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新月の夜の伯爵夫人と麗しき新星音楽家

掲載日:2026/05/12

本作を5月12日に誕生日を迎える

女優葉月智子さんに捧げます。

6月の主演舞台も楽しみにしております。

お誕生日おめでとうございます。


挿絵(By みてみん)



【序曲(Overture)】


むかしむかし、ある緑豊かな国に、たいそう立派な伯爵がおりました。


名をアルベルトと言います。彼は領民から「太陽のような名君」と慕われる、誠実で実直な青年でした。


しかし、アルベルトの胸の奥には、決して消えない冷たい傷跡がありました。彼には若い頃、将来を誓い合った婚約者がおりました。彼女はこの国の重鎮である大公の四女であり、二人は手を取り合い、仲睦まじく育ちました。だが、アルベルトが十五歳の秋、彼女は不慮の馬車事故でこの世を去ってしまったのです。


悲しみに暮れる間もなく、先代伯爵もまた流行り病で倒れました。アルベルトはわずか十六歳で広大な領地を治める身となり、己の悲哀を封じ込めるように、朝から晩まで必死に執務机に向かいました。


自領の領民の安寧と伯爵家としての責務、王家への忠誠、大公家への恩義、そのためだけに、彼は青春のすべてを捧げたのです。


だが、机に向かう夜が長くなるほど、彼はときどき思いました。


――自分は、何か大切なものを取り落としたまま、大人になってしまったのではないか、と。


それでも彼は、立ち止まることができませんでした。止まれば、失ったものの重さに押し潰される気がしたからです。


それから十年の月日が流れ、領地が類を見ないほどの繁栄を遂げた頃。周囲の強い勧めに押される形で、アルベルトは閨閥である侯爵家から一人の娘を妻として迎えました。


名を、ソフローニアと言いました。


ソフローニアは、静寂な夜空に浮かぶ月のように美しく、そしてどこか孤独の影を帯びた女性でした。夜空のように艶やかな黒髪に、透き通るような白い肌。


しかし、太陽のように慕われる夫の前に出ると、彼女は己の光を失い、真っ暗な新月のように頑なに心を閉ざしてしまうのです。


ある夜、執務室でペンを走らせるアルベルトのもとへ訪れた彼女は、氷のように冷たい声音で言い放ちました。


「旦那様、いつまでそのような書類仕事にかまけておいでですの。……領地のためにとご自身の身をすり減らしてまで、完璧な伯爵を演じようとなさるなど、見ているこちらが息苦しくなりますわ。私にかまわずお休みになってくださいませ。私のことなど、執務机の上の花瓶のようにお扱いになってくだされば結構です」


言い捨てて背を向けるソフローニア。


アルベルトには彼女の冷酷な背中しか見えませんでしたが、踵を返した瞬間、彼女がドレスの裾を、指先が白くなるほど強く握りしめ、その美しい顔を苦しげに歪めていたことなど、知る由もありませんでした。


アルベルトは静かに微笑みました。


「ソフィー……君がそう言うなら、そうしよう。不自由があれば何でも言ってくれ」


そう語りかける声は穏やかで親しみに満ちていましたが、彼は無意識のうちに左手の親指で、右手に嵌めた伯爵家当主の証であるシグネットリングをゆっくりと、強く押しなぞっていました。


彼は扉が閉まるまで背筋を崩しませんでした。だが、沈黙だけになった執務室でひとりになると、ふっと視線を落とし、机上の書類の端を指でなぞりました。


(やはり、朝から晩まで仕事に忙殺され、気の利いた言葉ひとつかけられない男のそばなど、若い彼女には息が詰まるに違いない)


そう思えば思うほど、胸の奥が痛みました。


彼女に拒まれることよりも、彼女を傷つけてしまっているかもしれないことのほうが、彼には耐えがたかったのです。



【第一幕:星降る夜想曲(Nocturne)】


そんな冷え切ったように見える伯爵家に、ある時期から、とある美しい青年が出入りするようになりました。


若き天才作曲家、ルシアンです。流れるような金髪に、憂いを帯びた青い瞳。王都の社交界では彼を、星降る旋律の天才、あるいは麗しき新星音楽家と呼ぶ者もありました。彼は勇ましい行進曲から、涙を誘うロマンティックな夜想曲まで、あらゆる曲を書き上げる天才でした。ソフローニアは彼の才能を見抜き、多額の資金を援助するパトロンとなったのです。


