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5. 零の瞬き

議会が定めた一年の猶予は、もはや後一か月を待つばかりとなっていた。


俺とバルカスが月の地下、重工業区画の最下層に籠もり始めてから十一か月。俺たちの世界は、直径数メートルの実験装置と、絶え間なく流れるエラーログ、そして焦げ付いた油とオゾンの臭いだけで完結していた。


現在の帝国の科学は、月の表面を覆うレゴリス(月の砂)から酸素や金属を抽出する技術には長けている。


だが俺たちが挑んでいるのは、物質の根源的な性質である慣性そのものの制御だ。


理論上、自己増幅させたナノマシンの特定の幾何学パターンを、熱エネルギー変動に共鳴させ流動的に配置し、高周波の重力波干渉を起こすことで、物体の慣性質量を一時的に相殺できる。


しかし、現実は残酷だった。この十一か月で、俺たちは四十九機の試作機を宇宙に送り出し、そのすべてをただの塵に変えてきた。


「……おい、レオン。これでダメなら本当にお手上げだ。もう何のアイデアだって残っちゃいねえ」


バルカスの声は、ひどく掠れていた。


かつて鋼のような肉体を誇っていた男は、今や頬がこけ、眼窩が深く落ち窪んでいる。俺自身も、鏡を見る暇さえなかったが、おそらく幽鬼のような有様だったろう。


月の地下工場で組み上げられ、軌道上の無人プラットフォームへ射出されるのを待つのは実証機Mark-50だった。


「わかっている。……だが、理論の調整は終わった。今までは物質の硬さに頼りすぎていたんだ。今回は違う」


俺は、やっと書き換えた新たな制御プログラムをコンソールに流し込んだ。


これまでの失敗の原因は、慣性制御が発生した瞬間の熱による空間歪曲に対し、マシーンの構造材が耐えようとして自壊したことにある。


だから、発想を逆転させた。ナノマシンの配置を静的な格子グリッドではなく、流動的な波として制御する。


外部からの衝撃や歪みに抗うのではなく、それらすべてを共鳴の一部として受け入れ、逃がすのだ。


「言うのは簡単だが……起動してみるっきゃねぇな」


バルカスは自嘲気味に笑いながら、Mark-50の最終点検を終えた。


彼はこの十一か月、俺の無茶苦茶な理論を形にするために、現在のテクノロジーでは不可能と言われた超精密加工をやり遂げてきた。


俺が脳波を演算ユニットに直結して最適解を探る一方で、彼はナノマシンの僅かな軋みに耳を澄ませ、物理的な限界値を調整し続けた。


俺たちの背後には、第一理学塔の展望回廊で見上げたような真珠色のドームはない。ただ、剥き出しの配管と、腐食した隔壁があるだけだ。一億人の市民が謳歌する超没入型仮想空間の裏側で、俺たちは泥を啜るようにして、世界の終わりの先延ばしに全力を注いでいた。





実験は、月の重力圏を離れた軌道上で行われる。


Mark-50は無人貨物艇に積まれ、音もなく宇宙へと放たれた。


地下のモニターには、漆黒の虚空に浮かぶ銀色のマシーンが映し出される。そのマシーンが据えるのは、百トンを超える巨大な塊だ。


「カウントダウンを開始する。バルカス、そっちの電力供給フィードはどうだ」


「いつでもいけるぞ。地下の第十七動力炉を直結した。このエネルギー量だと没入型公園の電力が一瞬予備に切り替わるだろうが、議員たちには突発的なシステム負荷だとでも言っておけ」


