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3. 始まり

半年が経過した。


俺は一つの仮説に到達した。あの神が言っていたトポロジカル慣性共鳴則——それは、量子真空の相関干渉による、局所的な慣性質量の動的制御だった。


既存の物理学において、質量は動かしようのない定数だ。だが、自己増幅を開始したナノマシンの群れを特定の幾何学的トポロジーに配置し、エネルギーの出力ベクトルを極限まで統制することで、局所的な高周波重力干渉を引き起こす。


これにより、物体の運動に対する根源的な抵抗——すなわち慣性そのものを任意にコントロールし、対象を物理法則の檻から解き放つことが可能になる。


これができれば、スノーライン上の小惑星を、重力の坂道を転がり落ちるボールのように月へと誘うことができる。


「……頼む。今度こそ、動いてくれ」


俺は震える指で、最終シミュレーションの実行キーを叩いた。


対象:小惑星「セレス・マイナー」

目的:小惑星帯から月周回軌道(L2ポイント付近)への遷移

消費エネルギー:最小値


画面が暗転する。


冷却ファンが絶叫に近い音を立て、研究室の温度が数度上がった。排熱問題は深刻だ。俺はモニターを見つめ続けた。


0.1%... 10%... 50%...


計算モデルは、これまで何度も軌道崩壊か、エネルギー不足で赤字を示してきた。


だが、今回は違う。


あの夢で授かった慣性質量相殺のパラメータを組み込んだ計算式が、これまでの物理学を嘲笑うように、滑らかな放物線を描き始めた。


数時間後。


静まり返った研究室に、控えめな、しかし決定的なアラート音が響いた。


[シミュレーション結果:成功]

[純エネルギー収支:プラス

[資源獲得量:1.2 × 10¹² トン(水/酸素/鉱物)]


「……っ!」


俺は声にならない叫びを上げ、椅子の背もたれに深く沈み込んだ。


画面には、月を優しく周回する小惑星のホログラムが映し出されている。


それは、一億人の市民を飢えと窒息から救うだけでなく、ミナが一生、酸素の心配をせずに笑っていられる未来の証明だった。


帝国の現在の技術リソースをフル稼働させれば、このシミュレーションを現実に変えられる。


火星への絶望的な移住も、死の惑星と化した地球への未練も必要ない。月は、この一億人の真珠色の檻は、本物の揺りかごへと進化できるのだ。


だが、歓喜に震える俺の脳裏に、ふと、あの夢の中の笑い声が蘇った。


「見返りなんていらない。君がその知恵を全力で形にしてくれること、それ自体が報酬だよ」


なぜ、あの存在はこれほどまでの神の知恵を、しがない一人の技師である俺に授けたのか。


この理論が確立された今、俺はそのあまりの都合の良さに、一瞬だけ言い知れぬ寒気を感じた。


だが、その違和感は、目の前の成功という名の眩い光にかき消されていった。


俺は、狂喜に満ちた手で、議会への緊急報告書の作成を開始した。


西暦2500年、ひとりの男の熱狂によって、月人類の運命を、その進路を大きく変えた瞬間だった。


……この時、俺はまだ知らなかった。


自分が救おうとしているこの月という檻を、さらに強固な鎖で縛り付けようとしている、未来からの冷徹な眼差しに。





帝国議会議事堂。


眩いパールホワイトの光に包まれたその中心に、俺、レオン・ハルシュタットは再び立っていた。


かつて危機的なレゴリス(月の砂)消費量を鼻で笑い、黙殺した議長ウォルター及び各セクター代表議員たちの顔が、円環状の議卓に整然と並んでいる。この月の無菌の贅沢を維持するために、彼らはレゴリスを貪り食い続けているのだ。


俺の胃の腑は、鋭利なガラス片を飲み込んだように疼いていた。


手元のデバイスには、あの神のような存在から授かった禁断の物理学が、冷徹な青い光を放っている。


これが人類を救う唯一の希望だ。これ以外に道はない。


「……ハルシュタット主席技師。また、例の三十年後の窒息という退屈な悲観論を繰り返しに来たのか?」


最前列に座るウォルター議長が、鼻で笑いながら言った。彼は公約を実行するために全自動ロボットの普及と没入世界の拡充を推し進めている。


計算リソースの消費を抑えるような話など、彼にとっては支持率を下げる不協和音でしかない。


「いいえ、議員。本日は、現体制を維持したまま資源不足を根本から解決する実証計画の承認を求めに参りました」


俺は努めて冷静に、議会に対する礼節を保ちながら答えた。


だが、議場には冷ややかな失笑が漏れる。


「解決策だと? 火星への移住はコストが赤字だと結論づけたのは君自身だろう。それとも何かね、地球のタイラント・セルが魔法のように消滅でもしたのかな?」


隣に座る第9セクターの代表議員も嘲るように言い放った。


「技師長。我々が求めているのは、市民に提供する価値をいかに高めるか、そのためのリソース配分だ。君の誇大妄想に付き合う余裕はないのだよ」


俺は深く息を吸い込み、ホログラムを展開した。


そこには、自己増幅を開始したナノマシンの群れが特定の幾何学的トポロジーに配置され、エネルギーの出力ベクトルを極限まで統制することで、局所的な高周波重力干渉を引き起こす理論モデルが映し出された。


