第二話
お目当てのティールームに腰を落ち着けても、わたしはなんだか上の空だった。本当なら、ずっと楽しみにしていたクリームティーに心を弾ませるはずだったのに。
運ばれてきたスコーンは焼き立てで金色の表面がひび割れているし、クロテッドクリームは雲のようにふわふわしていて、苺のジャムは深紅の宝石のように輝いている。でもどうしてか落ち着かない影が居座って、味よりも気持ちのほうが忙しくなってしまった。
ジェシー・ディケンズ。あのネームプレートに刻まれていた名前を、何度も心の中で繰り返してしまう。文字の並びがすてきで、物語の登場人物のようで、口に出したら響きが綺麗な音を持って転がりそう。
チョコレートを差し出してくれたときの、あの控えめで、でもちゃんと温度のある微笑みまで鮮やかに思い出される。どうしてこんなに気になるのか自分でもわからなくて、スコーンにナイフを入れながら、そわそわしてばかりいた。
「……メイベル、スコーンを睨んでどうするつもりだ。まさかとは思うが、断食の決意でも固めたのか?」
「え?」
はっとして顔を上げると、兄は呆れたような、なんとも言えない怪訝そうな表情になっていた。
「もう三度目だ。ナイフを置いて、ため息をついて、また持つ。さっきから同じことの繰り返しだぞ」
「た、ため息なんてついていないもの」
「ついていた。実に物憂げで長いやつを」
そう言って兄はわざとらしく再現してみせる。少し低い声で、わざと深いため息を吐き、肩を落とす。安っぽい芝居を見せられているみたいで、むっとしてジャムをたっぷり塗ったスコーンをかじる。
美味しいはずなのに味はやっぱり遠くて、ほとんど夢のなかで食べているような心地だった。
あと何度、あの仕立て屋へ行けるのだろう。
そんなことを考え出したら、落ち着きが完全にどこかへ行ってしまった。兄の服が仕上がるまでなんてせいぜいひと月、通うのも数回きり。
やがて用事が済めば、テーブルの向こう側のあの人とももう顔を合わせなくなる。そんな当たり前のことがどうしようもなく惜しく思えて、紅茶の表面に揺れる灯りを見つめながらこっそり小さな焦りを隠した。
お兄さまの用事についていくなんて、これきりだと思っていた。仕立ての付き添いなんて、世界ごとあくびが出そうなくらい退屈だったはずなのに。
◆
翌週、家を出ようとした兄の背中に「わたしも連れていって」と勢いよく声をかけた。理由を聞かれたときとっさに口をついて出たのは、「またあのティールームのクリームティーをいただきたいの」という、我ながら取ってつけたような言い訳だったけれど、兄は「ああ、あれはたしかに美味かったな」と能天気に笑うばかりだった。
いつも腹が立つくらい無神経なのだから、どうせ本心なんて気づきもしないでしょう。今日ばかりはありがたいことね、と帽子のつばの影でそんなことを噛みしめながら、馬車に揺られてあの仕立て屋へ向かった。
店のベルが小さく鳴り、外の喧騒と切り離された空気が迎えてくれる。そして、そこに──彼はいた。まるで前回の記憶をそのまま写したみたいにそのまま、きちんとした身なりで生地の束を整えながら、緩やかな所作で振り向く。
「お待ちしておりました、ブロンテ様。……メイベル嬢も、お変わりないようで何よりです」
名前。覚えていてくれた。
わたしは微笑もうとして、少しだけ照れてしまう。上手く笑えたかどうかは分からないけれど、「ごきげんよう」と小さく返す声が、自分のものとは思えないほどおとなしく耳に届いた。
兄はもう慣れた様子でジャケットを預け、仮縫いの進み具合を確かめている。彼──ディケンズさんは、生地の端をまっすぐに整えながら、丁寧に指先を滑らせていく。その動きがあまりにもなめらかで、見ていると時間が糸になって彼の指に巻き取られていくみたいだった。