バルカスがスイッチを入れる。画面の中で、Mark-50の周囲に青白い光の粒が舞い始めた。


自己増幅を開始したナノマシンの群れだ。それらは俺のプログラムに従い、真空中にトポロジカルな幾何学模様を編み上げていく。


「ナノマシン、配置完了。共鳴率、60%……70%……」


俺の視界は、脳と直結された演算データで埋め尽くされていた。その狂った計算式の唯一の解が、今、漆黒の宇宙で産声を上げようとしている。


「80%、90%……。バルカス、来るぞ!」


「位相を合わせろ! 逃がすなよ、レオン!」


モニターの中の映像が、陽炎のように一瞬だけ歪んだ。


その瞬間、世界から音が消えたような錯覚に陥った。


いや、真空の宇宙に音など元から存在しないのだが、俺たちの神経系が、物理法則そのものが揺らいだことを本能的に察知したのだ。


Mark-50の隣に鎮座していた百トンの塊が、唐突にその存在感を失った。


浮いているのではない。それは、宇宙の運行から、質量という鎖を解き放たれた、全く別の何かへと変貌していた。


「……慣性、消失を確認。計測不能域、ゼロへ!」


俺は叫んだ。


百トンの塊が、まるで質量を持たない光の粒子であるかのように、そこにある。


これが、あの神が授けた知恵の正体なのか!トポロジカル慣性共鳴。


フェムト秒単位で流れるデータが、不可能を可能にしたことを証明していた。


……しかし、奇跡はあまりに短かった。


慣性を失った塊と、それを制御するナノマシン格子の間に、指数関数的に跳ね上がる位相差が突如発生した。共鳴が維持できなくなった瞬間、相殺されていた慣性質量が、暴力的なまでのエネルギーとなってマシーンの内側に還流した。


「……頼む!耐えろ!!」


バルカスの祈りも虚しく、Mark-50と百トンの塊は内側から弾け飛んだ。


爆発というには、あまりに静かで、あまりに完璧な崩壊だった。


銀色の外装も、巨大な鉄塊も、一瞬にして原子レベルの霧となり、漆黒の宇宙へと散っていった。


指令室を支配したのは、沈黙だった。


モニターには、もう何も映っていない。ただ、遠くで毒の雲に覆われた地球が冷たく輝いているだけだ。


俺は、直結した演算ユニットを開放した。


指先が震えている。全身から力が抜け、座っていることさえ困難だった。


成功した時間は、わずか三秒。刹那の出来事だ。


……だが。


「……おい、レオン」


バルカスの声に、俺は顔を上げた。


彼は、モニターの端に表示されたログを指差していた。


「今、確かに消えたな。あの百トンの塊が……俺たちの目の前で、重さを忘れた……」


「……ああ」


「ハッ……ハハハハ!」


バルカスが、突然笑い出した。乾いた、狂気じみた笑いではない。腹の底から、絞り出すような歓喜の笑いだ。


「成功、成功だ!俺たちの勝ちだ、レオン! 数秒だろうが何だろうが、俺たちは物理法則に勝ったんだ!俺たちは宇宙をひっくり返してやったんだよ!」


俺も、気づけば笑っていた。目元から熱いものがこみ上げてきたが、それを拭う余裕もなかった。


「ああ、成功だ。バルカス。君の作ったマシーンは、確かに不可能を現実にした」


この三秒のデータがあれば、次は、十秒、百秒と延ばしていける。


慣性の制御が現実のものであると証明された以上、スノーライン上の小惑星を月に運ぶ計画は、もはや夢物語ではない。


今、この瞬間の勝利は、間違いなく俺とバルカスのものだった。


俺は、震える手でコンソールを再起動した。Mark-51の設計変更案を立ち上げる。


ミナ、そして、この真珠色のドームの未来。それらをすべて背負って進むための、微かな、しかし消えない光が、俺たちの目の前で灯っていた。


「……さあ、バルカス。休んでる暇はないぞ。次のマシーンの図面を書き換える」


「わかってらあ。コーヒーを淹れてこい、特大のやつをな」


俺たちは、瓦解した鉄の墓標の跡地で、次なる奇跡を組み立てるための闘いを再開した。


期限まで、あと一ヶ月。


今の俺たちに、不可能という言葉はもうなかった。





Mark-50が宇宙で三秒の奇跡を起こしてから、一週間が過ぎた。議会の定めた期限までは、残り三週間。


俺は数ヶ月ぶりに地下の重工業区画から第一理学塔の居住エリアへと戻ってきた。


エレベーターが上昇するにつれ、鼻腔にこびりついていた焦げた油とオゾンの臭いが、無機質な清潔感のある空気に塗り替えられていく。


綺麗に洗ったはずの鏡に映った自分の姿は、それでも目を背けたくなるほどだった。頬はこけ、眼窩は黒く沈み、作業服は至る所が擦り切れている。


俺は、ミナの待つクリーンルームの気密ドアを開けた。


「……兄様?」


ベッドの上、生命維持装置の淡い光に包まれて、ミナがこちらを向いた。彼女の細い肩が、驚きで微かに揺れる。


「ああ、ミナ。ただいま」


俺は努めて明るい声を出したが、喉は酷く掠れていた。ミナはしばらくの間、俺の顔を凝視していたが、やがてその瞳に大粒の涙を溜めた。


「ひどい顔。兄様、本当に人間なの? まるで幽霊みたい」


「幽霊にしては、腹が減りすぎているかな。……心配をかけた。でも、もう大丈夫、もうすぐなんだ。光が見えたんだよ、ミナ」


俺は彼女の枕元に椅子を引き、その細い手を握った。かつてはもっと温かかったはずの指先は、今は痛々しいほどに頼りない。


だが、俺は確信を持って語りかけた。


「あと少しだ。あと少しで、すべてが変わる。小惑星をこの月の軌道まで引っ張ってくる算段がついた。水も、酸素も、資源も、一生かかっても使い切れないほど手に入る。もう、レゴリス(月の砂)の枯渇を恐れる必要も、配給不可を気にする必要もなくなるんだ」


