自転車の巻
思ったように捗らないと、言い訳が捗る。
だいたい気分が乗らない、から始まり、空腹だからだ満腹だからだなどの無益な犯人探しが行われた末、場所が悪い、という結論に行きつく。
机にかじりついて約一時間。
広げた原稿用紙は真っ新なまま、おろしたての美しさを保っている。本来、黒く埋め尽くされていなければならないのに、傷のひとつもついてやしない。
倒れるように体重を後ろにかければ、椅子の背もたれが控えめに悲鳴を上げた。
「感想……感想なあ……」
まるで仕事を果たす兆しのないシャープペンをくるくると回す。
読書感想文なるものが課題として出されたのは、三週間も前のことだ。一週間で本を読み、二週間で感想文を書く、というのが理想的なスケジュールだった。
理想は理想であって、実行できるかと言われれば否。太字で書いていいくらいに否。
極太の否だったおかげで、今私は非常に苦しんでいる。
なんとか学校の図書室で借りた本は読破したものの、ここからが進まない。原稿用紙を最低三枚は埋めなくてはならないのだが、驚くほど何も浮かばない。
本屋で並んでいた時、感動の名作とポップが貼られていたのを覚えていたから手に取ってみたが、感動するタイミングを逃したまま最後のページに行きついてしまった。
申し訳ないくらい書くことがない。
文章を二行ほど考えたあたりで、漫画を手に取ってしまったり、爪を切り始めてしまったり、急に前髪の長さが気になって切り始めてしまったり、要するに集中力が続かないのだ。自宅だから当たり前だが、リラックスしすぎて眠気も頻繁にやって来る。
何より、時折私を取り囲むような羽音がやかましくて仕方がない。
無論虫などではなく、折り鶴の群れである。基本的に窓から出して放し飼いにしているのだが、こまめに戻って来ては顔面にぶつかって来る。何かを取り組む環境ではない。
「よし、場所を変えよう」
自分のやる気や集中力の欠如を見つめてはいけない。真実はいつも残酷で、慈悲がないものだ。棚に上げるが吉。
このままここで腐っていても、何の成果もあげられないことを予想した私は、椅子から思い切り立ち上がった。
環境を変えるといっても行くあては限られている。
コーヒーに舌鼓をうちながらブラインドタッチを披露するような、都会的なカフェなどこの町にあるわけもない。
せいぜい喫茶店が関の山だ。しかも照明が極端に少なく、昼でさえメニューを見るのに苦労するほど薄暗いので、作業などもっての他である。
私の目的は公的施設である図書館だ。
少し前までの図書館はひどく古い建物で、子供たちの間では「出る」といわくつきの、できればお近づきになりたくないスポットのひとつだったのだが、数年前に改装されてから、見違えるように過ごしやすくなった。席も広々と設けられ、蔵書は豊富になり、冬は暖房費を節約しようとするお年寄りで混雑しているという。
家以外の場所で、机に向かうならここしかない。どうしても読んだ本で絞り出せなかった時は、別の本を選んで感想文を書くという手段も使える。
原稿用紙と本と筆記用具を押し込んだ鞄を背負い、私は愛用の自転車を連れ出した。
「あれ」
跨ってすぐに違和感を覚えた。ペダルが妙に重い。見下ろせば、タイヤが不格好に潰れている。空気が抜けているようだ。
外出といえば、学校の往復と母の車で買い物くらいで、ここ二週間ほど自転車には乗らずに過ごしている。車体から響く、軽快とは言えない音に顔をしかめた。
「面倒くさいな」
この時点で、なけなしのやる気は底をつきそうだったのだが、放置したところで困るのは遠くない未来の自分。あの時入れとけば良かったと悔やむ姿は想像に難くない。
仕方なく引き返し、タイヤの空気を入れることにした。
引っ張り出してきた空気入れのハンドルを握り、押しては引いて押しては引いて。
単純作業がようやく終わろうとしていた頃だ。
