時、「脆弱なる人の子の病など患うわけはなかろう」とそこそこ尊大な態度で、魔王は確かにそう言っていた。
しかし、頬を手で押さえながら耐え忍ぶ様は、どう見ても脆弱な人の子が歯痛に苦しむ姿そのものだ。
魔王は一瞬黙った後、憮然と語った。
「郷に入れば郷に従え。魔族といえど、時に感化されることもあろう」
「感化されすぎじゃないですか?」
何も虫歯にまで土地に倣わなくてもいいだろう。郷だって、そこまではたぶん望んでいない。
魔王はじろりと私を睨み、肩をそびやかした。
「粗末でいじましい下界の暮らしを、あえてなぞっているだけに過ぎぬ。高貴な王たる身が、たやすく蹂躙されると思うな」
先ほど深刻な顔で、病魔に蝕まれているとか言ってたくせに。
発言を堂々と二転三転させておきながら、悪びれないこの態度。己の非を認めないことが、魔王という存在を強くしているような気もする。
反論する気を失い、私は出された麦茶を一口飲んだ。対して魔王は、常温の水を飲んでいる。歯への刺激を恐れているのは一目瞭然である。魔族、案外弱い。
「……それで、策は」
「へっ?」
「この事態を打破する策を早急に提示せよ。何のために、危険を冒してそなたに機密を預けたと思っている」
「機密」
魔王の口内環境が機密。これは重々しく迫られるほど価値のある情報なのだろうか。
町の人間に打ち明けたところで、大方「ふ~ん」以上の興味を示さないと思う。
「歯が痛いなら、痛み止めの薬が売ってるじゃないですか。ああいう市販薬を飲んでみるとか」
とりあえずの提案をすると、魔王は冷淡な視線を寄越した。
「そのような手段を姑息と呼ぶのだぞ、カオリ。しょせんは浅知恵よ」
ソファの横のゴミ箱の中に、鎮痛剤の空き箱が捨てられていることに私は気づいた。
なるほど姑息な浅知恵をお試しになったようですね? と反抗的な眼差しを送ったが、強面の十倍返しを食らったのであっさり退いた。今の魔王に睨みをきかせるのは、どう考えても得策ではない。
参謀として役を果たせという圧を全身で感じながら、私は考え込んだ。
「あ、そうだ。魔王さんの魔法的なアレでなんとかなりませんか? こう、パーッと痛みがひくような……」
これみよがしのため息が吐かれ、私の話は遮られた。魔王の顔中に「却下」と小馬鹿にするように書かれている。
「あっ、なんとかならないですね。はいはい、わかりました。なしなし」
向こうの態度が悪いせいで、こちらも自然と投げやりになる。
痛みに参っているせいだろうが、普段よりも魔王は横暴だ。まあこの状況で思いやりに溢れているとしたら、その人は天使か仏であろうし、間違っても魔王なんかしている場合ではない。
ふと目を落とすと、テーブルの上にチラシが広げられていた。
赤いペンで丸がつけられているのは、食料品ではなく歯磨き粉や歯ブラシの類いだ。先ほど目に入った鎮痛剤の空き箱といい、必死なほど手を尽くしている魔王の様子が窺える。
「一応聞きますけど、歯は磨いてたんですよね」
「無論。一日三度は欠かさず」
模範的である。こういう生真面目さを、違うところにも生かしてほしい。
「でもちゃんと磨いていても、歯って痛くなる時は痛くなるんですよね」
軽い気持ちでそう言えば、魔王は灰色の眼をつり上げ拳を固く握った。
「そのような理不尽があろうか。余を誰と心得ておる」
「凄まないでくださいよ。虫歯になったのは別に私のせいじゃないし」
「……むしば?」
馴染みのない言葉だったのか、魔王は片眉を上げながら繰り返した。
「虫歯です。歯の病気」
「蝕」
「たぶんですけど、違う漢字を当ててると思います」
見えないのに何故か伝わる、誤った仰々しさ。
「虫と歯ですよ。虫が歯を食い荒らすイメージかな」
「ふん。いかにもおぞましい響きではないか。蟲が食い荒らし跋扈する……蟲覇か」
「画数を減らしてください」
歯がトラブルと聞いて、真っ先に浮かぶのが虫歯だ。それ以外にも、悪さをする病はあるのかもしれないが、あいにく医者ではないのでわからない。
「っていうか、そうだ、医者だ!」
「何?」
「歯医者に行けばいいんですよ」
耐えがたいほど歯が痛むなら、こんなところで不毛な話し合いをしているより歯科医に診てもらうべきである。もっと早く思いついてもいいはずなのに、魔王の圧迫面接のせいで当たり前の発想が、隅に追いやられていた。