俺は、頭の中で完成しつつあるMark-51の設計図と、スノーラインからやってくる氷の塊を思い描き、熱を込めて話した。


あの神が授けた知恵が、ついに形になる。


俺は、妹への本物の揺りかごを、この手で完成させられることに、震えるような喜びを感じていた。


しかし、ミナの反応は俺の予想とは違っていた。彼女は俺の手を握り返しながら、ただ悲しげに、俺の充血した目を見つめ返してきた。


「兄様。私は、兄様を尊敬していますわ。月の市民を救うためにずっと頑張っていらっしゃる、けれど……けれど」


「……え?」


「兄様が言っていることは、遠すぎて私には分からない。小惑星とか、月の未来とか。……そのために、どうして兄様は自分の命を削ってしまうの?」


「ミナ、これは君のためなんだ。君の体が少しでも楽になるように、もっと潤沢な資源があれば……」


「兄様。私はそんなこと、一度も望んでいませんわ。私の体は、兄様が笑っていてくれればそれで楽になるの」


ミナの声は小さかったが、そこには拒絶にも似た鋭い響きがあった。


「兄様は、私を救うって言うけれど。……私を救うために、兄様が死んでしまったら、私はどうすればいいの? 誰もいない、このドームの中で、私は何を支えに一人で生きればいいの?」


俺は言葉に詰まった。


俺が追い求めているのは、物理的な解決だ。酸素濃度、エネルギー収支、重力干渉の位相制御。それらが完璧に整えば、幸福が訪れると信じて疑わなかった。


だが、ミナが見ているのは、目の前でボロボロになっていく兄という、たった一人の人間だった。


「兄様。私、怖いの」


ミナは、俺のボロボロの作業服の袖を弱々しく掴んだ。


「兄様が最近見ているのは、私じゃなくて、私の向こう側にある世界だけ。今も兄様は未来と引き換えに命を削っているわ。お願い、どこにも行かないで……」


「……どこへも行かない。俺は、ちゃんとミナのそばにいるよ」


俺は彼女の手を包み込むように握った。だが、俺のボロボロになった手では、ミナの柔らかな肌を汚してしまいそうだった。


俺はあの成功を喜んでいた。三秒の奇跡によって、救済の数式が完成したことに。


でも、目の前のミナは悲しんでいる。未来の代償として、俺という人間が摩耗し、消えていくことに。


ミナの死ぬほど心配している気持ちが伝わってくる。でも、それでも俺は止まる訳にはいかなかった。


「……あと三週間だ、ミナ。三週間で第一段階が終わる。もう少しで終わるから大丈夫だよ」


Mark-51の製造、軌道投入、そして小惑星の捕獲。これから訪れる三週間は、これまでの十一か月よりもさらに過酷な戦いになるだろう。


俺は、自分の命を燃料にして、あの重力波の坂道を駆け抜けるしかないのだ。


「……嘘つき」


ミナは静かに目を閉じ、手を離した。


「兄様は、いつもそう。……でも、仕方ないわ。兄様がどうしても行かなきゃいけないなら、私はここで待ってる。でも、兄様。もし、約束を破って私が一人ぼっちになったら、私は絶対に兄様を許さないから」


彼女の顔は、今にも消えてしまいそうなほど儚かった。


俺は立ち上がり、部屋を出た。クリーンルームの外に出ると、再び無機質な廊下の冷気が俺を包んだ。


ポケットの中で、バルカスからの連絡が入っていた。Mark-51のメインチャンバーに微細な歪みが見つかったという。


「……わかってるよ、ミナ。俺も、ミナを悲しませることになれば、自分を許せないだろう」


俺は振り返ることすらできずに地下へのエレベーターに飛び乗った。


俺の脳内では、すでに修正された数式が狂ったように回転を始めていた。今は三秒の続きを、十秒、一分へと延ばすための論理が、また俺の全身を支配してくる。


どちらが正しいのかは分からない。ただ、残り三週間のカウントダウンが、冷酷なリズムで時を刻み続けていた。

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