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ミシェールはその後何度も、あの屋敷を訪れた。が、訪れてはドアの前で立ち止まり、そのまま家へと戻るのである。なぜかわからないが、あそこを叩くのにどうもためらいがあった。
そして今日も、いつものようにそれを繰り返そうとした。すっかり見慣れた扉の前で立ち止まり、うつむく。そして手を出してみたが、結局引っ込めてしまった。自分の決断力のなさに呆れてため息をひとつこぼす。だが、それをしたところで何が変わるわけでもない。相変わらずもやもやしたものを心に抱えながら、ミシェールは今日も引き返した。
途中、一人の男の人とすれ違った。よくこの山に来ている人であり、チェルシーとはしゃいでた頃から顔を合わせることがあった。男の人は、何だか心配そうにこちらを見ている。もしかしたら、ここ数日での心境の変化に気付かれてしまったのかもしれない。
(こんな優しそうな方にまで、心配をかけたくはないわ)
思ったミシェールは、やんわりと微笑み返した。……うまくいった自信はないが。
そのまま、覚束ない足取りで山道を行く。何気なく空を見上げると、太陽が真上に到達しようとしていた。
「もう、こんな時間なんだ」
呟くと同時に、自分のお腹が奇怪な音を立てる。思わず、細い手でお腹を押さえた。屋敷のことで頭がいっぱいで、空腹すら感じていなかったのだ。ここまで来ると呆れを通り越して自分に感心したりもする。
それでも、心は軽くならなかった。それどころかどんどん重くなっていく。
会いたい。遊びたい。辛い。悲しい。――怖い。
(このまま、チェルシーに会えなくなったらどうしよう)
そんな思いが脳裏をかすめる。慌てて頭を振り、嫌な考えを振り払った。そんなことあるもんか。必死で自分に言い聞かせた。
そして、もうすぐ山を下りようかという頃。思わぬところから声がかった。
「ミシェールちゃん?」
以外にも、下の方からである。慌ててみると、そこにはニコニコ顔のアナがいた。おばさん、と小さな声で呼ぶと、彼女はにっこりほほ笑んだ。
涙が出そうになった。
「もしかして、うちに行ってたの?」
唐突に訊かれて、ミシェールは焦った。何も悪いことはしていないはずなのだが、なぜか悪戯がばれたような嫌な気分になったのである。だが、アナは愉快そうに笑った。
「そんな顔しなくてもいいわよ。別に禁止したわけじゃないんだし」
「は、はぁ」
なんとかそんな生返事を返すと、ふいにアナが真面目な顔をして訊いてきた。
「ミシェールちゃんは、チェルシーのことが好き?」
当然じゃないか。そんな意志表示も含め、はっきりとうなずいた。すると相手もそれを返してきて、次の質問を飛ばすのだ。
「じゃあ、これからも一緒にいたいと思う?」
これも言うまでもない。そんなわけでうなずいたが、そこでミシェールは違和感を覚えた。
(おばさんって、こんなまどろっこしい人だったっけ?)
優しく微笑みながらも、言いたいことはズバッと言う。それがアナという人だと、ミシェールは思っている。現に、今までこんな分かりきった質問をしてきたことなど一度もなかった。それが今回、このやり取り。どういう風の吹き回しだろうか、そう思い始めた時、アナが訳の分からないことを呟くのが聞こえた。
「意思確認、完了ね」
「――え?」
薄気味悪くなって聞き返すと、アナは顔を上げて微笑むのだった。そこにはいつもの彼女がいた。
「いいえ。なんでもないわ。あ、そうだ!」
唐突に手を叩き、ズボンのポケットの中を探り出す。なんだろうとミシェールが成り行きを見守っていると、彼女はそこから何かを引きずりだした。
ピンクの毛。長い耳。小さな黒い目。うさぎのぬいぐるみだった。
「これ。にぎって願い事を言うと、その願いがひとつだけ叶うっていう人形なの。試してみる?」
彼女なりの気遣いだったのだろう。それをむげにするのは悪いし、どうせ減るものでもないから、ミシェールは素直ににぎった。ふわふわの毛が、手をおおう。そっと目をつぶり、ミシェールは知らぬ間に願い事を呟いていた――胸中で。
(チェルシーと、ずっと一緒にいられますように)
その時だった。
「OK。その願い、私がかなえてさしあげましょう」
地の底から響くような女の声がして、ミシェールははっと目を見開いた。そこにはなぜか妖艶に笑うアナがいて。その手にはお札のようなものが。
あの札には見覚えがあった。最初に出会った時、彼女が買っていた品物である。突然、その札が光り出したかと思うと、なんとうさぎのぬいぐるみの目が赤く光ったのだ。
「えっ!?」
得体のしれない恐怖を覚えた。だが、うさぎを手放すことはできなかった。放れないのだ、手にひっついたかのように。怖くて、わからなくて。戸惑っているうちに、札を構えたアナが言う。
「安心しなさい、ミシェール。あなたはこれから、チェルシーとずっと一緒にいられるの。そのおかげで、あの子の病気も治るかもしれないのよ?」
その瞬間、視界が闇に包まれた。嘔吐感を覚えたが、それを表に出すことすらできなかった。それより先に、何か自分にとって一番大切な物が引きずり出されていくような感覚を覚え、それ以降指先を動かすことすらできなくなってしまったからだ。
意識が、ふわりと宙に浮くのを感じる。今まで経験したことのないものだ。幽体離脱などと巷で言われている同じ現象だろうか?
「――っ!」
その途中、思わず息をのんだ。闇の中にあのうさぎの赤い瞳が見えた気がしたためだ。心の奥底で必死に助けを求めるが、誰にも、どこにも届かない。
そのうち、少女の意識はむなしくも砕けていった。