ルシアンの名声は瞬く間に隣国まで響き渡りました。この麗しき新星音楽家のパトロンであることは伯爵家の名声を大いに高めるものであり、それは皮肉にも、アルベルトの苦悩をさらに深くする鎖でもありました。


(妻の心を慰め、我が家にこれほどの名誉をもたらす恩人を、私の身勝手な嫉妬で遠ざけるわけにはいかない……)


そう自分に言い聞かせ、己を律するように指輪をなぞりながらも、彼の胸には夜ごと小さな棘が刺さり続けていました。


同時に「ソフローニア伯爵夫人が、若く美しい音楽家と密会を重ねている」という無責任な噂が、社交界でまことしやかに囁かれるようになりました。


その噂が絶頂に達していた、ある真夜中のこと。


先々代から伯爵家を支える老執事のクラウスが夫人の私室の前を通りかかると、扉の隙間から微かな明かりが漏れていました。ノックをして入室すると、ソフローニアが一人、机に向かって必死に何かを書き綴っていました。手元の分厚い日記帳には、インクの滲んだ文字がびっしりと埋まっています。


「ソフローニア様、夜も更けました。あまり根を詰められますと、お体に障ります」


クラウスが差し出したのは、香り高いアールグレイでした。


ソフローニアはハッと身を強張らせ、慌てて日記帳を両手で覆い隠しました。その瞳には、熱を帯びた涙が浮かんでいます。


「……クラウス。私、またあの方の前では、心にもないことしか出来なかったわ」


「ソフローニア様……」


「あまりにも眩いその才気と情熱の光を前にすると、私は己の輪郭を失い、まるで夜の闇に溶けて姿を消してしまうよう……。本当は、その方のそばで、ただ静かに微笑んでいたいのに。けれど、あの方の御心はあまりにも遠い場所で輝いておいでになるから、私はあるべき言葉を失ってしまうの」


ソフローニアはペンを置き、震える両手で顔を覆いました。


(あの方の心を占めているのは、決して私ではないのだわ。私にできるのは、ただ遠くからあの眩しさを見つめることだけ……)


それはまるで、噂の的である麗しき新星音楽家への、道ならぬ恋情の吐露のようでした。


長年ご夫婦を見守ってきたクラウスは、若き女主人がひた隠しにしている切実な想いを察していました。


しかし、一介の執事という立場ゆえに出過ぎた真似はできず、痛ましげに目を伏せて、ただ深く一礼し静かに部屋を下がるしかありませんでした。


ある日。サロンから、ルシアンの奏でる優美なピアノの調べが響いていました。


扉の隙間からその様子を窺っていたアルベルトは、信じられないものを見ました。氷のように冷たかった妻が、ルシアンの音楽を聴きながら、春の陽だまりのような、見たこともないほど柔らかく美しい微笑みを浮かべていたのです。


「あなたの音を聴いていると、凍てついた夜が明けていくようですわ……」


ソフローニアがうっとりとルシアンに語りかけます。


その言葉を聞いたアルベルトは、静かに扉から離れました。


(そうか……。彼女の孤独な夜を照らすのは、私ではなく、彼と彼の紡ぐ音楽なのだな。私といる時の彼女は、あんなにも息苦しそうなのに)


そう思うと、胸の内に残るものが、嫉妬なのか安堵なのか、自分でも分かりませんでした。


ただ、彼は妻の笑顔を見た瞬間に、自分のほうが少しだけ救われてしまったことに気づき、そのことを誰にも言えませんでした。


その夜、クラウスは意を決してアルベルトの執務室のドアを叩きました。


「旦那様。申し上げにくいことですが、ソフローニア様が今日もまた、作曲家のルシアン殿とお会いになっております。ですが、どうかご心配なさらないでくださいませ。奥様は決して――」


クラウスが言葉を続ける前に、アルベルトは静かにペンを置き、悲しげに微笑んでそれを遮りました。


「報告をしてくれる忠義に感謝するよ、クラウス。……私は妻を愛している。だが、不器用な私は、彼女に何を言えばいいのか分からないまま、またこうして黙るしかないのだ。だからこそ、ソフィーも音楽とあの青年のそばで笑顔でいられるなら、それでいい。密会が人目に触れ、彼女が指弾されるようなことのないよう、使用人たちには固く口止めを頼む」