「ほう。この死に果てて久しい地にも呪い師はおったか」
「勝手に人の町を死に果てさせないで下さい」
上陸してきたチェーン店が閉店していく早さに瀕死を感じることはあるが、一応まだ息はあると思いたい。
「いくらでもとは言えませんけど、歯医者くらいありますよ」
「蠢く蟲どもが撒き散らす憎悪を人間ごときが断ち切れるか、疑わしいものよ」
「人間ごときでも断ち切れるんじゃないですかね。現に私は治りましたし」
ぴくりと魔王はわずかに反応を示した。
「それは真か。カオリそなた、この苦境を乗り越えたと」
私を見る目の色は驚きを含んでいる。魔王はいたく真剣で、そして切実だ。よほど歯痛が堪えているらしい。
「ええ。私は虫歯を克服したんですよ。ええ」
私はわざわざ大きく腕を組んでみせた。
普段、悪し様に言われているだけに、魔王から時折向けられる羨望や尊敬の眼差しは正直に気分がいい。
「ま、あんまり進んで行きたい場所ではないですけど、放って置いても楽になることはないでしょうし、一度受診した方がいいですよ。自分の身が可愛いならね」
びゅうびゅうと風速十メートルくらいの先輩風を吹かせると、魔王は頬に手を添えたまま、厳めしい表情で目を閉じた。考え込んでいるのか、歯が痛いのか、もしくはその両方か。
ややしばらくの間をおいて、魔王はソファから立ち上がった。
「……やむなし。カオリ、その呪い師のもとへ案内する任を申しつける」
訪れた歯医者――中島歯科はかなり古びていた。
隠す気もない外壁の劣化やひび割れなどが、重ねた年月を物語っている。果たしていつから開業しているのかはわからないが、記憶を遡ると、私が生まれた頃にはすでに老舗の風情を漂わせていたとように思う。
警戒心からか、魔王は入り口の前で仁王立ちしてなかなか動こうとしなかったので、背中を押して入らせた。
入った途端、ツンとした潔癖な匂いが私たちを出迎えた。
中の様子も、外観の印象そのまま古めかしく、電灯がひとつ切れかかっている入り口は薄暗い。私はスリッパが並んだ棚を指さして、魔王に促した。
「そこでスリッパに履き替えて下さい」
「ほう」
「いや違う、それ子ども用。どう見てもサイズ感に無理がありません?」
「ふむ」
魔王はファンシーなピンク色のスリッパを棚に戻し、ベージュのスリッパを手に取った。恐らく「中島歯科」と印字されていたであろうスリッパの文字はほぼ剥がれ、「歯」しかまともに残っていない。
大丈夫だろうか。
私はじわりと心許ない気持ちになった。
実を言うと、中島歯科に来るのは今日が初めてである。
過去、私が世話になっていたのは別の歯医者で、そこを紹介できれば良かったのだが、二年ほど前に大きな町へ移ってしまったために叶わなかった。
何の情報もなく、得体の知れない古びた歯医者を頼るというのは結構スリリングなことである。自分で連れてきておいてなんだが、はらはらしてきた。
いやしかし、古いということは、経験豊富とも言える。経過した年月の分だけ患者を診てきたのだから、外観はボロでも腕は確かだろう。
自分に言い聞かせながら、歯だけが印字されたスリッパで中島歯科に踏み入れた。
「あの、こんにちは」
受付に声をかけると、奥から年配のご婦人が「はいはい」と言いながら現れた。私の祖母より遙かに高齢のようだが、紫に染めた髪色が若々しい。
「今日はどうされました?」
問いかけられ、私の背後に立っていた魔王がぬっと前へ出る。
「忌まわしき毒虫が亡者のごとく身の内で蠢いておる。即刻根絶やしにせよ」
「え? なあに?」
「忌まわしき毒虫が亡者のごとく身の内で蠢いておる。即刻根絶やしにせよ」
「ええ? ごめんなさいねえ、耳が遠くて」
「忌まわしき毒虫が亡者のごとく身の内で蠢いておる。即刻根絶やしにせよ」
「よく聞こえなかったわ、鎖国ネバダ州?」
「歯が痛いんだそうです」
たまらず割って入ると、ようやく通じたのか、永遠に続きそうだったラリーはそこで終わった。
「ああ、わかりました。うちに来るのは初めてかしら」
「無論。そして最初で最後だと思え」
歯医者に一度かかると、たいがいその後数回は通うことになるので、余計なことは言わない方がいいと思う。
