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第四話

 家に戻って両親に事情を話すと、思いがけず大きな反応が返ってきた。「それはきちんとお礼をなさい」と母は言い、父も「恩をそのままにするのは良くない」と頷いた。

 両親はあれこれ迷った末に上等なお菓子を包ませてくれて、翌日にはわたしの手にはきれいなリボンの結ばれた焼き菓子の箱が用意されていた。

 そんなわけで、ケイティに付き添ってもらって、わたしはふたたび仕立て屋の扉を押した。


「ディケンズさんにお目通り願えますか?」


 そう言うと、応対してくれた別のテーラーがにこやかに頷いた。


「ただいま休憩中ですが、お呼びして参りましょう」


 休憩中に呼んでしまって大丈夫かしらと不安になる間もなく、奥のドアが開いてあの端正な立ち姿が現れる。わたしの心臓は、勝手に忙しくなる。


「あの、昨日はありがとうございました。ささやかだけれど、そのお礼をお持ちしたの」


 そう言って箱を差し出すと、彼は一瞬ためらってから丁寧に受け取ってくれた。


「お気遣いなく、と申し上げるべきなのでしょうが……ありがたく頂戴します」


 微笑んだその表情を見てしまったら、もうタイミングがよかったのか悪かったのかなんてどうでもよくなる。店の奥ではアイロンの蒸気の音がかすかに響いて、ケイティは入口の辺りでわたしの背中を押すようにして待ってくれている。


「それで……あの。実はもうひとつお願いがあるの。もしご迷惑でなければ、聞いてくださる?」


「もちろんです。どういったご用件でしょう」


 ほんとうは、ここからが本題。やっぱり彼に会うには、お仕事をお願いするのがいちばん自然だと思ったのだ。たとえ、そこに少しばかりの下心が混じっていたとしても。理由に使ってしまってごめんなさい、とお父さまに心の中でこっそり頭を下げながら。


「父に贈り物をしたいの。いつも家族のために働いてくれているから、なにか喜んでもらえるものを……小物などがよろしいかと思うのですけれど」


「お父上に?」


「ええ、もうすぐ誕生日なんです。兄に相談しても、あの人はひどく可哀想なくらいセンスがないし、本当に頼りにならなくて。だから……あなたに見繕っていただけたら、と思って」


 最後のひと言を口にしてしまってから、あまりに率直すぎたかもしれない、と一瞬頬が熱くなった。けれど彼は冗談めかして受け流すでもなく、真面目な顔でしばらく考え込む。


「小物ですか……」


 低く繰り返してから、申し訳なさそうに眉を寄せた。


「正直に申し上げると、うちは小物類があまり多くないんです。タイやカフスボタンはございますが、専門店に比べるとどうしても……」


「まあ……そうなの?」


 わたしはすっかり準備万端のつもりでここへ来ていたくせに、肝心なことに気づいていなかった。せっかく仕事という名の立派な理由を見つけたのに、これでは空振りではないかしら。

 困らせてしまったかもと俯きかけたとき、目の前でそっと息を呑む気配がした。


「……もしよろしければ、別の店にご一緒しましょうか」


「えっ?」


「扱いの良い紳士用品の店をいくつか存じ上げています。休日でしたら、少し足を延ばすこともできますし」


「休日に? お仕事じゃないのに、時間を割いてくださるの?」


「はい。お邪魔でなければ」


「……お邪魔なんて、そんなことあるはずないわ!」


 勢いで口にすると、彼は少しだけ目を丸くして、それから控えめに笑った。たぶん、わたしの剣幕がおかしかっただけだ。嬉しそうに見えたなんて、きっと気のせい。それでも、休日に二人きりで店を巡るだなんて。……それを人は、なんて呼ぶのかしら。



 ◆



 約束の日が近づくほどに、胸の奥では小鳥がそわそわと羽ばたいて、落ち着きなさいと言い聞かせてもまるで聞く耳を持ってくれなかった。

 当日の朝、鏡の前でリボンの結び目を三度も結び直した。ケイティに「今日は随分と熱心でいらっしゃいますね」と微笑まれて誤魔化すように笑ってみせたけれど、本当の理由なんて言えるはずがない。


