8. 新たな仲間
議会からステラ・ウィンチ計画の骨子が承認され、国家予算レベルの莫大なリソースをもぎ取った数日後。
俺、主席技師レオン・ハルシュタットは、第一理学塔の最上層から見下ろす真珠色のドームに背を向け、地下深層へと続く専用エレベーターに乗り込んでいた。
一億人の市民が今日も無自覚な怠惰を謳歌し、脳波を直結させた超没入型仮想空間のネットワークに意識を沈めている。
彼らが要求する莫大な計算リソースと、サーバー群が発する熱を冷却するための電力を賄うべく、月のレゴリス(砂)は今日も凄まじい速度で酸素と熱に変えられ、死んだ灰となって吐き出されている。
残り二十九年。月全体の酸素が完全に尽き、この巨大な真珠色の揺りかごが完全な棺桶へと変わるまでの残酷なタイムリミットだ。
だが、極低温の地下へと下降していくエレベーターの中で、俺の内心を満たしているのは焦燥感や悲壮感ではなかった。
血液は静かに熱を帯び、頭脳は未知の変数との闘いに向けて極限までクリアに研ぎ澄まされていた。
承認されたのは、一兆トンを超える星の質量を深宇宙で捕獲し、空間の摩擦をゼロにして自在に操るという前代未聞の計画だ。
フェーズ・ワンは無人での実証テスト。
対象小惑星を月の重力圏外の絶対指定座標へ誘導し、完全に静止させる。星の運行を制御下に置いたという事実を証明しなければ、月軌道への本格的な資源の持ち込みは許可されない。
だが、突きつけられた条件は、極めて短絡的で冷酷なものだった。
十八ヶ月(一年半)以内に、小惑星の軌道を完全に制御下に入れたという実証結果を提出すること。もし一日でも期限を過ぎれば予算は即刻凍結される。
この狂気じみたタイムアタックを制し、無慈悲な暗黒の海へ正確に針を通すためには、俺の理論やバルカスの製造技術だけでは足りない。軌道力学という名の広大なキャンバスに、数億キロの線を描き切る、もう一人の天才が不可欠だった。
分厚いチタン合金と鉛で何重にも隔絶された、旧世紀のデータ・アーカイブ室。
重々しいエアロックを抜けると、数百のホログラム・モニターが狂ったような速度で天体データを垂れ流す、熱気と微かなオゾン臭に満ちた空間が広がっていた。無菌で平和なドームとは対極にある、生々しく荒々しい宇宙のデータの海。
その中央で、無造作に切り揃えられた黒髪の女性が、コンソールの上に長い脚を投げ出しながら、高濃度の合成カフェイン・チューブを啜っていた。
帝国航宙局・特級軌道航法士、セリア・ヴァンダー。
太陽系全域の天体軌道を、自らの毛細血管のように把握する軌道力学の魔女。空間認識能力と航法計算の直感において、彼女の右に出る者はいない。
一億人が偽りの夢に耽溺するこの月世界において、外宇宙の深淵ばかりを睨み続ける彼女は、完全な異端者だった。
「ノックの概念すらないわけ? 技師長殿」
レオンを一瞥すると再び立体映像に目をやり、スクリーンに流れる軌道要素ケプラー・エレメンツを細い指先で弾いた。
「承認データ、ハッキングして覗かせてもらったわ。ターゲットはメインベルト内側、C型小惑星セレス・マイナー。推定質量一兆トン。高純度な水資源とレアメタルの宝庫」
そこで彼女は手を止め、ゆっくりと椅子を回転させて俺を見た。その目は、冷ややかな拒絶の色を帯びていた。
「悪いけれど、他を当たって。突きつけられた十八ヶ月という期限を見た瞬間に、このミッションは技術的挑戦からただの実現不可能な詰まらない政治的案件に成り下がったわ」
「計算が合わないか」
「ええ。スケジュールが物理的に破綻しているのよ」
セリアはコンソールを叩き、赤い軌道図とタイムラインを空中に展開した。
「どんなに急いでも、牽引艦本隊の建造と打ち上げ準備に二ヶ月。五万トン超えのペイロードを背負った本隊が、V7(第7世代・核融合熱推進)エンジンの最大推力で最適軌道を引いても、セレス・マイナーに届くまで十四ヶ月は食われる。……到着した時点で、残りの猶予はたったの四ヶ月よ」
俺は腕を組んでホログラムの数値を追った。
「シミュレーション構築と実証フェーズの実行プロセスにそれぞれ一ヶ月、小惑星の移動結果が出るまで一ヶ月として……」
「そう。つまり、純粋な小惑星の解析に回せる時間は、どう甘く見積もってもたったの一ヶ月しか残らない」
セリアは冷徹な視線を向ける。
「たった一ヶ月の突貫スキャンで、C型小惑星の不均一なフラクタル構造を完全にマッピングしろって言うの? 空間の摩擦をゼロにするということは、小惑星内部の微細な重力異常を完全に把握し、それに合わせてナノマシンの幾何学を正確に連動させることが絶対条件よ。解像度の粗いデータで干渉を行えば、位相がコンマミリ秒ズレただけで重力波が逆流し、船体は自らの重力場で圧壊するわ」
一呼吸おいて彼女は告げる。
