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2. 夢の中の特異点

第一理学塔の居住区、医療グレードのクリーンルーム。


そこが、俺のたった一人の家族、ミナの世界のすべてだった。


気密ドアが開くと、微かなオゾンの香りと、生命維持装置が刻む一定のリズムが俺を迎え入れる。


ベッドに横たわるミナは、真珠色のシーツに埋もれるようにして、静かに呼吸をしていた。


彼女の肌は月の光よりも白く、透き通った皮膚の下を流れる青い血管が、彼女の生存がナノマシンの微細な調整の上に成り立つ危うい均衡であることを物語っている。


「……兄様? また、遅くまでお仕事だったの?」


ミナがゆっくりと目を上げ、俺に微笑みかける。その瞳は、一度も見たことのない地球の海のように澄んでいた。


「ああ、少し仕事が立て込んでいてね。中々来れなくてごめんよ、ミナ。寂しかったかい」


俺は彼女の細い手を握る。驚くほど冷たい。


俺はこの手を温めるために、一億人の市民の未来という、自分には重すぎる荷物を背負い続けている。


俺は決して、英雄になれるような強い男じゃない。


議会で罵声を浴びせられれば胃がキリリと痛み、資源枯渇のシミュレーション結果を見るたびに逃げ出したくなる。


それでも、この指先の温度だけが、俺をこの理不尽な現実へと繋ぎ止めていた。


「兄様のおかげで私はここにいられるの。本当は寂しいけれどしかたないわ」


ミナの言葉が、鋭いナイフのように俺の胸を刺す。


彼女を生かす完璧な楽園は、あと三十年で終息する運命にある。


俺が彼女に与えているこの状況は、死へのカウントダウンに過ぎないのだ。


俺は誠実でありたいと願っている。だが、彼女を守るためには、何か手を打たなければならない。


もし火星への移住を議会へ強行に訴えかければ、俺は今の立場から追いやられるだろう。


かといって、このまま月に留まれば、彼女は三十年後に恐怖の中で最期を迎えることになる。


「ミナ、約束するよ。俺が必ず、君がずっと笑っていられる場所を守ってみせる」


俺の声は微かに震えていた。守りたいという決意と、それが不可能だという絶知が、俺の内側で常に激しく衝突している。


「急にどうしたの?兄様」


俺は彼女の顔を見つめながら、己の無力さを呪った。俺が求めているのは、人類の救済という大仰な目標じゃない。ただ、この小さな命を、明日の朝も同じように輝かせていたいだけなんだ。





その夜、俺は研究室の冷たいコンソールの上で、意識の断層へと滑り落ちた。


気がつくと、俺は自分の研究室に立っていた。


だが、何かが決定的に違っていた。


展望窓の向こうに広がる月面は、いつもの真珠色の輝きを失い、銀灰色の静寂に包まれている。時計の針は止まり、空気の振動さえも凍りついたような感覚。


「……まだ、解を求めているのかい。レオン」


不意に背後から声がした。心臓が跳ね上がる。反射的に振り返るが、そこには誰もいない。


いや、空間の歪みそのものが、人の形を成しているかのように見えた。


「誰だ……! いや、警備システムはどうした」


「君たちの定義する物理的な干渉は、僕には通用しないよ。僕は、君という観測者が生み出した可能性の特異点……まあ、神とでも呼んでおけば納得がいくかな?」


その神を自称する存在は、実体がないにもかかわらず、確固たる意志を持って俺の思考に侵入してきた。


「神だと? 冗談はやめろ。俺は論理しか信じない」


ふむ、と頷き神は続ける。


「資源問題をどうにかしたいんでしょ?救いは、君たちの頭上にあるよ」


混乱しながらもレオンは反論する。


「そんなの分かっている!しかし、火星は遠く、地球は猛毒だ。どこに救いがある!」


俺は半ば自棄やけになって叫んだ。すると、その存在はわらったように見えた。


「もう一度言うけど、救いは、君たちの頭上にあるよ。火星と木星の間、スノーライン上の小惑星群アステロイド・ベルトだ。そこには、君たちが喉から手が出るほど欲しがっている水、酸素、有機資源が、地質学的時間軸で言えば無限に転がっているじゃない」


レオンが叫ぶ。


「馬鹿なことを!アステロイド・ベルトから質量を運ぶコストを計算したことがあるのか? 現在の核融合推進(NTP)でも、一億人を養うだけの質量を運搬すれば、消費する推進剤の方が上回る。それは救済じゃなく、エネルギー的な自死だ」


俺は即座に反論した。数千回繰り返した計算結果が、俺の頭の中に刻まれている。


しかし、神は動じない。


「それは君たちが、投射して加速する、という古典的な反動推進に縛られているからだよ。レオン、重力勾配加速と、量子干渉による慣性質量制御を組み合わせたらどうなると思うかい?」


空中に、見たこともない複雑なテンソル方程式が展開された。俺の脳が、その複雑な論理に悲鳴を上げる。


「いいかい、ターゲットにする小惑星の表面に、自己増殖型のナノマシンを投下する。そいつらは小惑星の資源を食って、巨大な質量駆動へと自己進化する。だが、それは単なる加速装置じゃない。月の重力圏と太陽の引力の平衡点、ラグランジュ・ポイントを利用した重力の坂道を人工的に作り出すんだ」


「……重力の坂道だと? 空間の曲率を、ナノマシンのグリッドで干渉して変えるというのか?」


俺の喉が渇いた。そんな発想、人類の物理学じゃない。


「その通り。小惑星の慣性質量を局所的にゼロまで相殺し、最小限の推力で軌道を滑らせるんだよ。これをね、トポロジカル慣性共鳴則っていうんだよ」


神は悪魔のようにささやく。


「スノーライン上の氷を含んだ小惑星を、月周回軌道へと直接ダイブさせるんだ。もちろん月面に衝突させる必要はない。軌道上で解体し、大気として、あるいは資源としてドームへ流し込めばいいさ。これなら、コストの赤字は発生しないよ。むしろ、月は膨大なエネルギーの余剰を手に入れることになる」


俺の頭の中で、止まっていた歯車が猛烈な勢いで回転を始めた。


提示された数式を、帝国の既存技術に当てはめていく。


……いける、のか?