ガサガサと賑やかな物音を立てて、魔王が突っ込んできたのは。
両手に大きなビニール袋を抱えた魔王は、いかにも買い物帰りという出で立ち。その恰好で、何故こちらに真っ直ぐ向かってくるのか。帰る家を間違えている。
「魔王さんのお宅はお隣ですよ」
手を動かしながら片手間に挨拶すると、魔王はわざわざ私の正面に回ってきた。
「カオリ、安穏としている場合ではないぞ」
「安穏としているように見えます?」
傍から見て、かなり忙しない動きだと思うのだが。
魔王は私の返事を無視し、両手の荷物をそれぞれ傍らに下ろした。表情は物々しい。
「そなたの申していた、森羅万象がひとつに統治された国に赴いた」
「ああ、100均行ったんですか」
この町にカフェはないが、100円均一ならある。
店舗としての規模は決して大きくないものの、品ぞろえは悪くなく、日用品を買うには十分だ。
手頃さに気を取られ、必要か不必要かの判断が鈍り、いつも無駄なものまで買ってしまう(主に母が)
町の外れにあるせいだろう、魔王は最近まで存在を把握してなかったようで、先日私が場所を教えたばかりだった。話を聞いている時点で目が爛々と輝いていたので、これは近々行くだろうと踏んでいたが、予想より早い来店だった。
「安くてびっくりしたでしょう。大抵のものは揃うし」
タイヤを押して空気圧を確かめる。充分な弾力だ。
これなら問題ないだろう、と管を抜いてからしっかりと蓋をしめる。一連の作業を終えて、ようやく私は顔を上げた。
「あれ?」
思わず自転車に跨った時と同じ声が出た。てっきりお買い得な品々にご満悦かと思いきや、魔王の顔は実に険しかった。
「確かに」
魔王は目を伏せ、思い返すように口を開いた。
「そなたがほざいたように、目にするものことごとく同一の値打ちと見なされ、札を張られることもなく放逐されていた。その圧倒的支配を誇るかのように、響き渡っていたものだ。あれも100円……これも100円、とな」
呼吸をひとつ挟んだ次の瞬間、魔王の目がかっぴらいた。
「これをどう心得る」
魔王は買い物袋から何かを取り出し、私につきつけた。
プラスチック製の水色が視界を覆う。近すぎるあまり、何一つとして伝わらなかったので、二歩ほど後退した。
果たしてそれは、あまり魔王が持つにはふさわしくない浴室用の椅子だった。デフォルメされたウサギの模様が施され、実にファンシー。
「……椅子とお見受けしますが」
「そうではない」
私を見下ろす両目が冷たく光った。
「ここだ」
魔王は手にした椅子の向きをくるりと変え、長い爪で側面をさしてみせた。
最初からその面を見せてくれれば良かったのでは?
魔王が指示した方へ目を遣ると、シールのようなものが貼られていた。私は見たまま、それを読み上げた。
「500円」
「いかにも」
絶望を含んだような低い声が返る。
「そなた申したであろう。名の通り均一であると。全て等しく100円ではなかったのか」
「あーそれか……」
確かに私は魔王に言った。
『100均行ったことないんですか? 全部100円なんですよ』
すっかり失念していた。
最近の100均は、200円や300円、魔王が購入した風呂用の椅子のように500円という高額を誇る商品も、ちらほらと並んでいる。看板に偽り、大いにありと言えばありだが、私としては目くじらを立てるほどの裏切りでもない。
むしろ買える商品の幅が広がって助かった、くらいの感想しかなかったため、伝え忘れていた。
だが相手は、鵜より鵜呑みに長けた魔王である。
「騙し討ちとはいい度胸ではないか」
凄まれたところで、小脇に抱えているのが丸みを帯びた平和なフォルムの風呂場の椅子。迫力に欠ける。
「騙すつもりは……説明が足りなかったのは申し訳なかったですけど。本当に少し前までは100均一だったんですよ。今は違うけど」
ひらひらと手を振れば、魔王は深刻そうに眉をひそめた。