「成功率が統計的なレベルで低いミッションに、私の名前を貸す気はないわ」
時間が、圧倒的に足りない。
五万トンの牽引艦が到着してから観測を始め、ギリギリの期間で未知のカオスを解析し切る。それは科学ではなく、ただの無謀なサイコロ遊びだ。 だが、俺は焦るどころか、自然と低い笑い声を漏らしていた。
「……ふっ」
「何がおかしいの」
セリアが不快そうに眉をひそめる。
「いや、お前の言う通りだと思ってな。着いてからスキャンを開始するから、時間が足りなくなる。なら、着く前に済ませておけばいい」
俺は一歩前へ出て、空中のホログラムに新たな線を書き足した。
「本隊とは別に、センサーアレイと演算コアだけを積んだ小型の観測プローブを先行して打ち上げる。エミッターも素体も積まない、純粋な目と脳だけの船だ。質量は数百トンに収まる」
セリアの瞳が、僅かに動いた。無言で手元のコンソールに触れ、新たなパラメーターを走らせる。
「……ペイロードを極限まで削ぎ落としたプローブなら、建造も早くV7の推力重量比が跳ね上がる。初期加速を最大化すれば、六ヶ月で到達可能ね」
「ああ。本隊が這いずるように進んでいる間、プローブは半年も早く着く。その間、ひたすらディープスキャンを掛け続ける。本来の解析期間に先行した六ヶ月が足され、計七ヶ月の時間が確保できる。これならミリ単位の解像度で完全にマッピングできるはずだ」
セリアは展開された二つの軌道——先行するプローブの鋭い放物線と、後を追う牽引艦の重厚な軌跡——をじっと見つめ、静かに思考を巡らせた。
「時間軸の並列処理……。本隊が到着する瞬間には、極限まで解像度を高めたトポロジカル・マップがすでに完成している。待機時間ゼロで実証フェーズへ移行可能。なるほど、これなら位相ズレの不確定要素を事前に潰せるわね」
セリアはコンソールのデータを整理し、向き直った。その目からは先ほどの拒絶の色が消え、知的な評価の光が宿っていた。
「観測機を別途建造して先行させる。古典的な手法だけど、この極端な制約下では極めて妥当な最適解ね……」
セリアは指を動かし、可能性の見えた実現可能な数値を表示する。
「これなら、科学的に成立するわ」
「だから、お前の腕が必要なんだ」
俺は真っ直ぐにセリアの眼を見据えた。
「ちょっと待って」
セリアは片眉を上げた。
「確かに並列処理のロジックは完璧よ。でも、軌道計算なら量子AIに任せればいいじゃない。AIなら、プローブと本隊のランデブー軌道なんてコンマ一秒のズレもなく弾き出せるはずよ。わざわざ私を指名する理由は?」
「静的な真空空間における完璧な弾道計算ならな。だが、今回は違う」
俺はホログラムに、セレス・マイナーのいびつな形状と、そこから生じる不規則な重力波のモデルを展開した。
「AIの最適化アルゴリズムは過去のデータに依存し、必ず安全マージンを優先する。自転による不規則な重力場の変動や、外部からの外乱が入り乱れるカオスの中で、AIはリスクを避けるために過剰な減速と迂回を繰り返し、結果として十八ヶ月という期限には間に合わなくなる」
「AIの局所解では、時間を食い潰すというわけね」
「ああ。俺が欲しいのは、機械が弾き出す安全解じゃない。予測不能なカオスの隙間を縫うように、ギリギリの重力アシストを連続させて時間を極限まで圧縮する軌道だ。……機械には、そんな直感的なパスは引けない」
セリアはしばらくの間、展開されたカオス的な重力場のモデルを見つめていた。やがて彼女は静かに息を吐き、ふっと口角を上げた。
「AIの計算限界を超える、多体問題のカオス乗り……。一兆トンの星の傍らで、機械にはさばき切れない不確定要素の波を読み切り、出発時期も質量も違う二つの船を針の穴を通すように完璧にスケジューリングさせる」
セリアはコンソールを軽く叩き、数式のパラメーターを一瞬で書き換えた。
プローブと牽引艦のランデブー軌道が、ホログラム上で複雑な曲線を描きながら、完璧な交点を結ぶ。
「前代未聞で、最高に面白そうじゃない」
彼女は俺を見据え、極上の笑みを浮かべた。
「いいわ、乗ってあげる。……宇宙で一番美しいパスを引いてあげるわ」
メインフレームが悲鳴を上げても知らないけどね、と言いながら。
「助かる。俺はすぐにバルカスの工廠へ行き、プローブと牽引艦の建造ラインを立ち上げる」
真珠色の閉鎖されたドームで、ただ酸素メーターの減少を見つめながら窒息を待つだけだった日々が嘘のように、俺の頭脳は冴え渡っていた。
不可能を計算で切り崩し、宇宙の絶対的なルールを上書きする。
俺たちは今、人類の未来をこじ開けるという神の領域の最前線に立っている。残り二十九年のタイムリミットも、十八ヶ月という期限も、もはや俺たちを縛る鎖ではない。