静まり返った執務室。窓から差し込む月の光に照らされたシグネットリングだけが、彼の語れぬ想いを封じ込めるように、鈍く、重く沈んでいました。



【第二幕:新月の無言歌(Romance)】


秋の気配が色濃くなってきた、空に月の見えないある新月の夜のこと。


伯爵家の小サロンにて、親しい貴族たちを招いたささやかな夜会が開かれました。ルシアンも招かれており、クラウスの誘導により、ピアノの前に座ることになりました。


「本日は、まだ名もなき新しい小品を一曲、披露させていただきます」


ルシアンが鍵盤に指を下ろした瞬間、言葉を持たない、美しくも情熱的なピアノ独奏曲が響き渡りました。まるで、暗闇の中で秘められた恋心を告白するかのような、激しくも甘い音色。


その演奏中、ソフローニアは扇で口元を隠しながら、表情をうかがうように一点を見つめていました。


ふと、その強烈な視線に気づいたアルベルトが顔を上げ、ソフローニアの方を振り向きました。


視線がぶつかり合ったその瞬間――ソフローニアはビクッと肩を震わせ、まるで火に触れたかのようにバッと顔を背けてしまったのです。そして、誤魔化すように、懸命にピアノを弾くルシアンの方へと視線を固定しました。胸を激しく上下させ、扇を持つ手を震わせながら。


扇の陰で、貴族たちの視線が一斉に止まりました。


「……お聞きになりまして? あの情熱的な音色」


「ええ。ごらんなさい、ソフローニア伯爵夫人のあの慌てよう。アルベルト伯爵と目が合った途端に顔を背け、作曲家へ熱い視線を送っておいでですわ」


「ええ、この調べにすっかり心を奪われているご様子。誰へ向けられた想いなのか、火を見るより明らかですわね。アルベルト閣下も可哀想に……」


貴族たちの無遠慮なささやきは、アルベルトの耳にも確かに届いていました。


アルベルトは膝の上で固く手を組み、左手の親指で己の指輪を強く押し付けました。


(おお、ソフィー。私と目が合うことすら、今の君には耐えがたいのだな。私の方を向きながらも、心は彼のもとへ飛んでいるのだ……。この情熱的な調べこそが、二人の愛の証なのだ)


曲が終わり、拍手が沸き起こる中、アルベルトの顔は蒼白になっていました。そして、ソフローニアの逃げるような視線と紅潮した頬もまた、見る者によって様々な憶測を呼び、新たな噂の種となってしまったのです。


美しい音楽は、皮肉にも貴族たちの誤解を深め、アルベルトの心をさらに深く抉る結果となりました。



【第三幕:満月のアリア(Aria)】


それから数ヶ月後。冬の足音が近づく空に、丸い満月が浮かぶ夜のことでした。


ルシアンのさらなる名誉を高めた大作が完成したことを祝し、伯爵家の大サロンで壮大な夜会が開かれます。招かれたのは、ソフローニアの実家である侯爵家をはじめとする、国の有力な貴族たちでした。


この夜会の目玉は、大公家が経営する王都の大劇場で絶大な人気を誇るオペラ座の至宝ロザリアと、ルシアンが王都から特別に連れ立った精鋭の弦楽奏者たちの登場でした。


今宵は、普段の夜会よりもさらに広い大サロンに、招かれた客たちがずらりと並びます。


「今宵は、大サロンいっぱいにお客様をお迎えしておりますわ。それに、王都の熱心なパトロンの方々から、敬意の印としてピンクの薔薇がいくつもこの控え室に届けられております」


侍女がそう告げると、ロザリアは鏡の前で静かに口元を結びました。


彼女はこの夜会のために、濃いマゼンタピンクの重厚なベルベットドレスを纏っていました。ファンの愛情を体現するような薔薇色を基調としつつ、オペラ歌手としての矜持を感じさせる、気品と威厳に満ちた装いです。