その後、保険証の提示を求められ、「保険証あるのか?」と一瞬たじろいだ私をよそに、魔王が涼しい顔でスッと袖から出し(やたら黒いカードだった)、事なきを得る一幕があった。
果たしてどこの保険組合に属しているのか謎が渦巻くものの、私にわかり得るるはずもないので、魔王であっても保険料は払う、という世知辛い事実だけを胸に刻むこととする。
「じゃあ、お呼びしますからそちらでお待ち下さいね」
受付を無事終えた我々は、そのまま奥の待合室に通された。
「おう、あんたらかい」
長椅子が並ぶ待合室には、見知った顔があった。過去、三枝さんのお宅で顔を合わせ、甲冑(を着た私)をトラックの荷台で運んでくれた竹田さんだ。
あの時は肌着のようなランニングだったが、今日はオレンジのアロハシャツを着ている。袖があるだけいいのかもしれないが、夏が過ぎて久しく時折冷たい風が吹く今、季節感が狂う。
「二人揃って歯医者にかかるとは仲がいいね」
「あ、私はただの付き添いで歯が痛いのは魔ムホ」
急に後ろから口を塞がれた。
「べらべらと機密を吹聴するとは気でも狂ったか。その口に重石でも縫い付けてつけてくれようぞ」
地獄のような低い声が、耳元で囁きながら脅しをかけてくる。私は両手で魔王の手を剥がし抗議した。
「いやさっき受付で話してたじゃないですか」
「呪い師の片棒を担いでる者に隠し立てはできぬであろう」
歯医者に来た時点で、歯に何らかの問題を抱えていると言っているようなものではないのか。
魔王は竹田さんの方を見ると、ふんぞり返った。
「カオリが痛い苦しいと無様に泣きわめくゆえ、致し方なく供をしてやったまでよ」
「は? ちょっと誰がムホ」
再び口を封じられ、真実をねじ曲げられてしまった。こういう時に、魔王に秘められた邪悪を感じる。だいぶ安いが、邪悪は邪悪である。
弁解を許されぬまま長椅子に近づき、竹田さんに並ぶ形で腰を下ろす。そこでようやく、口を蓋していた魔王の手が外れた。私が余計なことを言わない為なのか、竹田さんの横には魔王が陣取っている。
「タケダ。そなたも蟲覇に苦痛を強いられた身か。老いぼれには荷が重いであろう。死出の支度でも整えておくがいい」
この人よくぶん殴られないな。
「いや、俺は入れ歯の調子を診てもらいに来ただけだ、ほらこれ」
竹田さんは入れ歯を見せるように、ぱかりと口を開けた。
「もう終わったから、家族が迎えに来るのを待ってるところよ。朝から酒飲んじまったから、運転できなくてなハハ」
竹田さんの笑い声が、がらんとした待合室に響き渡る。今頃気が付いたが、私たち以外に患者の姿は見えない。
「やけに空いてますね……?」
不安を滲ませながら呟くと、ああ、と竹田さんが応じた。
「最近はこんなもんだ。昔なんて、いやってほど待たされたもんだが」
「じゃあ、あのう、ヤ、ヤブってことはないんですよね?」
さすがに堂々と聞くのは躊躇われるので、背を丸めて声をひそめる。
「そりゃないない」
竹田さんは笑いながら大きく手を振って否定した。
「中島先生だろ? ヤブなもんか。昔から通ってる俺が言うんだから間違いない」
「そ、そうですか! 腕は確かなんですね」
「うん、腕は確かだった」
胸をなで下ろしかけて、思い直す。
どうして過去形。
「今は確かではないという意味ですか……?」
「いや、腕は鈍っちゃいない。ただ中島先生も年食ったからさ。最近はこう……目の方が怪しくてね」
すっ、と背中に緊張が走る。
横にいる魔王からも同様の気配が感じられた。
腕が良くても視力に難がある聞くと、少し、否、だいぶ怖いのではないか。目が悪い事による様々な悲劇が、想像力を土台にしてむくむくと頭の中で膨らんでいく。
ふと隣の様子をうかがうと、魔王は偉そうに腕を組んだままで、さほど取り乱してはいないように見える。ただし、待合室に飾られた、さっきまで青々としていた鉢植えの葉が枯れているなど、千々に乱れた魔王のお心の状態がひしひしと伝わってきた。
「カオリ」
魔王の首が、ぎぎぎとこちらを向く。
そなた、たばかったな、という恨み最大出力のご面相をしていた。
いいえそんなことは決して、という表情でこちらも精一杯に訴えてみたが、果たして通じただろうか。
「魔王さーん」
そうこうしている内に、診療室から呼び出しがかかり、びくっと私の魔王の肩が揃って震えた。
ど、どうする……?