「統治が揺らいでおるのか……」
「独裁政権なんてものは、いつの世も続かないんですよ……」
そんな気はさらさらなかったが、もし魔王が恐怖政治タイプの為政者だった場合、私のこの発言は、いわゆるひとつのディスるという行為にあたるかも知れない。
誤魔化すべく、私は不自然なほどに手早く空気入れを片づけ始めた。
「ま、まあホームセンターとかで買うよりずっと安いし、結果的に良かったじゃないですか」
「ぬう」
魔王は腑に落ちない面持ちで、返事ともつかない呻きをもらした。
両脇に置かれた買い物袋を覗けば、スポンジや三角コーナー、収納グッズなどが大量に押し込まれており、ずいぶんと買い物を楽しんできたことが窺える。なんだかんだと文句を垂れながら、500円の椅子を買ってしまったのだから今更何を言わんやであろう。
「よく店員さんに食って掛かりませんでしたね」
苦々しく魔王は吐き捨てた。
「会計が長蛇の列を成していてな。背後の老婆に急かされ、問いただす隙もなかった」
この町において、お年寄りの強さは魔王を凌駕する。いかに地元で権勢を誇ろうが、年の功を前には敵わず、追い立てられるし顎で使われるし簡単に丸め込まれるのである。
店頭で吐けなかった苦情を、私にぶつけてある程度溜飲を下げたのか、椅子を袋に戻した。
そこでようやく私の格好に目が行ったらしく、魔王は自転車を眺めて尋ねた。
「戦か」
「何を見て判断したんですか。ちょっと図書館に行くところです」
私を見る両目が意外そうにわずか見開かれる。それから魔王は顎に手をあてがって頷いた。
「ようやく己の無知蒙昧を理解したか。余の手足として恥ずかしくないよう、その不出来な頭にせいぜい知識を詰め込むことだな」
100均に100円以外の商品があると一周遅れの情報で散々騒いだ相手から、無知と罵られるこの感覚。慣れてはいても、足元のあった小石を蹴り上げる程度には腹立たしい。
さっさと出かけよう、と空気入れを持ち上げたところで、魔王がじっと私の手元を見た。
「ところでそなた何をしていた」
「タイヤの空気が抜けてたんで、入れたんですよ」
ほう、と魔王は無感動に答えたが、理解しているのかどうかは怪しい。主に移動手段は飛行の御仁だ。自転車など縁がなかろう。
「魔王さんは乗ったことなさそうですもんね」
「無論。そのような輪ごときに頼る必要などない」
「輪って」
色々と省かれ過ぎている。
見た目の大部分はタイヤなので、大雑把に表すなら確かに輪としか言えないが。
私はハンドルを握り、魔王を横目で見た。
「でも翼がある以上、自転車を使う理由はないですしね。乗るとしてもすぐ乗りこなせるものじゃないし」
発言に他意はなかった。
決して煽ろうとか焚き付けようとか、そんな気はさらさらなかったのだ。
「……なに」
だから、ずしりと剣呑な地響きが返ってきたのは、本当に予想外のことだった。
雪のごとき肌に冷えた銀の目が、悪辣に光る。風もないのに黒髪は殺気をはらんで広がり、魔王たる迫力の片鱗が見えた。
「そなた今、貴様ごときには扱える代物ではない凡愚め、と申したか」
「言ってない言ってない」
微塵も言ってない。
人の話を聞かないことに定評のある魔王だが、発言を捻じ曲げて解釈する悪癖も忘れてはならない。時に、思いもよらぬ独自解釈で内角を攻めてくるのである。
「余を誰と心得る。魔を統べ、血を屠り、畏怖を糧とする王であるぞ」
「存じてます」
今更の自己紹介とともに、殺気に満ちた魔王の顔が眼前に迫る。先ほどの椅子と同じくらいに近い。
魔を統べる長としての本領を、こんなところで発揮するべきではないと思う。
「そのような子供だましの遊具ごときに後れを取る余ではない」
魔王は私の手から、奪うようにして自転車のハンドルを取った。
「瞬く間に屈服させてやろう。見ておれ」
