幕間 揺らぎ
深夜2時過ぎ。俺はまだ執務室で報告書と向き合っていた。
「正体不明の技術者による対象救出」——この項目でペンが止まる。あの技術者は一体何者なのか。顔と声を変える能力、管理局のセキュリティを突破する技術力、そして何より安置所の構造を完全に把握したような動き。
俺は引き出しからあの時の鉄骨崩落事件の映像記録を取り出した。モニターに映る自分の姿を見つめる。胸ポケットに手を伸ばした瞬間、チャット欄が荒れた場面だった。
『やばいやばいやばい』
『これ笑えないやつだろ』
『終わった、完全に詰んだ』
手錠を取り出そうとしただけだった。それなのに——
コンコン。
ノックの音で俺は顔を上げた。
「入れ」
扉が開き、VA-238105が入室した。VA-238105——俺は心の中で番号を復唱する。黒縁の眼鏡、清潔にまとめられた髪、いつもの几帳面な着こなし。
「まだ起きていたのですか、VA-431047」
「報告書を書いていた。VA-238105こそなぜここに?」
彼女は扉を閉めると、俺の机の前に立った。
「気になることがあって」
俺は報告書を一旦保存し、彼女を見つめた。彼女がこんな時間に個人的な話をしに来るのは珍しい。
「何だ」
「あの子の言っていること、完全に間違いだとは思えないのです」
俺の眉間に皺が寄った。
「社会秩序を乱している。それが事実だ」
「でも、太田氏や佐藤氏の件」彼女は眼鏡を押し上げた。「本当にかんなのせいでしょうか」
「何が言いたい」
「名前があろうとなかろうと、監視社会の問題は存在していた。かんなはそれを可視化しただけでは」
俺は黙った。言いたいことは分からなくもない。だが、それでも秩序を乱した事実は変わらない。
「君は体制に疑問を持っているのか」
「疑問ではありません。ただ...」
彼女はモニターの映像を見た。あの時の配信記録が一時停止されたままになっている。
「あなたは法を守った。でも、人々の目にはそう映らなかった」
俺は画面の中の自分を見つめた。胸ポケットに手を伸ばす瞬間。視聴者たちの恐怖。
「私は手錠を取り出そうとしただけだ」
「知っています。でも世間はそう見なかった。レッテルの恐ろしさです」
静寂が執務室を支配した。
その時、扉が再び開いた。
「深夜に二人で何を話している」
低い声が響く。田中長官が立っていた。グレーのスーツ、銀縁の眼鏡。威厳ある風格は深夜でも変わらない。
俺と彼女は同時に立ち上がった。
「長官」
「長官」
長官は執務室の中を見回し、俺のモニターに映った映像記録に目を止めた。
「あの時の件か」
長官は窓辺に歩いていき、外の夜景を見つめた。
「君たちは、名前があった頃を覚えているか」
俺と彼女は顔を見合わせた。
「私は生まれた時から番号です」
「私もです」彼女も頷いた。
長官は振り返った。
「私は違う。昔は田中太郎という名前があった」
俺は息を呑んだ。長官が個人的な過去を話すなど、前例がない。
「40年前、まだ名前が普通だった頃を覚えている」
長官は一歩窓辺に近づいた。
「VAは元々、RAの社会検証システムとして作られた。人々の本性を測定し、より良い社会判断に活用するために」
俺は身を乗り出した。「それが、なぜ今の形に」
「だが、VAが公共化/分散化し、RAと密接に繋がったとき、予想外のカオスが起きた。RAの人物評価とVAの人物評価が入り乱れ、どちらの自分が本当なのか分からなくなった」
俺は長官の話に集中していた。
「VAで築いた関係がRAで台無しにされ、RAでの失敗がVAで晒される。名前があることで、二つの世界での人物が結びつけられ、逃げ場がなくなった」
俺の隣で彼女が小さく息を吸った。
「番号制度は、その混乱を終わらせた。二つの世界で別々の存在として生きられる。RAとVAでの評価が結びつくこともない。平等で、安全で、効率的な社会。少なくとも、そう信じていた」