考えてみても、他に歯医者の心当たりはないし、あったとしても今から行くには遠い。 そもそも、ほとんどの歯医者は予約制だ。飛び込みですぐに診てもらえるのは、この中島歯科くらいのものだろう。
「魔王さーん?」
再び、診療室へ誘う声が響く。もはや退けぬと悟ったか、魔王はすっくと立ち上がった。
「ご武運を」
私がそう声をかけると、魔王は頷き、まっすぐ診療室へと向……かわなかった。私の手をぐっと握ったかと思えば、道連れのようにして引きずって行く。
「ちょっ……なんで私まで!?」
首だけで振り向いた魔王は、一言告げた。
「立ち会え」
出産?
「診察室くらいひとりで行ってくださいよ! 私がいる意味ないですって!」
歯医者の診察に立ち会ってどうする。手でも握っていろというのか。
「万が一、呪い師が不手際をした場合、そなたが余に代わって成敗せよ」
「できるか!」
踏ん張るなど抵抗を見せたものの、魔王と私の力の差は歴然としており、おもちゃ売り場でわめく子どもとそれを回収する親のように、ずるずると診療室へと連れて行かれた。
どうでもいいが、私を黙らせてまで主張した「俺はただの付き添い」設定が完全に崩壊していることを、動乱の渦中にある魔王は気づいていない。
見苦しく診察に向かう私たちの背中に、頑張れよ~と、竹田さんの軽いにもほどがある激励が飛んだ。
診療室に入ると、ぽつんと診療台がひとつ。その脇に、小柄で白髪のおじいさんが白衣を着て立っていた。この人が中島先生だろう。
彼は私たちを見て、目を瞬かせた。
「ああ、魔王さん? おや、いよいよもうろくしてきたかな。二人いるように見える」
「いや二人なんですよね」
まあ私も魔王も、双方小さなお子様とは言えない年格好なので、付き添いでやってくるとは思わないだろう。
しかし今の様子で、目が悪いという前情報が早速裏打ちされてしまい、緊張感が増した。
「この者については、不出来な置物とでも思って捨て置け」
追い出されるかと思いきや、中島先生は「ああいいですよ」とエプロンをつけながら、診療台を指さした。
「歯が痛いそうだね。とりあえず見せてもらうから、そこへ」
魔王は診療台の周囲に置かれた謎の器具を見つめた後、ゆっくりと私の方を見た。
「拷問台か……」
「そう見えないこともないですけど違います。ほら、寝てください」
袖を引っ張って促すと、魔王は意外そうに目を開いた。
「このような悪辣な寝台に身を横たえろと?」
「そういうもんなんです」
「余でなければならぬのか」
「そりゃそうですよ。私が乗ってどうするんですか」
魔王は眉間にこれでもかと皺を寄せてから、不承不承、診療台に身を委ねた。
通常ゆったりと感じられる診療台も、長身の魔王が横たわると窮屈に見える。
何だか新鮮な光景だ。自分自身が治療を受けることはあっても、人のこうした姿を上からまじまじと見下ろす機会は、そうあるものではない。
それにしても、改めてなんという無防備な状態だろうか。さしもの魔王も、こうなるとまな板の鯉。見てくれは黒くて禍々しいものの、我々と同じ、無力な患者という風情だ。 当人もそれを感じているのか、顔はもとより体中から緊張感がみなぎっている。
我々のざわついた心持ちなど知るよしもない中島先生は、新品の箱からマスクを一枚取り出そうとして床に落とし、もう一度新しいマスクを装着しようとしているところだ。手つきが何とも覚束ない。
「だ、大丈夫ですか」
不安だ。
しかし中島先生は、目を細めて春風のようにおっとりと微笑んだ。
「大丈夫大丈夫、少し手が滑っただけでね。それに、魔王さんって魔王の人でしょう」
不思議な問いかけだが、他にいいようもないので私は頷いた。
「こう見えても私、魔王を診察するのは二回目だから」
「えっ、二回目?」
「ええ。私の息子がまだ結婚してない頃だから、最近の話ではないけどね」
それは一体どのくらい前のことなのか見当もつかないが、つまり魔王の歯について知識と経験があるということだ。この不安渦巻く状況の中で、ようやく見つけた安心要素である。一抹の希望が見えた。
ガシャーン!
