第九話:四阿にて2
「もう……」
インスラから向けられる熱の込められた眼差しに、マサエールは扇を広げて顔を隠す。
「わたくしはまだヨーリオム様を愛しているのですよ」
「勿論です」
インスラは当然であろうと頷いてみせた。
「十年前から存じていますよ」
インスラは言葉をそこで切ったが、『それで自分の想いが変わるわけではない』そう言葉が続いているのが明らかであり、マサエールはますます扇に顔を隠した。顔が赤面しているように感じられたためだ。
「まさか身を固めていないとは思わなかったのよね……」
マサエールは聞こえぬように小さく呟く。
インスラは未婚であるという。騎士団の副長ともあれば結婚するよう女たちからも人気があっただろうし、両親や主家、つまりボレアリス家からも縁談が勧められたはずだ。それが独身を貫き、マサエールの前に座っているのである。
マサエールがインスラを恋愛の対象としてみていたことはなかった。
彼は確かに幼馴染ではある。だが辺境に位置するとはいえボレアリス家はれっきとした領主貴族であり、インスラはそれに仕える騎士の一族であって、主家の姫であるマサエールとは立場が違う。
それに彼もまた当時はボレアリスの粗野な男どもの一人に過ぎなかったのだ。
「象牙の月も美しかれど、今は叢雲にすぎませんね」
ほら、こんなことを言う。とマサエールは驚き、また感心するしかない。
今、マサエールは象牙の骨組の扇を広げている。そして扇には月が描かれているのであるが、それも美しいと褒めた上で、それすら月にかかる雲にすぎない。つまり顔を隠すのはやめて、月より美しいマサエールの顔を見せろと言っているのである。この男は! もう!
マサエールがゆるゆると扇を下ろしていけば、涼しく笑みを浮かべるインスラと、によによと笑みを浮かべる侍女たちが見えるのであった。
はぁ、とマサエールはため息を落としてから扇を閉じた。
「随分と口が達者になったものです」
「勉強しましたから」
何のための勉強かといえば、マサエールがヨーリオムのような男、つまり武人ではあるが高貴な文化人を好むと知ったためである。
それは普通であれば報われぬ愛だ。こうしてマサエールが離縁されて実家に戻らねば知る機会すらなかったかもしれない。
ただ、その知識自体は後の出世に役立つであろう。ラディクス家が覇を握り中央に近づけば、ボレアリス家にあって雅のわかる彼は重用されたに違いないから。
「騎士物語に生きているのね」
マサエールは言う。
騎士物語とは元々は騎士の遍歴と修行、冒険の物語を意味するものである。だが、それは宮廷恋愛の物語にとって変わられた。
騎士が高貴なる女性、多くは仕える主君の妻への愛を描くのだ。それは時に無私の奉仕の愛であったり、秘された恋心であったり、肉体関係であったりするが……。
「主君の妻への奉仕なら、本来ならその対象はアイガー様にすべきと言いたいのですけど」
「それは……」
アイガーはマサエールの兄の妻である。主君の妻ということであれば、クロノサの妻、つまりマサエールの母だが、少々インスラとは歳の差がある。であれば物語としてはアイガーに愛を捧げるべきだ。家を離れたマサエールではなく。
インスラは少し悲しげに眉を寄せた。思わずマサエールは続ける。
「でも、その心は嬉しく思います」
「はい」
インスラは椅子から微動だにしていない。だが、マサエールは大柄な犬が尻尾を振っている様子を幻視した。
マサエールは僅かに口の端を上げる。
「あ、あとそうでした」
そう思いついたように言って、マサエールは椅子の横の小机、裁縫用具や布を置いていたところから一枚の布を取り出す。
「こちらを差し上げますわ」
それは白い麻のハンカチーフであった。魔除けを意味する柊に家紋たる蛇、そしてインスラの名が刺繍されている。
インスラは立ち上がると、わざわざマサエールの横に回り込み、膝をついてそれをおし頂いた。
「感謝の極み。この感激をどう表現すれば」
「大げさよ」
「家宝にいたします」
「使ってちょうだい」
再びその光景をによによと見ている侍女たちが視界に入り、マサエールは慌てて言葉を続ける。
「こ、これはただお菓子や花をくれることへのお返しなんですからね?」
「はい」
「つ、ついでよ。モンジューの服に刺繍するついでですから」
「はい」
顔をあげたインスラはそう言われても満面の笑みである。マサエールは何か言い訳のようなものを続けようとして、もごもごと口を動かした。
「マサエール様、楽しいところに水をさすようで恐縮ですが……」
侍女のオリザが声をかける。彼女の手には小ぶりな懐中時計。それで用件を察したマサエールは頷きを返す。
次の女衆との茶会の時間が迫っているのだった。インスラもそれに気づき、先に立ち上がった。
「ではお茶会楽しんでくださいませ」
マサエールに手を差し出す。マサエールはそれに手を添えて、椅子から立ち上がった。
「……ええ、インスラありがとうね」
そう言うと、マサエールは慇懃に頭を下げるインスラを後に四阿を立ち去った。
暖かい季節、ゆったりと流れる時間。愛する者と離れてしまっても、こういう日々が続くのであれば悪くはないかもしれない。
だがその茶会の席にて、平穏な日々というのは儚く終わりを告げるものであると、マサエールは思い知るのであった。
ξ˚⊿˚)ξこの作品書いてるとさ、しばしば騎士を武士って誤字るのよね。なんでかはわからないけど。