「わざわざ王都を離れた私にまで花を届けてくださるなんて、光栄ですわ。皆様からのピンクの薔薇は、いつだって私の声を支えてくれますの」


ロザリアは薔薇色の手袋を直し、鏡の中の自分を見つめました。


「ですが、客がひとりであろうと、満ちておろうと、わたくしの声は変わりません。曇らせず、お心の奥まで光を届けてみせますわ」


その言葉には、ただの自信ではなく、誤解を恐れぬ覚悟と、舞台に立つ者としての矜持がありました。


誰にどう受け取られようと、今夜の声は場の隅々まで届かせます。


その決意だけを胸に、ロザリアはゆっくりと呼吸を整えます。


やがてサロンの中央へ進み出たロザリアは、重厚な薔薇色のドレスを揺らして一礼しました。


その気配だけで、場の空気はひときわ張り詰めます。


ピアノの前に座ったルシアンが静かに鍵盤に指を下ろし、オペラ座の奏者たちが息を合わせて優美に弓を引くと、あの新月の夜に奏でられた旋律が、今度は重厚な広がりを持って響き始めました。


今夜はそこに、言葉が伴っていました。



遠くから見つめるだけでよかった

あの輝きが、私の夜をほどくから

けれど、光に近づくほど

私はひどく、不器用な仮面を被る

誰かの前では、ただ静かに息を止める

ああ、どうか気づいて

新月のように沈むこの想いが

今も光の前でほどけないことを



ロザリアの歌声は、オーケストラの調べに乗せて、ひとつひとつの言葉を磨き上げるように大サロンを満たしました。


だが、貴族たちは最初、ただ息を呑んで耳を傾けるばかりでした。


やがてひとり、またひとりと扇の陰で囁きが起こります。


「……お聞きになりまして?」


「ええ、あの歌詞を」


「ソフローニア伯爵夫人は、あの作曲家に心を寄せておいでなのでは……」


「アルベルト閣下の御前で、なんということを」


「まあ、なんという艶やかな嘆きでしょう」


扇の陰で囁き合う貴族たちの視線が、ロザリアの歌に身を委ねるソフローニアと、その隣で微動だにせぬアルベルトに注がれます。


ソフローニアは扇で表情を隠したまま、歌のひとつひとつに身を震わせていました。


指先は白くなるほど扇の縁を握りしめ、肩はかすかに揺れ、目元にはこらえきれない熱が滲んでいます。


その姿は、歌を聴いて感傷に浸っているのではなく、胸の奥を容赦なく揺さぶられているようでした。


アルベルトは、その様子を見て、右手の指輪を左手の親指で強く握り込み、胸の内で何かを堪えました。


(おお、ソフィー。今の君には、私ではなく彼の歌こそが何よりも切実な光なのだな。君が彼のもとで心から笑えるのなら、私はこの胸の痛みを甘んじて受けよう。たとえすべての泥を被り、君の瞳が二度と私を映さなくとも……君の幸福がそこにあるのなら、私が退く理由としてそれ以上はいらない)


曲が終わり、戸惑いと好奇に満ちた拍手が鳴り響く中、ロザリアは重厚な薔薇色のドレスを揺らして静かに一礼しました。


歌が残した熱だけが、大サロンにしばらく漂い続けます。


貴族たちはまだ、不義の歌を聞いた者としてのざわめきの中にありました。


「……なんとも危うい歌でしたね」


「ええ。あれほどまでに露骨とは」


「アルベルト伯爵のお心中、お察し申し上げるほかありませんわ」


そこへ、ルシアンが静かに立ち上がり、よく通る声で口を開きました。


「皆様、本日は私の新曲発表にご臨席いただき、誠にありがとうございます。さて……皆様のひそひそ話が私の耳にも届いておりますが、どうやら皆様、この曲の真意を見当違いされているようです」


ルシアンの言葉に、貴族たちは息を呑みます。


「私は、侯爵家が建て、ソフローニア様をはじめとするご令嬢方が慈愛をもって支援されてきた孤児院の出でございます。泥水の中で歌っていた幼い私を見出し、伯爵家のお抱えの師匠に学ぶ道を開いてくださったのは、他でもない両家の皆様なのです。私が、尊き大恩人のお一人であるソフローニア伯爵夫人に、無礼な恋心を抱くなど天地神明に誓ってあり得ません」


ルシアンはそこで言葉を区切り、アルベルトを見つめました。


「この曲の歌詞は、私が書いたものではありません。……実は、執事クラウス殿にご相談を受け、ある方の日記に綴られていた言葉を、そのまま詩にさせていただいたのです」


「日記、だと……?」


アルベルトが思わず声を漏らします。


ルシアンは柔らかく微笑み、真っ赤になって顔を覆っているソフローニアへと手で示しました。


「この歌詞は、幼い頃から一人の男性を深く愛しながらも、いざ妻となってみれば、愛が深すぎるあまりに言葉を失い、意固地な態度をとってしまう……そんな、ひどく不器用なソフローニア夫人から、アルベルト閣下への、長年隠され続けてきたラブレターなのです」


