第一話
「つまらないわ。男の人の服なんて、みんな同じじゃないの」
座り心地のいい革張りの椅子に沈みながら、わたしはあたりを見回した。壁一面に掛けられた布地は見事に紺や茶に灰色ばかりで、どれもこれも「まじめです」と自己主張しているような顔つきをしている。
華やかな赤も、涼やかな水色も、春の花弁みたいなレースも、ここにはひとかけらもない。まるで曇り空を畳んで束ねたみたいな布を、どうして男の人たちは嬉しそうに身にまとうのかしら。
「メイベル」
生地見本を眺めていた兄が、低く名前を呼んでからわたしの方を見た。
「今のは失礼だ。職人の前で言う台詞じゃない」
「だって、本当のことですもの」
「お前がそう思っても、口に出すかどうかは別の話だろう」
兄は声を荒らげることなく、けれど視線だけはきっぱりとしている。たしかにもっともだけれど、納得できるかどうかも別だ。
「でも、お兄さまの新しい上着だって、今着ているのと大して変わらないじゃありませんか」
「だからこそだ。違いが分かる人間が作るから意味がある」
「違いが分かる人、ねえ……」
「いいから少しのあいだ大人しくしていなさい。すぐ終わる」
わたしは唇をとがらせて、ふたたび布地の列を眺める。反省していないわけではないけれど、悪いとも思わない。
兄の外套を新しく誂えるなどというどう考えても退屈な用事のために、朝から馬車に揺られて仕立て屋へ同行する羽目になったのは、ひとえにクリームティーのためだった。
ここからそれほど遠くない場所に、とても評判のよいティールームがあると友人のエイミーが目を輝かせて教えてくれたのだ。そこのスコーンは外側が少しだけ香ばしくて、中はふんわり温かく、クロテッドクリームとジャムをのせれば夢心地なのだとか。
それを聞いて以来わたしの想像の中では、幾つもの白い陶器の皿に焼き立てのスコーンが並び、銀のティーポットから湯気が立ちのぼり続けている。
けれど父は相変わらず心配性で、わたしがひとりで街に出歩くなどとんでもないと言う。そこで兄が「仕立て屋までついて来るのなら、帰りに寄ってやってもいい」と、いかにも恩着せがましい口ぶりで言ったのだ。
わたしはもちろんすぐにうなずいた。スコーンのためなら、退屈くらい我慢してみせるわ、と。
なのにいざ店に来てみれば、退屈は想像以上に手強い。時計の針はなかなか動いてくれず、店の奥からは生地の擦れる音と低い話し声だけが、延々と繰り返されている。
「お待たせいたしました。こちらが先ほど仰っていた生地です」
ため息をついて視線を窓の外へ逃がすと、奥から靴音が近づいてきた。木の床に馴染んで、はっきりしているのに主張めいていない。不思議な静けさを連れて、声がすぐそばで止まった。
「ああ、これですね。思っていたより落ち着いた色だ」
「落ち着きはありますが、重くは見えません。経糸に明るい糸が混ざっていますので、動くと陰影が出ます」
「なるほど。では、これでお願いしよう」
兄が頷くのを横目で見ながら、わたしは心の中でそっと舌を出す。紺の布なんて、どれも同じでしょうに。ピンクなら、可愛いのも大人っぽいのもたくさんあるのに。
「それから、前回より丈を少々長くしてもらえますか。朝夕の往診は冷えるんだ」
「でしたら裾を三インチほど下げましょう。動いた際の線も、そちらの方が綺麗に出ます」
「任せるよ」
会話は必要最小限。にもかかわらず、テーラーの声は波立たない水面のようで、どこか耳に心地よい。わたしはつい、視線を上げた。
端正な人だった。伏せがちな目元は涼しくて、輪郭の整った横顔は無駄を持たない彫刻みたいだった。彼は生地を丁寧に広げ、布を返しては指先で確かめ、胸ポケットから小さな帳面を取り出して、さらさらと何かを書きつける。その指が細く長く、爪の先まで整っているのが目に入る。
──なにを見つめているの、わたし。
慌てて窓の外に目を向けたけれど、しばらくするとまた視線が戻ってしまう。きっと退屈のせいだわ、と自分に言い訳をしながら、わたしは椅子の上で足首をそっと組み替えた。
「では、採寸は奥の部屋でさせていただきます。こちらへどうぞ」
テーラーが丁寧に頭を下げ、兄を店の奥へと案内した。どうやら採寸はまた別の職人が担当するらしく、入れ替わりに別の男性が現れては、兄とともに姿を消していく。
そして、気がつけば──わたしは店の片隅で、テーラーとほとんど二人きりになっていた。彼は帳面を閉じ、今度は布見本の束を整えている。わたしに気を遣わせまいとしているのか、声をかけてくるでもなく、黙々と手を動かしている。
わたしは辺りを見回した。逃げるみたいに視線をさ迷わせて、それから、何気ないふりをして、もう一度だけあの人を見たのだ。
その瞬間に、きれいに目が合ってしまった。
見てはいけないものを覗いているところを見つかったみたいで、針の先で触れられたように、呼吸が止まる。視線を逸らすのも失礼かしら、でも微笑むほどの度胸もない。
「……お嬢様」
彼が口を開いた。わずかに低く、よく磨かれた銀器のような音がする声。気がついたら、わたしは前のめりになっていた。
「メイベル!」
名前が弾けるみたいに飛び出してしまう。息継ぎも忘れて、勢いのまま続けた。
「メイベル・ヴィクトリア・ブロンテ。どうぞ、メイベルと呼んで」
言ってから、はっとして口を押さえる。何をしているの、わたし。少し恥ずかしくなって、慌てて取り繕うように笑ってみせると、彼はほんの一瞬だけ面食らったように目を瞬いた。
「……承知いたしました、メイベル嬢」
丁寧に言葉を選んだような響き。生まれてから何度も呼ばれている名なのに、耳に届いた瞬間、消えないインクで書き留められてしまったみたいに思える。
ふと胸元の金具に目をやると、整った文字で名前が刻まれていた。
──Jesse Dickens。
まあ、すてき。ちょっとだけ物語めいていて、声に出してみたいようなロマンチックな響きだった。
「よろしければ」
そう言って、彼は奥の棚から小皿を取り出した。白い陶器の上に、銀紙で包まれたチョコレートがいくつも並べられている。
「お待ちいただいているあいだ、少し甘いものでも。お嫌いでなければですが」
「まあ……!」
声が勝手に弾んでしまう。甘いものが恋しくてたまらなかったのだ。そのうえ、退屈はおなかを空かせるものだから。
「嬉しい。どうもありがとう」
銀紙をほどく音まで嬉しくて、口に含めばなめらかな甘さが舌の上で溶けていく。ちらりと横を見ると、彼がほんの少しだけ微笑んでいる。声を出して笑うわけではないのに、ちゃんと笑ってくれているのが分かる。
さっきまで退屈でたまらなかったのに、今はなんだか、胸がそわそわして落ち着かない。わたし、自分のことなのに、少し不思議に思ってしまった。




