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第三話

 仕立てがいよいよ完成に近づいているのだと知らされたのは、ある晩の夕食の席のことだった。焼き上がったステーキの香りと、窓辺にかかるカーテン越しの夕暮れの中で、兄はあくまで何でもないことのような調子で「今度の週末に受け取りに行くが、ついてくるか?」と尋ねた。


 わたしは平静をよそおったつもりだった。けれど手にしたフォークが途端に重くなって、指先は自分のものではないみたいにぎこちなく震えてしまう。

 兄はそんなことにはまるで気づかずに、ただ「どうする?」とだけ重ねる。わたしは一瞬だけ兄の顔を見て、それからすぐに目を逸らして、こくりと頷いた。


 週末は驚くほどあっさりやって来た。馬車の窓の外を街並みが過ぎていく。いつもと同じ風景のはずなのに、今日はすべてが別れの支度をしているように見える。

 仕立て屋はやっぱり変わらない佇まいだった。磨かれた真鍮の取っ手、少し古びた木の床、窓辺の植物。落ち着かないわたしの心だけが、ひとりきりで騒いでいる。


 そして彼も、変わらない姿でそこにいた。髪がやわらかく額にかかり、針山を手にトルソーへ向かう横顔は真剣だった。鏡の前で仕上がりを確かめ、兄と言葉を交わしている。

 兄の体にぴたりの馴染んだ外套は、彼の仕事ぶりを物語っていた。受け通りは滞りなく終わって、扉へ向かって歩き出す。


 ──これで、終わり。


 ふと、名残惜しさという名の細い糸に惹かれたように、わたしは振り返った。ほんの一瞬だけ、最後に見つめておきたかったのだ。彼の姿を。彼の表情を。彼という人の気配のすべてを。


 すると彼は、あの涼やかな瞳でわたしを見返し、少し微笑んで棚から包みを取り出した。


「メイベル嬢、よろしければこれを」


 差し出されたのは、あのチョコレート。わたしがここに来るたび、ありがたく頬張っていた甘い小さな宝石。指先が自然と伸びてしまう。


「喜んで召し上がってくださるので、あれから少し多めに用意していたんです。ですが、もうおいでになる機会はないかもしれないので」


 ……わたしのために、用意してくれていたの?


 喉が熱くなって、まともにお礼の言葉が出てこなくて、わたしは逃げ場を与えられない子鹿のように震えて「ありがとう」と呟くのが精一杯だった。

 彼は扉を押し開け、「お気をつけて」と最後に微笑んでくれる。端正な顔立ちがやわらぐ。よく晴れた日の窓辺みたいに。

 やっぱり、何度でも会いたい。もっと話したいし、名前を呼ばれたい。理由なんてどうでもいい。ただ、わたしはこの人が好きなのだ。



 ◆

 


 それは本当に、ちょっとした油断だった。メイドのケイティと外へ出ていた日のこと、一緒にウィンドウを眺めていたら、飾り枠の金具が裾に触れたらしく、布が裂ける小さな音がした。


「あ……」


 かすかに響いた音と、いやな静けさ。わたしとケイティは顔を見合わせ、それから人通りの少ない並木道のベンチへ移動した。歩くたびに裂け目が広がってしまいそうで、落ち着かない。