サロンの空気が、ぱちんとはじけました。


誰かが「……あの歌詞の“光”は、アルベルト閣下ご自身のことだったのか」と、信じられないものを見たように呟きました。


「太陽のような伯爵に対し、自らを隠す新月……」


その真意に気づいた者から順に、ハッと息を呑み、口元を隠していた扇をゆっくりと下ろしていきます。無粋な説明の言葉はそれ以上不要でした。大サロンの中に、深い静寂という名の波が次々と伝播していきます。


そして、その理解は、ただ理屈として収まるのではありませんでした。


貴族たちの胸の中で、さきほどのロザリアの歌がもう一度鳴りはじめたのです。


歌の最後に残ったわずかな震え、仮面の下に押し込めたような息継ぎ、甘く切ない伸び――それらすべてが、今になって、別の意味を持って胸を打ちました。


さっきまで「艶やかだ」としか言えなかったものが、いまは「切実だ」としか言えません。


「ソフィー……本当なのか?」


アルベルトが驚きに目を見開いて妻を見つめると、ソフローニアは涙で瞳を潤ませながら、震える声で答えました。


「……ずっと、ずっとお慕いしておりました。幼い頃から、ずっと。……けれど、あなた様の胸の奥には、亡くなられたあの大公家の四女様がずっといらっしゃるのだと思っておりました。私のように不器用で可愛げのない女が、太陽のように眩しいあなた様のお心に寄り添うことなど、お邪魔になるばかりだと思い……っ!」


アルベルトは立ち上がり、周囲の目も気にせず、泣き崩れる妻を力強く抱きしめました。


その温かく、力強い腕に包まれた瞬間――ソフローニアが長年被り続けてきた氷の仮面が、音を立てて崩れ落ちました。


「すまなかった、私が愚かだった。君の冷たい仮面の裏にある温かい心に気づけなかった私を許してくれ。仕事にかまけて、君を孤独な新月にしていたのは、私だったのだ。これからは私のすべてを懸けて、君をこの世で一番美しく輝く満月にしてみせる。私も、君を心から愛している!」


二人の美しい抱擁に、今度こそサロンには割れんばかりの万雷の拍手が鳴り響きました。


壁際で控えていたクラウスは、安堵の涙を流しています。


ロザリアは静かに目を伏せ、深く一礼しました。


その姿は、歌詞の熱をそのまま身にまとったようでした。


貴族たちから沸き起こる拍手は、先ほどまでとは全く別の、深い感動の熱を帯びていました。



【終幕:愛のオペラ(Opera)】


拍手が鳴り止むと、ルシアンはロザリアを隣に立たせた上で、誇らしげに再び口を開きました。


「皆様に、もう一つご報告がございます。私共は、来月結婚いたします」


驚きと祝福の歓声が上がる中、ルシアンはアルベルトと侯爵の前に跪きました。


「尊敬するアルベルト伯爵閣下、ならびに侯爵閣下。泥水の中にいた私を救い上げた両家へのご恩返しとして……どうか私共に『伯爵の功績と夫婦の絆』をテーマにした壮大なオペラを作る許可をいただけないでしょうか」


アルベルトは涙ぐむ妻と顔を見合わせ、満面の笑みで頷きました。


「もちろんだとも、ルシアン。君のその忠義と才能に、我が伯爵家はこれからも喜んで支援を約束しよう」


ソフローニアもまた、潤んだ瞳でアルベルトの腕にそっと手を添え、幸せそうに微笑みました。侯爵もまた、大声で笑って同意しました。


「我が侯爵家もだ!」


こうして、長きにわたる不器用な夫婦のすれ違いは終わりを告げました。


後にルシアンが書き上げたオペラは大絶賛を浴び、後世まで語り継がれる歴史的名作となります。


そのオペラのタイトルこそが、今も世界中の劇場で愛され続ける『新月の夜の伯爵夫人と麗しき新星音楽家』なのです。

応援している女優さん「葉月智子」さんのお誕生日に合わせて執筆しました

作中には彼女を想起させるワードが散りばめられております

彼女の次の主演舞台は

2026年6月17日~6月21日

『泡沫の空に光を飛ばした』

インディペンデントシアターOuji

です

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