高飛車に言い放った魔王は大仰な動作で自転車を跨き、サドルに腰を下ろした。
魔王の背丈がいかほどか正確な数字はわからないが、見上げなければ会話が成り立たない身長差だ。当然足の長さも比べ物にならない。
私に合う高さの自転車が、魔王の体格に合うわけがなかった。足が地面につく、を通り越して持て余している。
三輪車に無理やり跨った大人のようなちぐはぐさだというのに、魔王の無駄な風格が悪い方向に働き、非常に安く仕上がっている。
魔王は堂々と不格好に跨ったままま、真顔で私を見上げてきた。
「……この後はどうする」
鼻息荒く啖呵を切った割に、乗り方がわからなかったらしい。
「足をそこに乗せて、回すというか漕ぐんですよ」
私は手を足に見立てて、ぐるぐると動かして見せた。魔王は厳かに頷き、長い脚を折り曲げてペダルを踏んだ。
タイヤが回った瞬間、自転車は穏やかでない物音を奏でた。
ガガガガッ
「あああ」
我々は忘れていた。魔王の装いを。
車輪は回転すれば様々な物を巻き込む。
地面に触れそうなどに長くヒラついたマントが無事で済むわけがない。派手な勢いで後輪に巻き込まれた。
絡まったマントに引っ張られ、魔王の背中は反りかえっている。かろうじて手はハンドルを掴んでいるが、倒れなかったのが不思議なくらいに仰向けだ。
「カオリ」
「マントが」
「早急になんとか致せ」
「ブリッジみたいになってますけど背骨大丈夫です?」
「早急になんとか致せ」
あまり大丈夫ではないようで、魔王は無表情で同じ文言を繰り返した。
ここまでのけぞった姿勢の魔王の姿はなかなかお目にかかれない。記念に一枚画像として残したいところだが、魔王の口から三回目の「早急になんとか致せ」が発せられたので、私は後輪の処理にあたった。
とは言っても、すぐどうこうできるような絡まり方ではない。たったの一踏みで驚きの巻き込み。
さすが魔王が纏う衣というべきか、高級感漂うマントに傷はおろか綻びもない。材質は知れないが、実に頑丈にできている。多少引っ張ったところで破れることはないだろう。
それに励まされ、荒っぽく引っ張り続けていたが、ほどなく低い声にとがめられた。
「カオリ」
顔を上げれば、逆さになった魔王の顔が私を恨みがましく睨み付けている。
「あ」
マントは車輪に絡んでいるだけではない。引けば引くほど、魔王の首を締めあげていた。
「え、襟元が、すごくタイトに決まってます」
「黙れ」
おやまあ、とばかりに口元に手を当ててみたが、刃物のような声色で斬られた。
「そなたまさかこの機に乗じて亡き者にしようと……」
「違いますよ魔王さんが早くしろっていうから。ほら見て下さいよこんなに絡まって」
「引くな」
更に首元が締まったらしく、魔王の声が一層低く険しくなった。
しかしマントを車輪から解放するには、多少無理してでも引くか、車輪を動かさねばならない。
「魔王さん自転車ちょっとでも動かせませんか」
「この期に及んで余に指図するか」
「後ろにちょっとだけ」
「……待て」
魔王は渋々と恐ろしく慎重に足を使って、後ろへと車輪を転がした。
ピンと張り詰めていた布に、わずか緩みが生まれたのを私は見逃さず引こうとしたが、後退しすぎて車輪が一回りし、新たに巻き付いて魔王の首が再び締まった。顔色が一段と悪くなる。
「カオリたばかったな」
「魔王さん」
「そなたやはり魔王としての座を卑劣にも狙」
「マント取った方が早くないです?」
背中が反りに反った魔王は束の間黙り、静かに「許す」と呟いた。
いくらかの時間をかけて、マントは自転車から無事救い出された。魔王は私が車輪と格闘している間中、横に突っ立ってあれこれ口だけ出していたが最後まで手伝ってはくれなかった。お怒りだったのか、王の傲慢かは定かではない。
「そもそもが自転車に乗る格好じゃないんですよ」
薄汚れてしまったマントを畳み、私は魔王の姿を上から下まで眺めた。