「おっと」
中島先生は手を滑らせて、ピンセットなどの器具が入った金属のトレイを床に撒き散らしていた。
一抹の希望は瞬く間に萎み、再び不安が心のセンターに返り咲く。
大丈夫なのか本当に。
「カオリ」
魔王が小さく手招きをしている。私は顔を近づけた。
「良いか。あの呪い師が不審な動きを見せた時には、このように」
魔王は手をチョキの形にして、両目を突く仕草を見せた。これはどう見ても、目潰ししろのサイン。
「やるわけないでしょう。なんちゅうことを命令するんですか」
「何故わからぬ。一瞬の判断が生死を分かつのだ」
「私の正気が疑われます」
患者でもないのに診察室まで押しかけて、果ては歯科医に目潰しする所業、どう考えても今後この町で暮らしにくい立場になること間違いなし。
「はい、じゃあ見せてもらうね」
小声でこそこそと揉めている私たちに割って入るように、細長い金属を手にした中島先生が診察台に近づいた。魔王は険しく厳しく禍々しい表情を浮かべたが、さすがベテラン中島、怯んだ様子もなければ遠慮もない。
「大きく口を開けてー」
この期に及んで往生際悪く、魔王は口を真一文字に閉じている。中島先生は、それをどんな手を使ったのかわからぬがあっさりとこじ開けた。
ただ口が開くだけだというのに、ゴゴゴ……と地響きのような音が診療室にこだました。
私は私で、なすすべなく口内の自由を明け渡す魔王というレアに違いない状況を、手持ち無沙汰で眺めていた。この場に参加しているものの、歯科医の助手というわけでもなく、付き添いという名の見物人でしかないので、特にやることがないのである。
「……うん、虫歯もないし綺麗なもんだね」
口の中を覗き込みながら、中島先生は言った。
「なんほぁほ」
魔王が何か返事をしたようだが、口が開いた状態では発音に障りがある。代わりに私が受け答えをした。
「そうなんですか? でも痛いって呻いていたみたいですけど」
「うん。虫歯じゃなくて……痛むのはここだろうね」
恐らく、中島先生は患部に器具を当てたのだろう。
「ウワッ」
突然、魔王の目がカッ! と激しく光った。ビームが出た、くらいの勢いで。
すぐに光は治まったが、魔王の肩がかすかに震えていたので、相当痛かったのだろうと思われる。見れば、ひっそりと手をチョキの形にして「やれ」と、目潰しのゴーサインを出していた。誰がやるか。
目潰しの標的にされていることも知らず、中島先生は口内を観察しながら言った。
「これね、歯の下から新しい歯が生えてきてるの」
「新しい歯……? ってことは」
魔王は、まだ乳歯だった。動揺が静かに駆け抜けていく。
「普通は自然と抜けていくんだけど、しっかり残っちゃってるね」
中島先生が指を動かし、いじくり回している。魔王の目がカッと再び光った。
「あ、ごめんね。手が滑って」
間近で結構な光量が放たれてるにもかかわらず、中島先生は一向に取り合わない。
「ちょっと触るから、痛かったら言ってね」
先生、すでに彼は主張を繰り返しています。
その後、中島先生は幾度か手を滑らせながら、何やら金属の棒で魔王の口をかき回し、そのたびに魔王の目は、接触性のライトのようにビカビカと光った。
まさか生きている内に、魔王が他人に生殺与奪を握られている場面をお目にかかれるとは思わなかった。今、魔王に断末魔を上げさせられるのは、勇者ではなくこの老いた歯科医師、中島かもしれない。
ほどなく、中島先生は器具をトレイに戻し、ふう、と一息ついた。
「よし。もうこれ、抜いちゃおう」
白髪を抜く時よりも軽い調子で言った。
魔王の肩が、わかりやすいくらいに大きく跳ねた。