「トポロジカル慣性共鳴則。これが、帝国の未来を繋ぐ鍵です。この理論を用いれば、スノーライン上の小惑星群から水や酸素、希少金属が詰まった塊を、現在の輸送コストの千分の一以下で月へと運搬することが可能になります。これにより、市民は現在の、あるいはそれ以上の贅沢を永劫に享受できるようになります」


議場が一瞬、静まり返った。


あまりに突飛な内容に、彼らは呆気に取られているようだった。だが、すぐに怒声に近い反論が飛ぶ。


「小惑星を運んでくるだと? 君は技術者ではなかったのかね?ワシにもわかるぞ、不可能だ!物理学を無視するのも大概にしろ!」


「そんな夢物語に、貴重なナノマシンの生産能力と電力を割けというのか。有権者に何と言えばいい。娯楽施設の増設を中止して、小惑星を引っ張る魔法の研究に予算を回しました、とでも言えというのかね!」


俺は一歩前に出た。用意した説得内容を、冷静に話す。


「議員の皆様、誤解しないでいただきたい。私は皆様の公約を否定しているのではありません。むしろ、それを永続的な実行へと変える手段を提案しているのです」


更に一歩踏み出す。


「私の試算が、もし、たった一パーセントの確率でも的中していたらどうなるか、想像してください。今のままのレゴリス消費速度では、居住エリアでエネルギーの配給制限が始まることになります。その時、市民の怒りはどこへ向かうでしょうか?」


俺の声が議場に響き渡る。議員たちの顔色が、わずかに変わった。


「快楽に縛られた市民が暴動を起こし、このドームが血に染まる。その責任の矛先は、ほかならぬ皆様方に向きかねない」


議員会場を見回しながら詰める。


「歴史に名を刻むのは人類を救った先見者としての名声か、あるいは保身のために一億人を窒息させた愚か者としての汚名か。どちらをお望みですか?」


沈黙が重くのしかかる。


彼らにとって重要なのは真理ではない。自分たちの地位を揺るがす責任という名の不確定要素をいかに回避するかだ。


もし俺の理論が正しかった場合、それを無視した事実は彼らの政治的生命を一瞬で断ち切る劇毒となる。


「……ふん、脅しのつもりか。技師長、君の無礼は議事録に留めておく」


議長が、苦虫を噛み潰したような顔で、しかしどこか焦りを含んだ声で言った。


「だが、万が一……あくまで万が一だ。君の言う通り、現在のレゴリス変換プラントの稼働率が市民の期待を下回る事態が起きた場合、予備の資源確保手段がないことは、確かに統治上のリスクと言える。あくまで、冗長性確保のためのバックアップ・プロジェクトとしてなら、リソースの一部を割くことを検討してもいいだろう」


会場を見渡すが、反論する議員は現れない。


「……ありがとうございます、議長。バックアップを常に考えるそのご判断、感謝します」


俺は深く頭を下げた。


虫唾が走るような政治的妥協。だが、これでいい。俺が欲しかったのは、彼らの信頼ではなく、実証実験のための権限とリソースだ。


「……ただし! この件に割くリソースは、既存の娯楽関連予算を侵食しない範囲に留めること。それと、もし一年以内に目に見える成果が出なければ、即座にプロジェクトを解散し、君にはその責任を取ってもらう。いいな、ハルシュタット主席技師」


議員は吐き捨てるように言い、承認の電子印を乱暴に押した。


議場を出る俺の背中に、冷ややかな視線が突き刺さる。彼らはまだ、俺の計画を変人の道楽か、せいぜい不祥事への保険程度にしか考えていない。


俺の手元には、あの神から授かって完成させた物理学が脈動している。


自動通路の窓から見える月の荒野を見つめながら、俺は独りごちた。


「……これで、前に進める」


ミナを救うための、狂気じみた構想が始まった。俺はこの月を、死の岩石から本物の揺りかごへと変えてみせる。


俺は手ごたえを感じながら、最初のナノマシン自己増幅プロトコルを起動した。


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