マントも勿論だが、全体的にぞろっと長く、いちいち裾が広がっている。仕事柄欠かせない仰々しい要素とはいえ、機動性と対極のあるような意匠ばかり。
畳まれたマントを受け取った魔王は、ひどく納得のいかない顔で自転車と私を交互に見た。
「無害に見えてなんと剣難な代物か。カオリそなたもよくよく用心せよ」
あいにく当方、マントをなびかせて自転車を走らせる予定はないので問題ない。
「乗るとか乗らないの問題じゃなかったですね」
乗りこなす前に事故が起きてしまった。
買い物袋とマントを手にした魔王は、しばらく黙りこくって自転車を親の仇のような顔で睨んでいたが、やがて背を向けて去って行った。諦めも時には肝心である。
とんだ横やりが入ってしまったものの、私の目的は本来図書館だ。そろそろ向かわないと感想文が本気で危うい。
私は出しっぱなしにしていた空気入れを担ぎ、物置へとおさめた。
手狭だと使いにくいという母の主張により、数年前買い直した物置はそこそこ広い。広いのはいいことだが、同時に処分の意思を鈍らせるマイナス面もある。冬タイヤや暖房器具などの季節用品のみならず、埃を被ったルームランナーや一輪車、フラフープなどいつ日の目をみるともわからないものまで乱雑に置かれている。
整理しないとなあと思いながらも、私は取り出しやすい手前に空気入れを置いて、扉を閉めた。
そのまま振り返れば、視界に入るのは自転車が一台――と仁王立ちの魔王。
「えっ」
二度見したのは、何故いる、という戸惑いだけではなく、お馴染みの黒装束ではなかったせいだ。
魔王が身にまとっていたのは、見覚えのあるTシャツとスウェット。
私と目が合った魔王は、組んでいた腕を緩慢な動きで解いた。
「支度が整った」
胸に大きく【わっしょい! いか祭】
考えるまでもなく、いつぞや三枝家から与えられた、魔王の勝負服である。魔王は律儀に教えを守り、子犬と触れ合う際これを着用しているとのことだ。
幾度もこの姿を目撃しているものの、なかなか目が慣れず、視界に入る度に違和感が向かい風で吹いてくる。
大幅に下がった装いの風格と反して、自転車を前にした魔王の面持ちは神妙だ。
巻き込まれたマントに絞殺されかけ、おめおめ引き下がったように見えたが、そうではなかった。
魔王は装備を改めて、出直したのである。自転車を征服するという意思は揺らいでいなかった。
「着替えてきたんですか……」
「向いていないと断じたのはそなたであろう」
「そうなんですけど」
それにしても着替えの速さよ。
ご丁寧にも、たなびく長い髪まで一つにまとめられている。
ああ見えて、ヘアゴムというアイテムを持っていたことが静かな驚きだ。浮世離れした魔王というレア感から一転、急に生活感が溢れ出してきた。
「仕切り直しぞ」
いささか存在感が安くなった魔王は、先ほど同様ハンドルに手を添えて自転車に跨った。
やはり装いの差は大きい。
不吉な角と顔面のせいで、違和感は残ってはいるものの、先ほどよりは和らいだ。自転車も、だいぶ視力を落とせばそこそこ似合うと言えるのではないだろうか。このままコンビニでも向いそう。
「ここに乗せて、漕ぐ」
魔王が確かめるように生真面目に呟いた。
ペダルに乗せられたサンダル履きの足を見て、私は相槌を打った。便所サンダルと呼ばれる類の、よりによって茶色。
果たして魔王は誰の指導のもと、日曜日のお父さん的な着こなしを会得したのであろう。
魔王は顔を正面に戻し、乗せるだけだったペダルを踏み込んだ。
体を支えていた片足が離れ、車輪が回――りきる前に車体と魔王が傾いた。
幸い咄嗟に足で支えていたので、派手に倒れることはなかったが、普段は見られないであろう機敏な動作から焦りが窺える。
「大丈夫ですか傾いてましたけど」
私が後ろから覗き込むと、魔王はハンドルにしがみついていた。余裕のない顔を晒しているかと思ったが、そこはやはり王たる矜持である。能面のように無表情だ。唇を強く噛んでいる以外は。