「お嬢様、針と糸は持っておりますが……」


「でも、ここで縫うなんて」


 外でスカートを広げるなんてはしたない。とはいえ、このまま歩くこともできない。どうしましょう、と視線を落としていると──。


「……メイベル嬢?」


 ほんの一瞬のためらいを挟んだような響きで、静かな声がわたしを呼んだ。振り向くと、そこにいたのはディケンズさんだった。まるで、物語の登場人物みたいなタイミングで。


「……失礼でしたら、このまま引き返しますが」


「いいえ、失礼なんかじゃないわ!」


 会えたのが嬉しくて、でもこんな状況が恥ずかしくて、声が思っていたよりずっと大きく出てしまった。ケイティが横でびくっと肩を揺らしたのがわかる。

 ディケンズさんも少し驚いたような表情をして、それでもすぐにいつも通りの彼になって歩み寄ってくれる。


「こんなところで、どうされましたか」


 わたしはスカートの裾をそっとつまむ。もう逃げられない。


「実は引っかけてしまって。裂けてしまったの。外で直すのもみっともないですし、かといってこのまま歩くのも……」


 彼の視線が裂け目に落ちる。無遠慮ではない、やさしい確かめ方だった。


「お怪我はありませんか?」


「ええ、どこも……」


「それなら安心しました。お困りでしょう。よろしければ、店までいらしてください。すぐにお直しできますよ」


「そんな、ご迷惑だわ」


「いえ。お役に立てるなら、喜んで」


 どうしよう。こんなときに、心臓が礼儀を忘れて騒ぎ出す。ケイティの方を見ると、彼女もこくんと頷いた。わたしの決心なんて簡単で、すぐに立ち上がっていた。

 店に入ると、ディケンズさんは慣れた手つきで小さなソーイングセットを取り出し、椅子をすすめてくれた。


「ありがとうございます。もちろん、お支払いは……」


「いえ、これくらいはお任せください」


「でも」


「道端で困っていた女性からお代はいただきません」


 そう言って彼はわたしの裾を広げ、器用な指先で裂け目を拾い上げた。なんて紳士的なんだろう。だけど仕立ては彼のお仕事で、これはまぎれもなくその延長で、だからわたしは少し眉を寄せてしまう。

 どうしたらいいかわからなくなりながらも、頭の片隅では別のこともひっかかっている。道端で困っていた女性。……こうして、他の女性も助けているの? こんな時に何を考えているのかしらと思うのに、思ってしまったものは仕方ない。


「あの」


「はい」


「よく、こうして裾を直して差し上げるの?」


 できるだけ何気ないふうを装ってみたけれど、声が少し上ずってしまった気がする。彼は小さく息を笑いに変えて、顔を上げた。


「いいえ、実は初めてです」


「初めて?」


「ええ。……ですから、手際が悪かったらすみません」


 わたしは途端に視線を落として、裾の布目をじっと見つめた。ほんの少し震えている指先に、気づかれないといいのだけど。


「……そんなふうに言われたら、余計にお代を払いたくなってしまうわ」


 冗談みたいに言ってみたけれど、声が少し震えていて、わたし自身が誤魔化せていない。


「では今日のところは、俺の気まぐれということにしておいてください」


「気まぐれ」


 それって、どういう意味なの? 聞き返したかったのに、頬が熱くなってしまって、わたしは黙ったまま俯いてしまう。視線を上げられなくなってしまったわたしの前で、彼は出来上がった裾をそっと整えた。


「できました。これで歩いても広がらないはずです」


「まあ、すごいわ。魔法みたいね……」


「でも無理に出歩かないでくださいね。今日は」


「はい……」


 ふと、机の上に置かれた白い陶器に目が行く。包み紙の銀色が、思い出みたいにきらきら輝く。


「よろしければどうぞ」


「いいの?」


「お好きでしょう」


 わたしは包みを受け取りながら、少し勇気を出して尋ねた。


「どうして……そんなに、親切にしてくださるの?」


「……理由が必要ですか?」


「えっと、だって」


 だって、わたしはあなたが好きだから。こんなふうに優しくされると、期待してしまうの。


「あなたを放っておいたら、気になって仕事が手につかなくなりそうだと思っただけです」


 世界の形が、すこしだけ変わってしまった気がした。ケイティが外で待ってくれているのに、時間なんて進まなければいいのに、なんて思ってしまう。


「どうもありがとう、ディケンズさん」


「こちらこそ。お役に立てて光栄です、メイベル嬢」


 名前を呼ばれただけで、くらりとしてしまいそう。こんな偶然をくれた午後に、甘い祈りを捧げたくなるくらい。わたし、完全にときめいている。こんな気持ちになるなんて、朝にはきっと想像もできなかった。

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