第五話
その日、家へ帰るわたしの足取りは、たぶんシャボン玉よりも軽かったと思う。石畳の上を踏む靴音まで弾んでいて、通りすがりの鳩にまで「ごきげんよう」と挨拶してしまいそうだった。
だって今日は一日じゅう、ジェシーさんと一緒だったのだ。贈り物を選ぶという立派な口実のもと、店を巡ってはあれこれ相談し、たまにわたしが浮かれすぎて人波に紛れかけると、低い声で名前を呼ばれる。
「ただいま戻りました!」
包みを抱えた腕をぎゅっと胸に寄せ、わたしは玄関扉を開ける。自分でも驚くほど快活な声が出た。すると居間のほうから、新聞の擦れる音とともに父の声が返ってくる。
「おかえり、メイベル!」
妙に晴れやかな声音だった。何かいいことでもあったのだろうか。わたしが居間へ入ると、父は椅子から立ち上がり、新聞を脇に置いて両手を広げんばかりの勢いで迎えてくれた。
「まあ、どうしたのお父さま。今日はずいぶんとご機嫌なのね」
「いやあ、いい知らせを持ってきたんだよ、メル」
「……その呼び方のときは、だいたいろくでもない知らせだわ」
来た。父はいい知らせと言い張るけれど、娘にとっては必ずしもそうとは限らない。わたしが慎重な声を出しても、父はまったく意に介さない。むしろ上機嫌に頬を緩めて続けた。
「実はね、同じ医師会に若い外科医がいてね。真面目で将来有望、なかなかの好青年で──どうだろう、一度会ってみてくれないか」
「まあ」
口では上品に驚いてみせたけれど、心の中では盛大に椅子から転げ落ちていた。今日のこの幸せいっぱいの心に、どうしてそんな爆弾を投げ込むのだろう。
「嫌よ」
ほとんど反射で言っていた。包みを抱えていなければ、きっと両手の拳を握りしめていたと思う。
「え?」
父は眼鏡越しにぱちりと瞬いた。まさか即答で断られるとは思っていなかったのだろう。
「嫌なの。だって、好きな人がいるもの」
ついに言ってしまった。言ってはいけない宝物の在りかを、不意に暴いてしまったみたいだった。ひそめていたものが、ようやく出口を見つけたみたいに溢れ出す。
父はしばらく黙り込み、眼鏡の位置を指先で直しただけで、それ以上何も言わなかった。怒られる覚悟もしていたのに、返ってきたのは少しだけ掠れた声だった。
「……本気かい?」
「ええ、本気よ。あの人とじゃなきゃ、結婚だって一生しないわ」
宣言してしまってから、ああもう、と思う。口は災いの元と昔から言われているけれど、わたしの口はことさら暴れ馬なのかもしれない。
父は腕を組み、難しい顔で考え込んだ。居間の振り子時計が規則正しく時を刻む音ばかりが、やけに大きく響く。けれどやがて、観念したように肩の力を抜いた。
「では条件だ」
「条件?」
前のめりになるわたしに、父はわざとらしく咳払いをひとつ。
「本人に聞きなさい。それで断られたなら、そのときは諦めること」
「……ほんとうに? 反対しないの?」
半分泣き声みたいな問いかけになってしまった。すると父は眉を下げて、困ったように笑った。
「そりゃあ父親としては複雑だとも。けれど、娘に好きな人がいるというのに、頭ごなしに押さえつけるほど頑固ではないつもりだよ」
嬉しさが足下から一気に湧き上がってきて、わたしは椅子を蹴飛ばしてしまわないよう気をつけながら立ち上がり、父のそばまで駆け寄った。
「ありがとう、お父さま!」
「おや。どうしたんだい、急に」
「大好きよ」
勢い余って宣言してしまったけれど、もう構わない。ついでに、さっきから抱えていた包みを、ぽん、と押し付ける。
「それと、すこし早いけれど、お誕生日おめでとう!」
「おや、これは……」
「開けるのはあとにしてね! 気分だけ、先によ」
わたしはくるりと身を翻す。これ以上ここにいたら顔が緩みっぱなしで戻らなくなりそう。
「それじゃあ、おやすみなさい!」