「……魔王さんやっぱり乗れないんじゃ」
ぽつりと言えば、魔王の首だけが勢いよく回って、こちらを向いた。
「痴れ者」
罵りを一言浴びせた魔王は、短く息を吸って吐いた。
「……今のは余興にすぎぬ」
余興にしては背中が大層慌てていた。
魔王はサドルから腰を浮かせ、ゆっくりと立ち上がり私にハンドルを預けた。
「カオリ、そなた一度披露してみよ」
「え? 私が乗るんですか」
「左様。いかほどのものか見定めてやろうではないか」
「えー……今更……」
見定めてもらう必要性など欠片もないのだが、魔王の申し出はお願いではなく命令だ。こちらの意向は関係がない。私は下りた魔王と入れ替わるように、渋々と自転車に跨った。
日常的に乗り回している、いわば第二の足。私はもったいぶることもなく、すぐに発進させた。
遠慮なくペダルを漕いで、魔王の周りを一周する。危ないからと祖母に禁じられている、いわゆる手離し運転もサービスとして五秒ほど披露した。
「こんな感じです」
三周ほどしてブレーキをかけた。
魔王の冷めた口が、驚きを帯びて開かれる。
「そなた鶴を折る以外に特技があったか」
「だからもっとあると言っているのに」
魔王の中で、私の取柄が不本意な形でまたひとつ更新されてしまった。折り鶴と自転車、いずれも履歴書の特技の欄には書くのは厳しい。
私はやれやれと大きく肩をすくめてみせた。
「乗ったことないんですよね? 自転車なんて最初っからスイスイ乗れるもんじゃないんだから、別に恥ずかしくないですよ」
「それなりの修練が必要と申すか」
「そうですよ。私だってどれだけ転んだことか」
まだ幼い時分、買ってもらった自転車を乗りこなすのにずいぶんと苦労した。
倒れる転ぶは当たり前。ひっくり返ったり下敷きになったり川に突っ込みそうになったりと、あちこち擦り傷をつくって走り回ったものである。まだ単身赴任を命じられる前の父が指導役だったのだが、私は運転がおぼつかず、父は運動神経は今ひとつということで、私は父を二度ほど轢いた。
魔王は目を眇め、難しい顔つきになった。
「やはり犠牲はつきものか」
「ああ、でも最初の最初は確か……」
両側に補助輪をつけて走行していたことを私は思い出した。自転車の一番課題はバランスだが、自分の足で漕ぐ感覚を学ぶこともまた大事なのではないか。
「ちょっと待ってください」
私が補助輪に頼っていたのはもうずいぶんと昔の話だ。普通ならとうに処分されているだろうが、管理しているのは母である。もしかしたら忘れ去られて、雑多な物置の片隅で眠っているかも知れない。
私が物置の中を漁り始めると、魔王も後ろからついてきて興味深そうに覗きこんできた。
「あ、物置低いんで」
ゴオン。
私の忠告より、魔王が角を強打させる方が早かった。プレハブの鉄板が奏でる音は重く、除夜の鐘のごとく厳かに響いた。
昨日今日生まれたわけでもないだろうに、己の図体の大きさにこうも無頓着なのか不思議でならない。
魔王は角の振動を両手で押さえ、身をかがめながら入ってきた。
「何を探しておる」
「初心者用のアイテムを」
「ほう。これか」
「え?」
振り向いた私が目にしたものは補助輪ではない。車輪には違いないが、形状も大きさもだいぶ異なる。
「借り受ける」
魔王が引っ張り出してきたのは、どう見ても一輪車だった。サドルもタイヤも備わっている。自転車を縮小させたように見えなくもないが、確実に別物だ。
しかし魔王は私の言葉に貸す耳はないとばかりに、片手でむんずと一輪車をつかまえて物置から出て行ってしまった。
「魔王さんそれ一輪車!」
首だけで振り向いた魔王が、みなまで言うなと言った目線を寄越した。大体このように魔王が察したという空気を出す時は、十割の確率で外している。
「半人前が用いるといったであろう」
