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1. 月の危機

西暦2208年、世界を襲ったパンデミックに対抗するため、人類はワクチンで危機を乗り切った。


しかし、それから約50年後の2256年、地球の大気が人類にとっての毒へと反転し、文明の崩壊は音もなく始まった。


かつての救世主であったワクチンは、変異した病原体と出会うことで、吸い込んだ者の肺を内側から焼き尽くす劇毒のスイッチへと変貌を遂げてしまったのだ。


この物理的な絶望が地上を覆い尽くす中、潤沢な資産と最先端の技術を握る一人の人物が、重力に抗い、真空という名の究極の無菌室である月へとその身を投じる決断をした。


これが、後に月面の覇者となる環境再生帝国の産声であった。


移住の初期、月面は決して楽園などと呼べる代物ではなく、地下深くの厚い鉛の層に守られた狭小な閉鎖空間に、選ばれた優秀な技術者100名程度がひしめき合う、生存するための檻に過ぎなかった。


この極限状態を統率したのが、一人の類まれなる先見性を持った、月移住を決断した科学者、後の最初で最後の指導者(皇帝)である。


彼は地球の大気管理連合が空気を利権化して人々を支配する道を選んだことを知性の敗北と切り捨て、月面を覆う砂、すなわちレゴリスから酸素を無限に抽出する独自のプロセスを完成させた。


彼が設計した初期の酸素抽出ユニットは、後の火星移住民の呼吸を支える巨大プラントの雛形となり、月を死の岩石から人類の第2の揺りかごへと変貌させる動力となったのである。


だんだんと生活の基盤が地下から地表へと広がり、真珠色に輝く巨大な気密ドームがクレーターを覆い始めると、地球で窒息を待つだけだった人々が、段階的に、そして加速度的に月へと招き入れられた。


数万から数百万、そして数千万へと徐々に膨れ上がる人口に対し、居住エリアは網の目のように連結され、今や月の表面積の4分の1を覆い尽くすまでに拡大した。


2500年の現在、この広大な月に住まう一億の市民は、飢えや資源の奪い合いとは無縁であり、ナノマシンが合成する最先端技術を日常的に享受している。


しかし、帝国の歴史において最も特異な転換点は、その絶対的な指導者が権力の絶頂期に下した王冠の廃棄であった。


2280年代には社会が安定に達し、一人の英雄による決断がもはや不要となった時、彼は「人類を一人の意志に委ねるべきではない」と宣言し、全権を各居住エリアの市民へと委ねたのである。


これにより、帝国は知性による合意を最上位に置く代表制民主主義へと移行し、セクターごとの住民投票で選出された代表たちが議会を通じて国政を担う、人類史上最も洗練された政治形態を完成させた。




西暦2500年


主席技師レオン・ハルシュタットは、第一理学塔の最上層にある展望回廊の縁に立ち、月面の四分の一を埋め尽くす真珠色の光の海を見下ろしていた。


かつての絶対的指導者が王冠を脱ぎ捨て、今や百のセクターによる代表制民主主義へと移行してから数百年 。一億人の市民が謳歌するこの完成された楽園は、今や地球という母星を、郷愁の対象ではなく忌まわしき過去の遺物として切り捨てていた。


展望窓の向こうに浮かぶ地球は、どす黒い紫色の雲に覆われ、タイラント・セルという病原体が猛威を振るう死の惑星だ。


帝国市民たちは、今でも大気管理連合が支配するあの地球で、病原体を取り除くフィルター代のために人々が命を削り、呼吸のランクに縛られて喘いでいる惨状を詳細に知っている。


だからこそ、彼らは月での生活に絶対的な満足を感じていた。この無菌で贅沢な閉鎖空間こそが、人類にとっての終着駅なのだ、と。


この一億人の満足を物理的に支えているのは、帝国が誇るレゴリス(月の砂)変換プラントである。


月面を覆う膨大な砂は、高集積の加熱抽出ユニットに吸い込まれ、ナノマシンの群れによって原子レベルで解体される。


そこから取り出されるのは、生命維持に不可欠な純粋な酸素だけではない。建築資材となるチタンやアルミニウム、電子回路の基盤となるシリコン、そして高度な計算リソースを支えるナノマシンの材料となる希少金属まで、レゴリスは帝国のあらゆる欲望を満たす魔法の素材であった。


しかし、この民主国家の政治構造が、技術的な歪みを生んでいた。


各セクターの住民投票で選ばれる議員たちにとって、次の選挙で再選されるための唯一の手段は、市民の満足度をさらに引き上げることに集約されていた。


代表たちは競うように、より潤沢な資源投入を公約に掲げる。新しい没入型仮想エリアの増設、さらなる高精度な移動型住居、そして何より、市民を労働から完全に解放する全自動ロボット網の拡充である。