このトポロジカル慣性共鳴則とかいう——重力波の干渉縞をナノマシンの配置で制御する論理さえ確立できれば、理論上、月はこのまま、永遠の、そして真の楽園になれる。ミナを、危険にさらすことなく安心して過ごさせることができる。


「……なぜ、こんな知恵を俺に? あんたに何の得がある」


俺は興奮を抑えきれず、猜疑心と希望が入り混じった声で問いかけた。


神は、その形のない輪郭を少しだけ揺らした。


「一つだけ、頼みたいことがあるんだ。といっても、難しいことじゃない。君がどうしても嫌だと言うなら、忘れてくれても構わないよ」


「頼みだと……?」


「うん。君がこの技術を完成させ、それを全力で推し進めてほしいんだ。君の世界の議会を説得して、市民を扇動し、この月を宇宙で最も豊かな場所に作り替えてほしいんだよ。たったそれだけ」


「……それだけ?見返りというか、それは俺がやりたかったことだ……」


俺は神の裏に何かあるのでは、と身構える。


「そんな身構える必要はないよ、レオン。君のその瞳、その興奮を見ただけで、僕はもう十分な報酬を受け取ったようなものだからね。……おやすみ、若き技術者。君の作る未来を、楽しみにしているよ。じゃあね」


光が溢れ、俺の視界は白濁していった。


最後に聞こえたのは、穏やかで、しかしどこか冷徹な、機械的なまでの静寂を含んだ”笑い声”だった。





目が覚めたとき、俺の全身はひどい汗で濡れていた。


網膜には、あの神が空中に描いた数式が、まるで焼き付いた光のように残像を刻んでいる。


俺は震える手でコンソールを起動し、忘れないうちにその断片をバイナリへと叩き込んだ。


「……やるしかない。これがあれば、ミナを救える」


外はまだ、真珠色の静寂が支配していたが、俺の心の中では、一億人とミナの未来を賭けた、孤独で壮大な戦いが始まった。


……だが、そこからが本当の地獄だった。


あの存在が提示した理論は、この2500年という発展しきった文明ですら原始的と切り捨てるほど、絶望的なまでに先を行っていた。


「……解けない。なぜだ、変数が一致しない」


俺は独りごち、荒れた髪を掻き毟る。


あの神から提示されたのは、重力勾配加速。


現在の帝国の物理学では、重力とは制御すべき対象ではなく、抗うべき定数だ。


それをナノマシンの干渉格子グリッドによって波として操作し、空間の曲率を意図的に歪めるなど、数世紀先のオーバーテクノロジーに他ならない。


数式を現在の演算言語に翻訳しようとするたびに、システムは定義不能な演算としてエラーを吐き出す。


第一理学塔のメインフレームが悲鳴を上げる。


一億人の市民が没頭する超没入型仮想空間や、彼らの怠惰な生活を支える全自動ロボット網に莫大な計算リソースが割かれているこの帝国で、俺のような資源枯渇を訴える変人に割り当てられる演算能力は少ない。


俺は自分自身の脳波を補助演算ユニットとして直結した。


視界が火花を散らす。思考の速度を物理限界まで引き上げ、夢の中の記憶を一つずつ、現実の物理法則と接合していく作業。


それは無謀な試みだった。





一ヶ月が過ぎ、三ヶ月が過ぎた。


俺は研究室から一歩も出ず、合成栄養剤と覚醒剤に近いサプリメントだけで命を繋いだ。


鏡を見る余裕もなかったが、おそらく幽鬼のような顔をしていただろう。


そんなある日、重い気密ドアが音もなく開いた。


「……兄様、またそんなに根を詰めて。顔色が真っ白よ」


ミナだった。彼女は負荷のかかる移動式の生命維持ユニットに守られながら、ゆっくりと部屋に入ってきた。


彼女の身体を維持するために消費されるエネルギーも、あのレゴリス(月の砂)変換プラントが吐き出す、限りある資源の一部だ。


「ミナ……。ここ最近来れずに、すまない」


俺は無理に口角を上げたが、指先は震えていた。


ミナは俺のそばに寄り、冷たい手で俺の頬に触れた。


「兄様はいつも、私の知らない遠い未来のことばかり考えてる……。でもね、その未来を守るために今、兄様がいなくなっちゃうのは嫌。この世界が、兄様の命を削ってまで作られてるものなら、私はもっと、苦しい環境だって平気よ。だから……お願い、一人で思いつめないで」


彼女の無垢な言葉が、俺の胸に突き刺さる。


壊れる? そんなことはどうでもいい。俺が壊れる前に、この世界が、ミナの吸う空気が尽きてしまうことの方が、よっぽど恐ろしい。


俺は彼女を抱きしめたい衝動を抑え、優しく部屋から送り出した。彼女を守るための答えは、まだこのコンソールの中には存在しない。


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