1話
6月30日。
毎日。
毎日小説を書いている。
家に帰って書いて、移動中に考えて、講義中に書いて、バイトしながら考えて。
そんな日を毎日過ごしていたのに、ページは中々に進んでいない。
なろうに占領された界隈に切り込もうと熟考を重ねた挙句の結果だ。
だから――って。完成もせず公表できないなら0と同じか。
『青春は罪を弔う。人が飛ぶ。』
現代ファンタジーの1作。ループと青春を兼ね備えた作品だ。
中々良い題名だと思う。書いてて後世に残すべきとすら思った。
あと数時間で完成するだろうか?
そしてそれは、良い作品になるだろうか?
惨めにディスプレイと睨めっこ。集中力なんてとうに切れていた。
だらつくねばっこい汗、油でコーティングされた毛先に意識が持っていかれてる。
まぁ賞に出せなくとも、最低この熱量をネットに流せたら――。
「あ、やべ」
……現実と信じられなかった。
夜も深まった時間帯。一瞬にして膨れ上がる困惑は眠気すら吹き飛ばした。
「……っあー」
後悔の矛先を向けれるなら、それは運命にだろう。生まれた瞬間から決定したことだったと。簡単に自分のせいだと割り切ることなんて出来なかった。
「全部消えちゃった……」
幸福の裏には不幸が潜んでいて、だいたい不幸の方が往々にして残酷だ。
そう思うのも貪欲な性格だから。寺でこの腐りきった性格を矯正してやりたい。
ディスプレイの前で頭を抱える。こねくり回すように頭を強く握った。
「それでも……これは……」
なくなった時間を噛みしめるように……思わず出た声は後悔だけだった。
*
「おっ先輩! 新人賞はどうです? 間に合ったんですか?」
行きつけの本屋に入ると、緑のエプロンに『研修』のプレートを付けた男がカウンターから身を乗り出して話かけて来た。伺うようなその口調は期待を孕んでいる。
別に報告をしに来たわけじゃない。
コイツのシフトをことこまやかに確認するべきだった。
まぁ……小説書いてることまで言ってんだもんな。
「なんか、消した挙句焦って取り返しつかなくなって、終わった」
思った以上に俺の声からは喪失感が詰まっていた。
そんな俺に――コイツは乗り出した体を静かに納める。
「ご愁傷様です。でも、ネチネチ話なんて聞いてられないっスよ?」
「今日は店頭に並んだ世界線を妄想しに来た」
「えぇ……」
「えぇ……」じぇねーよ。客の自由にさせろ。
深夜一時。ポップアップのやかましい音に紛れ「チッ」と舌打ちを。
本棚一面のなろう小説を眺めて――
「どうせ書き切ってもダメだったんだろうな」なんて思い浮かべながら。
「……クソつまんね」
言葉を放った刹那、俺の胸に一冊の本が手向けられる。
「じゃぁこれを。元々、大学であげるつもりだったんですけど……慰めってことで」
胸に押し付けられた本を手に取り、題名を読む。
……読めない。
「なにこれ?」
「翻車魚と読みます。先月クビになったバイトの先輩の残し物です」
「……へぇ~」
翻車魚を片手に街頭も殆どない帰路を歩く。
袋にも入れず裸で、力も出ない腕にプラプラと宙を舞わせて。
さて、こいつを呑気に読んでもいいものなのか――。
あ。
本の隙間から栞のような、折りたたまれた紙が落ちた。
拾い上げると、「あとがき」と題された見出しに文章が綴られている。
読んで下さりありがとうございました。実はこの本、私が残せた唯一の物語、世界に一つしか存在しないのです。読み終わった際は、どうかご友人に渡して下さい。
……へぇ。
欲求の獣。「この作品がそこで終わっちゃいけない」
短い文章から作者の思念が妖気のように漂っている気がした。
どんな作品なのだろう。
俺は家に帰ってすぐさま本を読んだ。
それは、200ページほどの短編小説だった。
8月。学校にも行かずに眺める海はまるで鏡のように自分を映す。無断欠席への背徳感も責任転嫁も虚しく――ただただ、胸を縛り付けるばかりだった。
マンボウがいた。
憂鬱な授業。机に円盤型の影が差して、ノートに水滴が染みつく。
ふと視界を上げると巨大な姿が宙を漂っていた。
他人には見えない、何も干渉しない……ただ空を漂っているだけ。
でも、僕には分かった。顔が似てたんだ、直観で分かった。
マンボウはきっと僕に宛てられた呪い。きっと、僕を殺しに来たんだ。
「呪い」この本はそうとしか表せない。
胸糞の悪い――酷い余韻だ。
カーテンの隙間から零れる光。気付けば太陽は顔を出していて、朝だった。
……影響されるな……。
これを書いている人物が知りたくなった。今どこで何をしているのか。
世界に一つしかないこの物語の意味が知りたくなった。
「――もしもし」
*
「はい、バイトの先輩も譲って貰ったと言っていました。彼女の名前は城谷吟、金沢図書館の職員をやっていると思いますよ」
夜中までバイトをしていただろうに。
朝5時のコイツからは勤労を思わせなかった。
ある程度話の付けれる時間帯を狙って行ったのは3限を差し掛かった昼頃。
暇なジジババを数人抜け、俺はカウンターの前に立った。
「すいません、城谷さんっていらっしゃいますかね?」
「はい、呼んできます」
色のない返事。
古い木の机と慣れない籠った本の匂いに中々落ち着けない。
数分後。一つくくりの髪を下げた女性がカウンターを相対して前に立つ。ネームプレートには後輩の告げた文字がそっくりそのまま―—。
俺は何より先にと本を突き出した。
「あー。……君が貰ったんだねー」
ニコッと。手に取ると懐かしむようにページをペラペラめくる。
軽々しくも痛々しくページをめくって――感傷に浸っているようだ。
「これ、ね。中途半端なアタシには酷く刺さったよ」
きっと主人公の犯した罪のこと。マンボウに向ける目線と、人生の歩み方のこと。
「すぐに何でもそつなくこなせるタイプ。けどそれ以上は上手くなれない。無駄にプライドが高いから挑戦なんてしない。高校に入ってからは部活も入らなかった」
マンボウの一文を読む。
「分かってんじゃん。……この本はそんな嫉妬深い人間が惹かれるんだ」
ため息の籠った声。俯いた顔に胸に押し付けられる翻車魚。
文字通り刺さっていて――そんな大人を前にどう対応すればいいのか分からない。
俺はたどたどしく声を放つ。
「本の作者って、どなたか分かりますかね……?」
「残念だけど私も貰い物を貰ったから……というか、見つけてどうしたいの?」
「気になっただけッスよ。……俺も刺さったから」
中途半端なのは俺も同じだ。
逃げ続けてんだ、平然と。どうかしてる。