魔王はタイヤを指さした。
「見よ。車輪がひとつ少ない」
少ない=難易度が低い。
なるほどそう来たか。
いやここは納得のタイミングではない。
魔王の理論はわからなくもないが、今回は適用されない。格付けされたレストランの星の数とは違うのである。車輪の数は、安定という優しさの数だ。減れば減るほど、乗り手に厳しく鞭を打つであろう。
私は物置を飛び出し、魔王の後を追った。
「ちょっと待って絶対無理ですって!」
隣人は普段、仰々しくゆったりと、王者のマイペースを重んじる癖に、稀に目を瞠るほど機敏になる。特に、制止をかけたい時に限って。
私は精一杯止めに入ったが、遅かった。
魔王はすでに一輪車の上に君臨していた。
垂直だったのは一秒もない。直後、後ろに倒れ込んだ。
角を物置に打ち付けた時よりは、大人しいと言えよう。だからこそ、響いた音は鈍く深刻に響いた。
言葉で表すなら「ゴッ」もしくは「ガゴ」。確実に強く頭を打っている。
風が一瞬、静寂を運んだ。
「ご……ご無事ですか……」
近づくと、魔王は一輪車ともども倒れていた。
魔を統べ、血を屠り、畏怖を糧とする王(本人談)が路上で仰向けに。
静かな表情で、雲一つなく晴れ渡る空を見上げている。ただし目に生気はない。
もしや打ち所が悪く、死――
「カオリ」
生きてた。
「はい」
魔王は晴天を見つめながら、口だけを無機質に動かした。
「……そなた余をたばか」
「たばかってません」
100均については私の説明不足が誤解を招いた点もあろうが、一輪車については魔王が一人で勝手に華々しく散ったのである。悲劇の後押しをした覚えはない。
「一輪車なんて自転車より高度だし危険なんですよ」
どう危険かは、もはや説明するまでもない。実例がここに横たわっている。
打った頭が痛いのか、事態があまりのみこめていないのか、お空が綺麗なのか、魔王はなかなか立ち上がろうとしない。いくら寂しい田舎道とはいえ、寝転がったままでは交通の妨げになる。
「とりあえず起きません? 車きたら轢かれますよ」
倒れている人への手助けとして、私は手を差し伸べた。魔王はそこで初めて目を動かし、悠然と手を持ち上げた。
尽くされて当然といった態度はいかにも魔王らしい。
よいしょ、と両手でつかんで引っ張り上げてから、私は気が付いた。日本家屋の基準からはみだしている、魔王の体格を。力を入れても、大木のようにびくともしない。
「ちょっ、重い!」
「軟弱な。そんなざまでは前線には立てぬぞ」
「自分で起き上がる努力くらいしてくださいよ。あと前線には立たない」
絶対に立たない。何の前線かわからないが、強く主張する必要性を感じた。
やがて魔王は私の力のみに頼ることを諦め、のろのろと立ち上がった。転んだせいか、衣服が薄汚れている。もはや角さえなければ、魔王という肩書がたちの悪い冗談のようだ。みすぼらしさすら漂う。
「もうやめときます……?」
私は遠慮がちにそう告げたのだが、いらぬところで負けず嫌いを発揮する魔王は首を縦には振らなかった。
「一矢も報いず、手負いのまま退陣すると思うてか」
さすが頑丈なつくりで流血こそしなかったが、やはりそれなりに痛かったようだ。労わる様に魔王の手が己の後頭部をさすっている。
一輪車を私に押し付けた魔王は、宣戦布告するように自転車を指さした。
「忌々しき暴虐の歯車よ、必ずや我が物にしてやろう」
「言っときますが私の自転車ですからね」
我が物にされては困るのである。
魔王はサンダルを引きずりながら自転車に近づき、再び長い脚をひらりと浮かせて跨った。慣れたのか、そこまでの動きは滑らかになった。問題はその後だ。
サドルに腰を下ろした魔王は、結んだ髪を振り回す勢いで振り返った。
「そなたもかつては地を這い辛酸をなめ、無様に七転八倒していたのであろう」
脳天を打ち付けた人に無様って言われた!