ここ数年、帝国の様相は劇的に変化した。


市民たちは自ら工具を握ることをやめ、ナノマシンの群れに指示を出すことさえ、自律型AIを搭載したナノマシンやロボットに委ねるようになった。


労働を忘れた一億人が求めたのは、脳波から直接読み取られた欲望を体現する、莫大な演算能力を必要とする娯楽であった。


「……信じがたい熱量だな」


レオンの手元のコンソールには、セクター全体の計算リソース消費グラフが、不気味なほどの急上昇曲線を描いていた。


一億人が没頭する超没入型仮想空間の維持、そしてそれを支えるために休むことなく月面を這い回る数億機のロボットたち。


これらを制御するAIの計算負荷は、排熱問題を深刻化させ、冷却システムを動かすためのさらなる電力を要求する。


そのエネルギー源を確保するため、レゴリス変換プラントはフル稼働を強いられていた。プラントは酸素と資源を吐き出すと同時に、莫大な熱と、使い果たした後の死んだ砂を排出し続ける。


レオンが算出したレゴリス消費量の予測値は、政治家たちが楽観的に提示する数値を遥かに上回り、指数関数的に跳ね上がっていた。


一億人の市民が、より怠惰に、と願うたびに、帝国の心臓部は激しく脈動し、月の資源を貪り食っていく。


彼らは民主主義という名の下で、自らの楽園を維持するために、未来の資源を今この瞬間に燃やし尽くそうとしていた。


レオンは、眼下の光り輝くドーム群を見つめながら、その輝きが近い将来ぷつりと途切れる瞬間のシミュレーションを、何度も繰り返していた。





帝国議会議事堂の中。眩いパールホワイトの光に包まれたその中心で、主席技師レオン・ハルシュタットは、自らが導き出した冷徹な数値をホログラムで展開した。


そこには、真珠色に輝く帝国のドーム群の下で、一億人の市民が謳歌する永遠の平和を根底から覆す、残酷なカウントダウンが刻まれていた。


「……これが結論です。我々が享受しているこの生活は、あと三十年で終わりを迎えます」


レオンの声は、静まり返った議場に鋭く響いた。


しかし、議卓を囲む各セクターの代表議員たちの反応は、彼が期待した危機感とは程遠いものだった。


「三十年? バカなことを言うな、技師長。帝国創設時からこれまで何度も行われてきた資源調査では、月のレゴリスは今の人類がさらに一億年生きるに十分な量がある、と結論づけられている」


最前列に座る第75セクターの代表、ウォルターが、鼻で笑った。


彼は議員から選出される議長も務める。来月の住民投票での再選を確実にするため、全自動ロボットの今より250%普及と、没入環境拡充を公約に掲げていた。


「その一億年という数字には前提があります。月移住当初からこれまで続いてきたような、生きるための抽出であって、質素な暮らしを続けた場合の話です。だが今の帝国はどうですか?」


レオンは空中に新たなグラフを叩きつけた。


「一億人の市民はもはや、移動型居住空間から出ることも無く、脳波を直接没入空間へ送り込み、全てがそこで完結しています。自分の手でナノマシンの指示を出すことさえ無くなりました。娯楽関連の計算リソース消費量は、この五年間で指数関数的に跳ね上がっています」


だんだんレオンの声が大きくなる。


「脳に送り込む波長を維持し、脳の快楽を分子レベルで理解し続け、無菌のプラズマ・ミストを24時間稼働させて生命を維持させる、この究極の怠惰を支えるために、レゴリス変換プラントはフル稼働し、本来なら数千年持たせるはずの資源量を、わずか一年で燃やし尽くしています!」


「市民は現状に満足している。その満足度を維持することこそが、我々代表の責務だ。不安を煽るようなデータは、社会の安定を乱すだけだ」


別の議員が不快そうに言い放った。彼らにとって重要なのは、三十年後の窒息よりも、来月の選挙における支持率だ。


結局、別の技術者から提示された安心できる埋蔵量データが提示され、レオンの報告は計算モデルの極端な悲観論として片付けられ、議事録の奥深くに黙殺されることとなった。


第一理学塔の自室に戻ったレオンは、展望窓から不気味な紫色の雲に覆われた地球と、その反対側に冷たく輝く火星を見つめた。


議会が動かない以上、どうするべきか。





「……火星か、それとも地球か」


主席技師レオン・ハルシュタットは、第一理学塔の最上階にある個人研究室の展望窓に額を預け、冷たく独りごちた。


左手には、数千万キロの彼方で赤く、清らかに輝く火星が。右手には、かつての母星でありながら、今は禍々しい紫色の雲に包まれた地球が鎮座している。


議会に黙殺された三十年後の窒息という未来を覆すには、もはやこの月の中に答えはない。


一億人の市民が、より快適に、より怠惰に、と願うたびに、月面のレゴリス(月の砂)は凄まじい速度でその輝きを失い、死んだ砂へと変わっていく。


レオンは空中に火星探査のシミュレーションデータを展開した。火星は、物理的には究極の解に見える。


完全な無菌環境であり、地球を地獄に変えた病原体タイラント・セルは存在しない。


地表には純粋な酸化鉄や希少金属といった手付かずの資源が眠り、地下には水が氷の状態で保存されている。


また、火星の資源を精製するのに、複雑な分子レベルの濾過は必要ない。この月と同じように帝国のクリーンなナノマシンが、レゴリス変換プラントと同じ原理で、同じ規格のままそのまま使用できる。