兄と彼は、長さを何分の一インチ変えるだの、後ろのラインをもう少し端正に見せたいだのと、眠気を誘う相談の海へと漕ぎ出している。以前のわたしなら五秒で聞くのをやめていたけれど、今日のわたしは違った。
彼の口からこぼれる低い声や、言葉に合わせてわずかに動く唇、考え込むときの小さな間合いを辿る。帽子の影にやや顔を隠しながら、見ていないふりをして、でもこっそりとずっと目で追ってしまう。
きっと気づかれていない。けれどもし誰かに悟られたなら、ティーポットの中へ飛び込んで隠れてしまいたいくらい恥ずかしいに違いない。
兄が鏡の前で袖を引っ張りながら言う。
「もう少し、ここを──」
「承知いたしました。では、縫い目を半分だけ下げてみましょう。肩の傾斜が自然に見えます」
声が交わり、耳をすり抜けていく。意味は半分も拾っていないのになぜだか心地よい。今日のわたしは、最初から最後まで、少しも退屈しなかった。
でも、家に帰って冷静になってみれば問題は山ほどあった。兄の外套は着々と形になりつつあって、針目のひとつひとつが完成という名の終点へ向かって並んでいる。彼は紳士服のテーラーで、仕立てが終わってしまえば、わたしがお店に足を運ぶ理由はほとんど、いいえ、きっと一つもなくなる。会いたい気持ちなら、両手いっぱいに抱えてもまだこぼれるほどあるのに。
二度目の仮縫いと細かな調整の日、店の扉をくぐった瞬間に彼の横顔が目に入る。伏せられた目元はやはり涼やかで、横顔の線も凛としていて、けれど近寄りがたいほど完璧というわけでもない。その調和が不思議で、視線が離れなくなる。
「長時間立たれるお仕事ですから、背中の余裕を少し取っておきますね」
「助かります。診療が立て込むと、どうしても動き回るもので」
どうにかして、もう少し彼と話がしたい。ただそれだけの理由で、壁にずらりと掛けられた布地を見上げながら、勇気を振り絞る。
「あの、ディケンズさん」
「はい」
「お伺いしてもよろしい?」
「どうぞ」
許されたことが妙にくすぐったくて、言葉がもだもだと詰まる。それでも、えいっと踏み出す気持ちで尋ねた。
「どの生地も同じ色に見えますけれど、何か種類があるんですの?」
「織りの違いですね」
「織り……」
「こちらは綾織りです。少し重さがありますが、風を通しません。そちらにあるのが平織りです。軽くて傷みにくい」
わたしが首をかしげると、彼は布を一枚手に取って見せてくれた。説明はほとんど理解できていないくせに、わたしは真面目な顔をして何度も頷く。よくわからないけれど、彼が教えてくれることだから、大事に覚えておきたい。
「用途が違えば、選ぶ布も変わります」
「……そういうものなのね」
暮らしの形や歩く速さや、背負っているものの大きさで生地も変わる。そう考えると、いま目にしている地味な色たちも、少しだけ見え方が変わる気がした。
帰り際、兄と共に店の扉へ向かいかけて、わたしはそっと振り返る。
「あの……お仕事中なのに質問してしまって、迷惑でなかったかしら」
「いいえ。興味を持ってくださるのは嬉しいです」
「では、また教えてくださる?」
「はい。いつでも」
外に出ると空は少し曇っていて、通りには冷たい風が吹いていたのに、わたしの歩く足取りはやけに軽かった。そのせいで仕立て屋に行くために用意した建前なんて忘れてしまっていて、ティールームの看板をまるで存在しないものであるかのように素通りした。
兄に「おい、どこへ行くつもりだ」と肩を掴まれ、遅れて思い出したけれど、味よりも別の考えのほうがはっきりしていて、クリームティーはやっぱり夢の中で食べているみたいな味がした。