「ぬ、抜くって、今ですか?」
「うん。今やっちゃおう」
「そんな軽やかに」
中島先生は魔王に一度背を向けて、何やら新たな器具を手に戻ってきた。
どう控えめに見ても、ペンチ的なフォルムだった。小ぶりではあるものの、そこには掴んでむしり取る、という強固な意思が溢れている。
さすがに性急すぎる気がして私は慌てた。
「えっ、もういきなり!? 麻酔とかは!?」
「いやあ前も試したんだけど、効かないんだよね。魔王に麻酔って」
かつて魔王を診察した時、何本も打ってみたが効果がなく、結局そのまま治療に移ったという。想像すると気を失いそうな話だ。
「……痛がってませんでした……?」
「痛がってたよそりゃ。暴れて壁にぶつかったりしてね。あれ、その時の跡」
中島先生が指をさす先には、大きな人型のようなシミのようなものがあった。まさかこんなところに、誰とも知れぬ魔王の魚拓が。
その時、診察台の上で沈黙を守っていた魔王が、がばっと飛び起きた。
「火急の用を思い出した。城へ戻る」
口調こそ淡々としていたが、背中では羽が開きかけている。魔王は堂々と、この場から逃亡を図ろうとしていた。素面で歯を抜かれるという恐怖に、魔族の長であろうとも勝つことはできなかったようだ。
診察台から飛び降りた魔王は、撤退するときの悪役よろしく、いよいよ羽を大きく広げ、黒いマントを大仰にひらめかせた。
「この身に受けた屈辱、忘れぬぞ。いつか必ずや今日の行いを後悔させてやる。それまで漆黒の闇に震えて眠るがいい」
出所のよくわからない謎の風が吹き始め、演出に花を添える。
ちなみに私は、拐かされる小娘のように小脇に抱えられ、この場面を父が見たら卒倒するだろうなと、思いを馳せるなどしていた。
どうか窓ガラスを突き破るなどの、派手な去り方を魔王が選びませんように。
患者の蛮行に、中島先生は動じた様子もなく首を傾げた。そして、マスクを少し下げてから、のんびりと言った。
「だけどそれ抜かないと、これからもっともっと痛くなるよ」
途端、威勢良くマントを吹き上げていた風は止んだ。目をつり上げていた魔王の勢いも萎み、すん、と神妙な顔になっている。
「新しい歯はだいぶ下の歯を圧迫してるし、根っこが残ってるから抜ける気配もない。しばらくかなり辛いんじゃないかな。市販の痛み止めも、効くかどうか」
淡々と並べられる事実を、魔王は肯定も否定もせずに大人しく聞いていた。
恐らく、葛藤しているのだろう。目の前の抜歯と、悪化しながら続いていく鈍痛、どちらを選ぶか。
繰り返すが、魔王の沈黙は長い。映画のエンドロールがもう一度流れてしまうくらいには。中島先生が途中で飽きてしまわないか心配だったが、彼は丸椅子に腰を下ろし、眼鏡をかけて新聞を読んでいた。眼鏡があるなら、最初からかけてほしかった。
やがて長い沈黙の後、魔王は私を床に下ろし、自ら診察台に上がった。
「……一度だけ機会をやろう」
寝そべる姿には生気がなく、悲壮感が漂っていた。それでも絶対に下手に出ないところが、魔王として一貫している。特に褒めてはいない。
中島先生は椅子から立ち上がって、うんうんと頷いた。
「偉い偉い。さすが男の子だ」
お年寄りの言う「男の子」の範囲はいつも広すぎるのである。
「魔王の人だったら血もすぐ止まるから、まあ大丈夫だよ」
中島先生からの励ましを受け、覚悟を決めたように魔王は目を閉じた。顔色が悪いだけに、死人に見える。ここまで追い詰められた魔王の姿は見たことがない。なんだかよくわからないが、最終回、というテロップが脳内に流れた。
「痛むだろうからね。手を握っててあげなさい」
「え。手?」
「カオリ。早くナカジマに従わぬか」