「当時の稽古の遣り口、余に施してみせよ」
魔王もなりふり構っていられなくなったようだ。私に教えを乞うとは。
ここぞとばかりに恩を売りたいところだが、胸を張って教えられることは案外少ない。私は額をかきながら頭を捻った。
「うーん、できることってそんなに多くないんですけど」
結局、補助輪は見つからなかった。おぼつかない走行を助けてくれる支えはない。
まだ幼かった頃、補助輪を外した後は、どう走っていただろう。
私は瞼を閉じ、遠い日の特訓を束の間思い返した。確か父は、バランスを保てずによろよろと走る私の背後に回り――
「魔王さん、私がこうして後ろをつかんでおきますから」
私はいつかの父と同じように、自転車の後部に両手を添えた。
「安心して走ってください」
曇りなき誠実な目で語り掛けると、魔王は黙したまま深く頷いた。ゆっくりと顔が正面へ戻り、魔王の手がハンドルを握る。
「……行くぞ」
吐息にも似た低い声とともに、車輪が前へ回り始める。スピードに乗る前が一番倒れやすい。回転に加勢するべく、私は体重をかけて後ろから押した。
乗っているのが魔王だけに、重いのは重いが、漕いでいるせいか、思いのほか車輪の動きはスムーズだ。私は自転車を押したまま走った。
「そのまままっすぐ! 漕いで漕いで!」
魔王の足は素直にぐるぐるとペダルを踏んだ。それに従って車輪の回転も速くなる。自転車のスピードもどんどんと上がっていく。
「カオリ」
「はい!」
「そこにおるのだろうなっ」
問いかける魔王の声はいささか余裕がない。
「大丈夫ですおさえてます!」
私は駆ける足を止めることなく、はきはきと答えた。懸命な魔王の運転で、自転車はずいぶんと軽やかに進んでいる。
「カオリおるか」
「おります」
「まことか」
「ほんとですって」
「嘘偽りはないだろうな」
「あっ振り向いたら危ないですよ!」
よそ見の余裕すらなかった魔王が、初めて首を後ろに捻った。
魔王は禁忌を犯してしまった。
疑ってはいけないのである。真実はこの場では意味をなさない。
愚かにも相手の言葉を信じず、振り向いてしまった魔王は、私の手が自転車を支えていないことを知ってしまった。
結果、道路脇の林に自転車ごと突っ込んだ。
賑やかな音を立てた割に、自転車も魔王も大きな損傷はなかった。
ただ勢いよく草木をなぎ倒したので、体中が枝や葉にまみれ、全体的に野趣にあふれていた。
林に突っ込んで数十秒後、自転車を押しながら草木をかきわけて現れた姿は、邪悪な森の精の休日出勤といった有様で、静かな迫力があった。
緑のアクセサリーを大量につけた魔王が、表情を強張らせて近づいてくる。私と目が合うなり、どす黒い声を出した。
「カオリ……よくも余をたばか」
「たばかりました」
私がきっぱりと肯定すると、魔王は目をわずか瞠った。
「でもこれが自転車の通過儀礼なんです。ご理解ください」
私も過去、父から幾度となくこの裏切りを味わった。
お父さんいる? 後ろにいる? 手離してないよね?
幼い私の問いかけに、父の答えは全てYESだったが、実際のところNOだった。
魔王が突っ込んだ林は、私も十年ほど前に同じ形でお世話になっている。
「後ろで支えてると思うと安心して乗れるでしょう。そういう嘘は時に必要なんですよ」
「愚鈍な人の子が王を欺くか。小癪な……だが一理ある」
魔王は苦々しい表情を晒しつつも、鼻を鳴らした。
「余ともあろう者が、いささか守りに徹しすぎた」
銀の瞳が邪悪かつ剣呑に光る。
「今こそ反逆の狼煙を上げる時。覇者の威光を食らわせてやろう」
声高らかに宣言し、魔王は自転車に跨った。
ペダルに置いた両足を躊躇いなく踏む。威勢の良さを体現するかのように、車体は速やかに前進した。
もはや私の手という支えはない。加速も手伝ってはいない。
だが魔王を乗せた自転車は軽やかに道路を走っていく。先ほどとは打って変わって、危なげなく。
別人のような姿に私は瞠目した。
「すごい、全然ふらついてない」
颯爽と走り去った魔王がくるりとターンして戻って来る。
背筋を伸ばして勇壮に漕ぐ姿は、さながら勝者の凱旋。走行は実に滑らかだ。目を疑うほど。不自然なほど。
まるで空に浮いているかのように。
目を凝らして見れば、実際、地面から1センチほど車体が浮いていた。
時折出る、魔力に頼る悪い癖を見た。
「魔王さんそれは」
素知らぬ顔でブレーキをかけた魔王に私は一歩近づいた。
魔力に頼るのは意味がないとか反則だとか、それを思う以前に。
「過去の私が許しません」
結局日暮れまで付き合ったが、魔王がすいすいと乗り回すには至らず、以後三回、林に突っ込んだ。途中、この二輪の不具合ではと自転車のせいにし始めたので、たびたび口論になった。
当たり前だが図書館は閉館し、感想文は一ミリも進まなかったので、やむを得ず私は魔王から借りた「徳川吉宗」の伝記で書いて提出した。