長官は俺たちを見つめた。
「だが、今度は別の問題が起きた。まずVAで人間性が失われ始め、やがてRAにも番号制度が普及していった。君たちも感じているだろう。名前で呼び合うことの温かさ、つながりの深さを」
俺は喉の奥が詰まったような感覚を覚えた。名前で呼び合うこと——確かに、なぜか心に響く響きがある。
「正しいか間違いかではない」長官は続けた。「どちらも不完全だ。名前があればRA/VAの境界が曖昧になり混乱が生まれ、番号だけでは人間性が失われる」
「それなのに」彼女が口を開いた。「あの子は、その狭間で何かを見つけようとしていたのでしょうか」
長官は窓の外を見つめ、何かを決断するような表情を見せた。その重い沈黙が、部屋の空気を一層緊張させる。
「VA-431047」
「はい、長官」
「君は今回の件で、どう思った」
俺は一瞬躊躇した。あの配信での視聴者の反応が脳裏をよぎる。
「...私は法に従っただけです。ですが、見られ方については」俺は映像記録のモニターを見つめた。「正しいことをしても、伝わらない場合があることを学びました」
「考えさせられた、ということか」
「はい。法と人の心の間にある、深い溝を」
長官は頷いた。
「それでも削除するのですか、長官」
俺の問いに、長官は長い沈黙で答えた。時計の秒針だけが静寂を刻んでいく。
「私にも分からない」長官の声に、微かな迷いが滲んだ。
長官は机に手をついた。
「あの子は確かに成長した。だが、システムエラーであることは事実だ」
「しかし」長官は時計を見た。「72時間...その間に何か変わるかもしれない」
俺と彼女は長官の言葉の真意を測りかねた。
「最後に聞こう」長官が俺たちを見つめた。「もし君たちが名前を持つとしたら、何と名乗りたい?」
俺は考え込んだ。名前——俺には想像もつかない概念だった。
「分かりません」
「私は」彼女が答えた。「番号のままでいいです。それが私の証明ですから」
長官は小さく笑った。
「三者三様だな」
長官は扉に向かって歩いた。
「考えてみるといい。名前とは何か、存在とは何かを」
扉の前で振り返る。
「あの子が示そうとしているのは、答えではないかもしれない。しかし、問いかけることの大切さかもしれん」
長官は部屋を出ていった。
残された俺たちは、しばらく無言でいた。
「VA-238105」
「何でしょうか」
「君は本当に、番号のままでいいと思うのか」
彼女は眼鏡を押し上げた。
「はい。名前を持つことの意味も価値も理解しています。でも、私は番号として生きることを選んでいます。名前に縛られず、レッテルを貼られることもない。それが私のアイデンティティです」
「そうか」
俺は窓の外を見つめた。夜が白み始めている。
「あの子は、間もなく消えてしまう」
「そうです」
「それでいいのだろうか」
彼女は俺を見つめた。
「あなたがいつも言っていたじゃないですか。私たちは法を執行するだけだと」
「しかし」
「ただ」彼女は少し考えた。「もし最後の時間があるなら、あの子にとって意味のある時間になればいいですね」
俺は頷いた。
外では、朝の光が差し始めていた。72時間のカウントダウンが、静かに進んでいる。
「帰ろう」俺は立ち上がった。
「はい」
俺たちは執務室を後にした。
廊下で別れ際、彼女が振り返った。
「VA-431047」
「何だ」
「長官の言葉、心に留めておいてください」
「ああ」
彼女は軽く会釈し、廊下の奥へ消えていった。
俺は一人、窓から外を見つめた。
あの子——かんなは、今何を考えているのだろう。
朝日が管理局の建物を照らし始めていた。新しい一日が始まろうとしている。
削除まで、あと66時間。