「は、はあ」
言われるまま、私は魔王の手を握った。本当に、立ち会い出産の様相を呈してきた。
戸惑いを覚えるのは確かだが、とても断れる空気ではない。
緊張感の中、再びペンチを握った中島先生が、魔王に迫った。銀色に光りながら、厳かに魔王の口の中へ侵入する。
ちゃんと眼鏡をしているので、目標を誤ることもないだろう。違う歯を抜かれた、なんてことになれば、私もさすがに目潰しを敢行しなければならなくなる。
中島先生は真剣な眼差しで、手首に力を入れた。
「……えい!」
「いだっ!」
今の悲鳴は魔王ではない。魔王の握力で手が握り潰されそうになった私によるものである。
終わったか、と顔を上げた私の目に入ったのは、魔王の歯……ではなく、首を捻っている中島先生だった。彼はさらりと非情なことを言った。
「うーん……抜けないな」
「は?」
「思ったより頑固に残ってるみたいでね。よし、もう一回」
そう言いながら、中島先生はペンチを捻った。魔王の手に再び力が入り、私の手は握り潰されそうになった。
「ぎゃあ!」
「まだだめか。私も歳だから、力が入らなくなってきたのかな」
瓶の蓋が開かない時、祖母もよく同じことを言っていたと思う。しかしこの場で耳にしたい台詞ではない。中島先生は一度ペンチから手を離し、気合いを入れるように腕を回した。そして、声もかけずに再トライした。
「ちょっ、待っ……痛え!」
「あっ、抜けそうになってきた。今のこの感じでやってみよう」
「痛い痛い痛い痛い痛い死ぬ」
中島先生がペンチを握る度、魔王は拳に力を込め、握っている私の手まで潰された。今や、振り払って離そうとする私の手を、逆に魔王の方が握りしめている。完全に私と魔王は繋がっている。ともに中島先生に、命運を握られている。
痛みを分かち合うというといえば聞こえはいいが、どう考えてもただの巻き込み事故だった。
「先生、まだですか!? まだ抜けないんですか!?」
「もうそろそろなんだけど……よいしょ」
「ギャアア」
「よし、もう一息かな」
「頑張って! 頼むから! 早く抜いてくださいお願いしまイタタタタ」
魔王の抜歯は、映画のエンドロールより、もっと長かった。
地獄の攻防の末、無事歯が抜けた時、額に汗と目尻に涙を浮かべながら「おめでとうございます!」と祝福の言葉を述べてしまったことを考えると、やはり出産だったのかもしれない。
歯を抜かれた魔王はしばらく呆然としていたが「よく頑張ったね」と中島先生に労われ「どうということはない。蚊に刺される程度よ」と、取って付けたような居丈高な台詞で、プライドをかろうじて守っていた。
ともに憔悴しきった私たちはふらふらと診療室を出て、治療費と初診代をきっちり払い、次回受診の予約を入れ、帰路に就いた。
「今日のことは他言無用である。もし口を滑らせた時は、一族郎党、首を差し出すことになるぞ」
計二十五回。家に着くまで、魔王が私に念を押した数である。
待合室には竹田さんがまだ残っていたので、いずれどこからか漏れるであろう。竹田さんの一族郎党の首を、今後確認する必要があるかもしれない。
後日、回復した魔王は、あの時の歯を褒美として私に寄越そうとしたが、もらっても困るので丁重にお断りした。
「そういえば、抜けた歯は上の歯なら床下に、下の歯なら屋根に投げるといいそうですよ」
郷に入りすぎることで魔王より右に出る者はいない。抜けたのは下の歯だったので、私の言うまま、魔王は大きく振りかぶって屋根に投げた。
速度がついた歯は屋根を飛び越え、三枝さんの家の窓を割った。私は、詫びに行く魔王に、また付き添いをすることになった。