 約束の時刻より少し早く着いたつもりだったのに、角を曲がった瞬間、彼の姿が目に入った。いつもの仕立て屋の作業服ではなくて、穏やかな色調のコートを纏って、細い指先で手袋の縁を整えていた。


「お待たせしてしまったかしら、ディケンズさ──」


 言い終える前に、はっとして言葉を飲み込む。……今日のわたしたちはテーラーとお客ではないのだから、もっと特別な呼び方をしてもいいかしら。


「……今日は、お仕事ではないのよね」


「はい」


「もしよろしければ……ジェシーさん、とお呼びしても?」


  一瞬、風の音だけがあたりを過ぎていったような気がした。視線だけで伺うと、彼は一度だけ瞬きをしてから、穏やかな声で答えてくれる。


「構いませんよ」


「ありがとう。嬉しいわ、とっても。なんだか、今日はその方が自然な気がするし」


 名前を呼んでいい距離。呼ぶたびに近づいてしまいそうな距離。心臓がうるさくて押さえてしまいたい気分になる。彼は小さく笑って、通りの先を示した。


「では、参りましょうか。紳士用品の店をいくつか回ってみましょう。お父上に相応しいものが見つかると良いのですが」


「お願いね、ジェシーさん。わたし一人では、とても選びきれないもの」


「責任重大ですね」


 名前を呼ぶたびに、ぱっと花が咲くような心地がする。わたしたちは並んで歩き出し、石畳の上で靴音が自然と揃った。


「昨日ね、母に聞かれたの。“明日はどこに行くの?”って」


「何とお答えに?」


「“お世話になっている方と、お買い物に”って。嘘は言っていないでしょう?」


「ええ、確かに」


「でも、もし“どんな方なの?”なんて聞かれていたら困ったかも。だって、わたし……なんて説明したらいいのかしら」


「仕立て屋の人間、ではいけませんか?」


「それだけじゃ足りない気がするの。だって──」


 言いかけて、少しだけ言葉を飲み込んだ。風がスカートの裾を揺らす。わたしは微笑んで、ごく無難に続ける。


「だって、とても親切にしてくださる方だから」


 横顔を盗み見ると、彼は前を向いたまま、ほんのわずかに頬を緩めたようだった。


「それは、光栄ですね」


 わたしたちはときどき足を止め、ショーウィンドウのガラス越しに品物を覗き込み、あれこれ相談し合った。彼は真剣に父の好みを聞き、布地の質や細工の具合を一つ一つ指先で確かめる。

 わたしは父に贈る小物を選ぶという大義名分を掲げながら、心の中は落ち着きなく跳ね回っていた。そんなふうに浮かれていたからだと思う。人の流れがふいに濃くなり、肩が何度も触れ合うほど身動きが取りづらくなったとき、わたしはよそ見をした拍子に、彼の気配を見失いかけた。


「メイベル!」


 前へ押し出されるようにして半歩進んだ、その瞬間だった。低い声がすぐ背中の後ろから呼び止めた。名前を呼ばれた鼓動が、全身でどくんと跳ねる。


「……失礼、メイベル嬢」


 咄嗟に取り繕ったような声色に、振り返ったわたしは笑ってしまった。


「今!」


「はい」


「呼んだでしょう? 名前」


 彼は一瞬、視線を逸らした。けれどすぐに観念したみたいに、静かに言葉を続ける。


「……つい。今日は公の場ではありませんから」


 周りのざわめきの中で、彼の声だけが澄んで耳へ届いた。くすぐったくなって、緩んだ頬を隠すのに苦労する。そしてもう逃げ道はないと悟ったように、彼はわたしを優しく呼ぶ。


「……メイベル」


「はい、なんでしょう。ジェシーさん」


 名前を呼ばれるだけで世界の色が少し変わるなんて、そんなこと知らなかった。それからまた贈り物探しを再開したけれど、わたしは肝心の品物よりも、隣を歩く彼の横顔ばかりを追っていた。

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