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第六話

 次にジェシーさんにお会いできたのは、父の誕生日を過ぎてからのことだった。せっかくあの日に距離を縮められたのに、わたしはそれからひどく緊張してしまって、手紙を書こうとすれば震えて文字が歪み、顔を合わせる約束を取り付ける勇気などなかなか持てなかったのだ。


 けれど幸い父は贈った懐中時計をずいぶん気に入ってくれて、毎朝ネクタイを締めながら胸元に丁寧に収め、やけに上機嫌で家を出ていく。

 それを見届けながら、わたしはようやく決心したのだ。「無事に喜んでもらえたので、お礼がしたい」という口実があれば、すこしは堂々としていられる気がした。お礼と言うのは立派な理由だもの──恋心を隠すには、いささか頼りない薄布ではあるけれど。


 待ち合わせは、クリームティーで評判のティールーム。白いテーブルクロスの上に磨かれたカップが整然と並び、窓辺のレースのカーテンが風に揺れるたび、鼓動まで一緒に揺れてしまう気がする。


 ドアについたベルが軽やかに鳴って、顔を上げた。彼が入ってきて、目が合った瞬間にわたしは慌てて姿勢を正した。


「お待たせしてしまいましたか?」


「まあ、とんでもございません。わたしも今来たところです」


 実際には、かなり前から座っていたけれど。そんな嘘をつく娘ではなかったはずなのに、恋というのは人をこんなにも簡単に詐欺師に仕立て上げてしまうらしい。


「いいお店ですね。思っていたより落ち着いています」


「クリームティーがね、この街で一番おいしいと評判ですの」


 口にした瞬間、自分で自分に呆れてしまう。食い意地が張っていると思われたかしら。もっと可憐で、控えめで、ロマンチックなことを言いたかったのに。たとえば──あなたとご一緒なら、どこだって世界でいちばん素敵な場所になりますわ、なんて。もちろん、そんな殊勝な台詞は口が裂けても出てこないけれど。


「では、ぜひそれを」


 クリームティーを二人分注文すると、銀のティーポットから立ちのぼる湯気が甘い香りをただよわせた。紅茶の色合いが琥珀のように光って見えて、恋をしているというのは、きっと世界の色彩を少しばかり都合よく変えてしまう魔法のようなものなのだろう。


「この間は、ほんとうにありがとうございました」


 紅茶をひとくち含んで、わたしはようやく切り出した。


「父があの時計をたいそう気に入っていて。あなたが相談に乗ってくださらなかったら、あれほど喜ばせてあげられなかったわ」


「お役に立てて何よりです。喜んでおられると聞けて、俺も嬉しいですよ」


 その端正な顔の線をみていると、言葉はふわふわと浮かび上がって消えてしまう。わたしの舌はまるで不器用な仕立屋のようで、考えていることと出来上がる言葉がいつも少しずつずれてしまうのだ。


「それに、あなたがお父上のことをとても大切に思っておいでだというのが、よく分かりました」


「……そんなふうに見えましたか?」


「はい。話しぶりから、はっきりと」


「……でしたら、少し安心しましたわ。わたしは、あまり真面目な娘には見られないようですから」


「そんなことはありませんよ。むしろ……」


 彼は言いかけて言葉を切り、ほんの少し目を伏せた。その沈黙が喉に小骨のように引っかかって、何を続けようとしたのか尋ねたくて仕方がなかったのに、臆病なわたしは代わりにクロテッドクリームをたっぷり塗ったスコーンを口に運んでしまった。


「むしろ、お父上にずいぶん可愛がられていらっしゃるんだろうな、と」


 わたしはきっと、とても間抜けな顔で彼を見つめていたことだろう。耳まで熱くなって、目を合わせ続ける勇気なんてどこかへ逃げてしまった。慌てて視線を落とし、気づけばお皿の上のスコーンに話しかけるみたいに呟いていた。


「あなたはわたしを、どう思っていらして?」


 あまりに突拍子もない言葉が自分の口から転がり出て、遅れて心臓が跳ねる。取り消したくてももう遅い。スコーンは何も答えないし、目の前では彼がカップを持つ手を止めた。


「えっ?」


 ああ、もう、どうしてこうなるの。止めなくちゃと思うのに、父がお見合い話なんていう不吉の塊を家へ持ち帰ったせいで、心の中にいた慎重さは全部どこかへ追い出されてしまった。