しかし、エンジニアとしてのレオンの眼は、その背後にある絶望的な数学を見ていた。


「……遠すぎる」


現在の帝国の計算リソースとエネルギー生産能力では、火星との間に恒常的な資源の橋を架けることは不可能だ。


一億人の生命を維持するための物資を運ぶ貨物船を往復させるだけで、火星から得られる利益を上回るエネルギーを消費してしまう。


火星は、帝国にとって手は届くが、利用すれば帝国が沈む原石でしかなかった。


対して、眼下の地球はどうか。


かつて月移住人類が捨て去ったその星には、文明の残骸と、数十億年かけて蓄積された有機資源が溢れている。


莫大な水資源があり、月では数ミリグラム単位で管理されている資源があふれている。


静止軌道上の基地衛星を数基でも製造すれば、輸送コストは火星の百分の一以下に抑えられる。


だが、そこには病原体タイラント・セルという、論理を拒絶する壁が立ち塞がっている。


帝国の、自分たちの身体には、過去の救世主であったワクチン遺伝子レガシー・パソゲンが純粋な形で刻まれている。


それが地球の汚染された空気に触れた瞬間、人体の全細胞は自爆装置へと変わり、わずか百八十秒で内側から全細胞へ侵食し、塵に還る。


地球の資源を奪うということは、猛毒のスープの中から一粒の米を拾い上げるようなものだ。


地球ルートは、距離こそ近いが、大気を覆う病原体との拒絶反応が、あらゆる接触を拒んでいる。浄化プロセスに回すエネルギーを考えれば、現在の帝国の技術リソースでは完全な赤字であり、1億人を養うことはできない。


レオン・ハルシュタットは、ホログラム・コンソールを乱暴に払いのけた。空間に浮かんでいた数千のシミュレーション・パスが、火花のように散って消える。


何度計算しても、導き出される解は同じだった。


「……詰みか」


帝国の1億人の呼吸を維持するための資源調達。


その計算式において、火星と地球はどちらも、解なし、という冷徹な等号で結ばれていた。


この不等式が、レオンの眼前に突きつけられた月人類の死刑宣告だった。





思考が煮詰まり、レオンは第一理学塔の最上階から、天井も床も透明な強化セラミックに包まれたエリアへと足を踏み出した。そこは、月面の真珠色の輝きと、漆黒の宇宙が交わる境界線だ。


足下には、1億人が謳歌する平和な楽園の灯りがどこまでも広がっている。だが、レオンの視線はその輝きを通り越し、遥か彼方に浮かぶ母星へと向けられた。


かつての青い惑星は、今や病的なまでにドス黒い紫色の雲に包まれ、病原体タイラント・セルという名の死の霧が蠢いている。


「……あんなに近くて、あんなに豊かなのに、行くことさえ許されないのか」


月の清浄すぎる無菌室で育ったレオンにとって、地球の姿は美しくも、歪な塊にしか見えなかった。このままでは、帝国は30年以内に自らの呼吸で自らを窒息させる。議会の連中がどれだけ娯楽にリソースを投じようとも、資源量は決して嘘をつかない。


「あまり思い詰めるな、レオン。君一人が背負う問題じゃない」


不意に背後から声をかけられ、レオンは肩を震わせた。


そこに立っていたのは、同期の環境管理官、マルクスだった。彼は手に、最高級の合成香料で整えたハーブティーを持っている。


「……マルクスか。計算がどうしても合わないんだ」


「分かっているさ。議会の連中が君の報告を黙殺したのは、単なる現実逃避だ。だが、私の部署からも正式な意見書として、資源配分の再考を議会に呼びかけている。今は来月の選挙のことで頭がいっぱいの議員たちも、ほとぼりが冷めれば、君の数字に耳を傾ける者が必ず現れるはずだ」


「あぁ、そうだな…」


選挙が終われば、本当に目を覚ましてくれればいいのだが…。

本作品は以下の作品の設定を引き継いでいます。

ストーリーの繋がりは無いので、本作品だけでお楽しみいただけます。



https://ncode.syosetu.com/n3938lu/

酸素はタダだと思ってた。2500年の未来で少女は深呼吸!

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