第七話:扇
クロノサは呆然とし、マサエールは僅かに肩を落とす。部屋に満ちた重苦しい雰囲気が軽くなった。彼女は激情を露わにしたことに疲れたかの様子であり、モンジューについていかず背後に控えていたオリザはマサエールに彼女の扇をそっと渡した。
マサエールは扇を広げ、その裏でため息を落とす。ため息をつく姿を見せるのは品がないためである。そしてすぐさま扇を閉じて言った。
「少し言葉が過ぎましたね。申し訳ありません」
「うむ……。マサエールよ。当家にて謹慎蟄居を命ずる」
「御意承りましたわ」
父の言葉にマサエールは頭を下げる。
「お父様!」
「父上!」
この場に残っていた弟妹たちはその言葉に思わず立ち上がるが、マサエールは手で彼らを押し留めるような仕草を示した。
「大丈夫よ。心配はいらないわ」
この謹慎というのはなにも今のマサエールとの話を受けてそう言っているのではない。元々そうするという既定路線である。
そもそも離婚されたばかりの女がさしたる理由もなく、ほいほいと外を出歩いたり社交に出向くわけにはいかないのだ。なので子供と一緒に屋敷の中にいなさいというだけのことである。
「モンジューたちを呼んできて」
話は終わった。そう判断したマサエールはオリザにそう頼んだが、それに頷いたオリザが動く前に声がかけられる。
「マサエール」
母であった。彼女は夫であるクロノサにちらと視線を送り、マサエールを見つめた。自分が話すという意味の所作であった。
「なんでしょうか」
「あなたの言うように、殿方たちには不実さから彼の方を責める筋合いはないでしょう」
「はい」
マサエールは頷く。
「ですから女である母から問います。不実に腹は立たぬのですか?」
ふむ、とマサエールは閉じた扇を頬に当て、僅かに首を傾げた。
「そもそもの話ですが、ヨーリオム様がわたくしに離縁を申し出たのは不実ゆえではなく誠意、あるいは優しさのあらわれと思っているのです」
「優しさ」
母は鸚鵡返しにそう言った。マサエールは頷く。
「離縁されなければ、わたくしは殺されていたでしょうから」
沈黙が落ちる。母は口を開いた。
「ヨーリオム殿があなたを殺すと?」
「いえ、ヨーリオム様は貴種ですから、そういった手段は取られないでしょう。ただ彼の配下はそうではありませんし、グッリッジ家から暗殺者が送られるかもしれませんね」
母はちらりと夫に視線をやった。クロノサは口を開かなかったが、あり得ることだと頷きを返す。
マサエールは続ける。
「そもそもわたくしがヨーリオム様のお立場にあって、穏便に妻を交換したいならさっさと今の妻を、わたくしのことですが……殺してしまいますよ。そしてボレアリス家にモンジューを抱いてやってきて、産褥で亡くなったとでも言って涙を落として見せれば許すしかないでしょう? それからゆっくり新しい妻を迎えればよろしい」
母はあんぐりと口を開け、父はため息をついた。
「お前は本当に魂が女の形をしていない……」
「そうでしょうか? ともあれ、そうせず離縁という手を選んだ。わたくしに、あるいはボレアリス家に恨まれることも覚悟して離婚としたのです。これが誠意や優しさでなくてなんだというのでしょう」
「わかりました。では当家としては穏便に済ませることがあなたの意に叶う。そうですね?」
「はい」
母はそう尋ね、マサエールは肯定した。
ここでボレアリス家がラディクス家と敵対することは、マサエールの意に反するし、家門にとっても大きな損害となるためだ。
「マサエールはヨーリオム殿を恨んではいないと」
「は?」
マサエールの手の中で、ばきり、と音が鳴った。物が壊れる音である。
「ひっ」
妹の一人が気付き、息を呑む。マサエールの手の中で扇が中心から折れているのだ。母の言葉が知らず再び竜の逆鱗に触れたようであった。
「わたくしが、ヨーリオム様を、恨んでないと?」
娘の切れ切れの言葉に、母は彼女を落ち着かせるようにゆっくりと言う。
「……ごめんなさい。失言であったみたいね。ただ、教えてもらえるかしら。それは何故?」
マサエールは手をゆっくりと開いた。残骸と化した扇が床に落ちる。
「ヨーリオム様は甘くていらっしゃる。そこにわたくしは焦がれ、今でも愛しているのですが」
「ええ」
十年前、マサエールがヨーリオムと初めて会った時から。辺境の武人たちとは異なる彼の優しさ、甘さに惹かれていたことを母もわかっている。
だが、マサエールこそがその辺境の武人の気質を女だてらに最も強く宿しているのだ。それ故にこそ、そうでないヨーリオムを愛したのかもしれないが。
「わたくしが彼を愛すると同時に恨んでいるのはその甘さですわ」
「……どういう意味かしら」
「わたくしが彼のために、死ぬ覚悟もなく嫁いだと思っていることです」
母は息を呑んだ。
「ヨーリオム様が位人臣を極めるために、なぜわたくしの命を散らしてくださらなかったのか。なぜわたくしの命を活用されないのか。なぜわたくしを生かすことで不穏の芽を残すのか」
紅の瞳から落ちた水が床を濡らす。
「愛する人のために死ねることこそ誉れだというのに」
「……マサエール」
父が声をかけた。
「なんでしょう」
「自刃を禁ずる」
「当然ですわ。ヨーリオム様が生かすことを選ばれたのですもの。自ら死を選ぶことなどあり得ません」
彼女にとってヨーリオムの判断は絶対なのである。
「そうか……、ならば良い」
「では失礼致しますわ」
マサエールは礼をとって踵を返す。床にはただ折れた扇のみが残された。
ξ˚⊿˚)ξ扇握り潰す系ヒロイン。





