プロローグ ゴーストライター
三日月が雲の間から顔を覗かせる夜、コーヒーの入ったマグカップを片手に、海波奏汰はベランダで涼んでいた。青い縁の眼鏡の奥には、一重で鋭い目つき。ここ最近眠れていないせいか、少し隈が出来てきている。覇気のない顔や整えていない身だしなみ、さらには猫背のせいでもあるだろうが、お世辞にも現役大学生とは言えない風貌である。
他人の生活音や車のエンジン音が響き渡り、この時期は日が昇ることで余計に蒸し暑さを感じさせる昼間とは異なり、夜はコオロギやマツムシたちのやや控えめな演奏会が淡々と開催されているだけ。他人が活動している様子がほとんどない。この世界から自分以外の人間がいなくなってしまったのではないか、と錯覚してしまうようなこの時間が心地いい。今は騒がしい同居人も居ないのだから、そう感じていいはずなのだ。
「——さむっ」
ひゅっと、少し強い風に当てられて、身震いする。九月も下旬に差し掛かり、この時間に薄着で屋外にいるのは少々肌寒い。だからといって部屋にいると若干の蒸し暑さでなかなか眠りにつくことが出来ない、非常に厄介な時期である。
ちら、とベランダから自室に目をやる。今まで書いてきた小説の構想が書かれた紙が床一面に散らばっていて、足の踏み場もない。昼間、大学から帰ってきて部屋の掃除をしようとした。序盤こそ良かったものの、途中で机に足を引っかけて近くに積み上げていた紙束にダイブしてしまった。それにより、掃除をしようとするモチベーションなんてものは消失し、ベッドで横になってふて寝を決め込んだ。結果、掃除をして綺麗になるはずだった部屋は余計に散らかったまま、現在に至るわけである。
「——へくしっ」
再び風が吹いて、今度はくしゃみが出る。散らかった部屋を見たくなくて、入るのを躊躇っていたが、部屋に入るか、入らないにしても上着を羽織らなければ、間違いなく風邪を引くだろう。奏汰としてもそれは本意ではないので、大人しく部屋に入ることにする。なんとなくテレビをつけて、録画していた番組を見ようと一覧を表示する。アニメやドラマがかなり溜まっていて録画の残り時間も少ないが、今は見る気にならない。何となく次へ、次へと流していくうちに、一週間前に録画したニュース番組が目に留まった。一週間前にテレビ局から連絡があって取材を受けたときのものだ。
(一応、記念として録画したんだっけ)
他に見たいものもないし、と思い再生ボタンを押す。
『今、話題のあの人に直撃!〈くりえいてぃぶ〉!本日は、現在若者からの人気を集める小説家、音満渚沙さんの素顔に迫るべく、藤原アナが取材してきました』
テレビから俺の名前が聞こえてきて、先日受けた取材の映像に切り替わる。
「現在、渚沙さんの小説—『花香る喫茶店で』が人気を集めていますが、この物語を思いついた経緯などはありますか?」
「そう、ですね。これは、僕がお菓子作りを趣味としていることから思いつきましたね。ちょうど喫茶店を舞台にした小説を書きたいと思っていた時に、花言葉を興味本位で調べていたので、この二つの要素を合わせてみようという感じで書きました。」
「なるほど。渚沙さんのご趣味から生まれたんですね。次に、ストーリーのイメージというのは、どのようにして思いつくのでしょう?」
「そう、ですね…。僕の場合、よくイメージが湧きやすいのはお風呂に入っているときですかね。特に髪を洗っているときに思いつくことが多いですね。」
「お風呂ですか。入るとすっきりしますし、リラックスできるからですかね?」
「そうかもしれませんね。」
アナウンサーとのやりとりはまだ続くが、俺はテレビの電源を切って寝室に向かう。あの時はそれっぽいことを言ってごまかした。あの小説は、俺の見た『景色』じゃない。すべて〝彼女〟が見ていた『景色』を、俺が覗き穴から見せてもらっていたものに過ぎない。本当の俺は自分で見ているはずの『景色』を、自分の言葉で表現することすらできない未熟者なのだから。
「渚沙——」
ベッドに腰かけて、彼女の名前を呼ぶ。見えなくなってしまった、彼女の名前を。
「頑張るから、見てて」
俺の『景色』を見せられるようになる、その日まで。
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