「あなたは、あなたは……」


 言いかけた途端に、喉が詰まる。けれど、ここで引き下がったら一生後悔するような気がした。わたしは勢いに任せて、テーブル越しに身を乗り出した。


「将来わたしを、奥様にしてくださる気がおありかしら」


「え!?」


 今まで聞いたことのないくらい裏返った声で、ジェシーさんが椅子から崩れ落ちそうになるのが見えた。周りの奥様方が一斉にこちらを見た気がして、わたしは慌てて背筋を伸ばし、スコーンの影に隠れたい気分になる。


「いや、ええと……」


 彼は珍しく言葉を失っている。指先が微かに震えて、カップをそっとソーサーに戻した。


「その、どうして急にそんな……」


「だって」


 もうこうなったら止まらない。胸の奥を掻き乱していた不安も心配も、何もかもまとめて口から飛び出していく。


「父が、お見合い話なんて持ってきたのよ。わたしは嫌だって言ったわ。だって、好きな人がいるもの」


 自分で口にして、さらに顔が熱くなる。なのに、なぜか涙まで滲んできて、わたしは慌ててまばたきをした。


「それで父に言われたの。本人に聞いてごらんって。もし断られたら、そのときは諦めなさいって……だから」


 だから、今聞くしかないのだ。わたしの未来が、このテーブルの上で小さく揺れるティーカップみたいに、いまにも傾きそうになっている。

 ジェシーさんはしばらく俯いて、それから顔を上げた。いつもの涼やかな瞳が、真剣な色を帯びてわたしを捉える。


「……正直に言います」


 逃げ出したくなる気持ちと、逃げてなるものかという意地が、同時にわたしの足首を掴んでいるみたいだった。ティールームのざわめきが急に遠くへ引いて、ティースプーンがソーサーに当たる細い音だけが、やけに鮮やかに耳に残る。


「驚いていますし、簡単に答えられることではありません。ですが」


 言葉が落ちるたびに、テーブルの上の影が揺れる。窓から射し込む薄曇りの光が、彼の横顔をきらきらと縁取っていた。


「あなたを、ただの得意先のお嬢様として見たことはありません。将来のことを考えられない相手でしたら、こうしてお会いし続けることも、休日に時間を使うこともしていません」


「……それって」


「妻にする気があるか、と聞かれたなら」


 世界が、ふいに色づいていく。ついさっきまで曇り硝子越しに見ていた景色が、急に澄みわたるようにくっきりとして、わたしは息をするのも忘れていた。


「あります。ただし、あなたが後悔しない形であれば」


 ティールームの時計が、ちいさく時を刻む音が聞こえた気がした。世界は相変わらず動いているのに、わたしの時間だけがそっと世界から降ろされて、動きを止めてしまったようだった。


「今すぐにと言える立場ではありません。あなたのご家族のことも、あなたの人生も、軽く扱うつもりはない」


 軽々しく慰めるのではなく、夢のように甘い嘘を並べるのでもなく、少し不器用で、誠実で、彼らしい。今すぐ幸せを約束されるよりも、その気持ちをまっすぐ向けてもらえたことが、何より嬉しかった。


「……それを聞けただけで、わたしは充分ですわ」


 嬉しいのに涙が出そうで、けれど泣いたらきっとスコーンが塩辛くなってしまう。そんな取り留めのないことまで頭をよぎる。というか、どうしてこんな大事な話を、よりによってスコーンの前でしているの、わたし。


「ねえ、ジェシーさん」


「はい」


「いつか……本当に、いつかでいいの。もしその日が来たら」


 わたしはテーブルの上のレース模様を見つめながら、小さくつぶやいた。よくばりで、夢見がちなわたしの、どうしようもなく甘い願い。


「わたしのウェディングドレスを、作ってくださる?」


 それは、恋心にリボンを結んで差し出すような言葉だった。自分で言っておきながら、頬が熱くてたまらない。


「……それは」


 その瞬間、時間がふたたび立ち止まる。ティールームの音も、人々の話し声も、街の雑踏さえ遠くへ沈んで、わたしたちだけが取り残された。


「一生に一度の仕事ですね」


 その微笑みにつられて、未来へ伸びていく長い道の先に、彼と並んで立つ自分の姿を、つい思い描いてしまった。

 もしもほんとうにその日が訪れたら、わたし、ちゃんと歩けるかしら。ドレスの裾を踏んで転んでしまいそうで、少し心配だわ。





最後まで読んでくださってありがとうございました。


このあとメイベルとジェシーは無事結婚し三人の子どもに恵まれます。ちなみに兄は相変わらず恩着せがましく「自分がキューピッドだ」と主張するので、メイベルに嫌がられ兄妹喧嘩が絶えません。

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