「待ちなさい、夕食は──」
「あとでちゃんと食べるわ!」
階段を駆け上がるわたしのスカートが、まるで自分から跳ねているみたいに軽い。部屋へ飛び込むように入ると、ベッドの上へぱたりと倒れ込んだ。
どうしよう。頬が緩んでおさまらない。枕に顔を押し付けて誤魔化すけれど、心臓はまだ落ち着く気配がない。
「お嬢様? お戻りですか」
ケイティの声だ。あわてて上体を起こすより早く、扉が少しだけ開き、彼女が顔を覗かせる。いつもながら整った身なりで、けれどどこか呆れ顔なのが可笑しい。
「外着のまま寝ないでくださいって、いつも申し上げてますよね」
「えっと、つい。ごめんなさい」
言い訳にもならない言い訳をしながら笑ってみせると、ケイティは小さくため息をついて部屋に入ってきた。
「はいはい、お立ちくださいませ。シワになりますし、埃もつきますから」
すっかり諦め半分の口調で言いながらも、手つきは優しい。コートのボタンを外し、リボンを解き、ひとつひとつ丁寧に整えていく。母に叱られる前に、まずケイティに見つかってよかったのかもしれない。
やがてわたしは寝間着へ着替えさせられ、いつものようにドレッサーの椅子へ座らされる。鏡に映る自分は、まだ浮かれたまま頬を赤らめていて、みっともないほど幸福そうだ。背後に立つケイティが、丁寧に髪を梳いてくれる。木製のブラシが髪に通される、さらさらとやわらかな音が部屋に広がっていく。
「今夜は、とても嬉しそうでいらっしゃいますね」
「……そんなに顔に出ている?」
「はい。そもそも隠す気がないのでは、と思うくらいに」
ケイティはそう言って、鏡越しにそっと目を合わせてきた。からかうでも詮索するでもなく、ただ、柔らかく。
「変かしら」
「いいえ。とても──幸せそうでいらっしゃいます」
それからケイティは何も言わず、ただ髪を梳き続けていた。梳かれるたび、心の絡まりがほどけていくみたいだった。
しばらくして、彼女は少し不思議なほど唐突に口を開いた。
「……お嬢様。私の両親のこと、お話ししたことがありましたでしょうか」
「いいえ、たぶん」
わたしが首を傾げると、ケイティは梳く手を止めずに、穏やかな声で続けた。
「父は教師で、母は町の療養所で働いております。朝から晩まで働きづめですが、家ではいつも笑っておりました。きょうだいも多くて、にぎやかで……狭い家でしたけれど、私はあの家が大好きでした」
その表情は、鏡の中でほんの少し照れているように見えた。
「お嬢様の暮らしのように、豪華な食卓も、絹のドレスもありませんでしたけれど。私は父と母を誇りに思っています」
最後の一言は、髪の先に小さなリボンを結びながら、そっと添えられる。
「ですから、お嬢様」
鏡越しに目が合うと、彼女は笑った。控えめで、けれど頼もしい笑みだった。
「いろいろと、お考えになることもあるのでしょうけれど。……大切なのは、どんなお家柄か、ということだけではありません。どんなふうに誰を想い、どう生きておられるかだと。私は、そう思っております」
言葉はそれきりで、またブラシが髪の上を滑り始める。窓の外では夜風が木の枝を揺らし、遠くで馬車の音が小さく響く。彼女の言わんとしていることはすぐに伝わった。わたしとジェシーさんのあいだには、目には見えなくても確かに立ちはだかっている壁がある。
「……ケイティ」
「はい?」
「ありがとう。なんだか、すごく心強いわ」
けれど灯った火は、息をひとつ吐いたくらいでは消えてくれない。まぶたの裏に浮かぶのは、結局いつも同じ人の横顔ばかりなのだ。
……ああ、でも、どうやって伝えたらいいのかしら。
いざ「本人に聞きなさい」と言われてしまうと、急に言葉がどこかへ逃げていってしまったみたい。だってあの横顔と眼差しを思い浮かべるだけで、息が詰まりそうになるのだもの。




