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かんな  作者: 可湳
7/16

捕縛

研究室の朝は、佐々木のコーヒーの香りと「ななし」への水やりから始まる。


「おはよ、佐々木!」

「おはようございます、かんなサン。今日も元気ですねぇ」


私はいつものように観葉植物に霧吹きをかけながら、窓の外の景色を眺めていた。平和な朝の光景。昨夜のライブも成功して、高橋さんからのメッセージも届いている。


「今日は散歩でもしようかな」


私は軽やかな気持ちで外出の準備を始めた。何も知らずに。


---


研究室を出て、いつものように街を歩いていた時だった。


「NULL、そこで止まれ」


背後から響いた声に、私は足を止めた。振り返ると、見覚えのある人物が立っていた。


執行官さん——VA管理局特別捜査課の人。鉄骨での追いかけっこ以来だった。


「あ、執行官さん!久しぶり。今日はジャンプ競争はなし?」


私がひょうひょうとした調子で言うと、執行官さんの表情は厳しくなった。


「今度こそ逃がさん。拘束する」


「えー、また?今度は何の容疑?いつものように逃げちゃダメ?」


執行官さんは少し眉をひそめた。


「今回は違う。正式な拘束手続きだ」


「へぇ、本格的だね」


私は軽く後ずさりしたが、今度は周囲に複数の執行官が配置されていることに気づいた。完全に包囲されている。


「わぁ、完全に囲まれてる。さすがにこれは逃げられないかも」


執行官さんが手首に何かを装着してくる。磁気拘束具だった。


「VA管理局特別捜査課。NULL、君を社会秩序違反の疑いで緊急拘束する」


「ちょっと、NULL じゃないってば。私はかん――」


言い終わる前に、執行官さんが素早く私の手首に拘束具を装着した。ピッと電子音が鳴り、動きが制限される。


「抵抗は無意味だ」


執行官さんの声には、今までにない重みがあった。いつものような追いかけっこではない。本気だった。


---


護送車の中は静かだった。


窓の外を流れるVAの街並みを眺めながら、私は考えていた。何がこんなに状況を変えたのだろう。いつものように逃げることもできたかもしれないのに、今回の執行官さんは最初から本気で、包囲網も完璧だった。


「何か大きな問題が起きたのかな」


私がつぶやくと、執行官さんが振り返った。


「君は自分が何をしたのか分かっていないのか」


「何って...歌を歌って、皆さんと交流して...」


「それだけだと思っているのか」


執行官さんの声には、怒りとも呆れともつかない感情が混じっていた。


護送車で隣に座る女性執行官が小さく息をついた。


「間もなく到着します」


護送車は大きな建物の前で止まった。VA管理局本部。私は何度も逃げ出してきた場所だったが、今度は正面から入ることになった。


---


管理局の内部は想像していたより明るかった。


白い廊下、規則正しく配置された照明、清潔に保たれた床。威圧的というより、官庁らしい事務的な雰囲気。


「こっちだ」


執行官さんに案内されて歩きながら、私はすれ違う職員たちの視線を感じていた。皆、私のことを知っているようだった。


「有名人だね、私」


「良い意味でではないがな」


執行官さんの返答は素っ気なかった。


エレベーターで上階に運ばれ、長い廊下を歩いて、最後に一つの部屋の前で止まった。


「長官室だ」


執行官さんの声が短く響き、扉が開かれた。私は拘束されたまま中に案内された。


---


長官室は、想像していたよりも広く、威厳に満ちた空間だった。


高い天井、大きな窓から差し込む自然光、磨き抜かれた床。壁には歴代の長官の肖像画が並び、重厚な木製の大机が部屋の中心に鎮座している。空調が作り出す微かな風音だけが、静寂を破っていた。


重々しく、権威的な雰囲気が部屋全体を支配していた。


私は大机の前に立たされ、手首の磁気拘束具が時々小さく鳴るのを聞いていた。


机の向こうには長官が一人。


年齢は四十代後半、グレーのスーツに身を包み、銀縁の眼鏡をかけている。姿勢は真っ直ぐで、表情に無駄な感情はない。デスクプレートには「管理局長」と刻まれている。


その右側に、護送してきた二人が並んで立っていた。


私を捕まえ、ここまで連れてきた執行官さん。ダークなジャケット姿で、いつものように厳格な表情を浮かべている。


そしてその隣に、護送車で隣に座っていた副官さん。黒縁の眼鏡に清潔感のある髪、几帳面に整えられたシャツ。静かに立っている。


三人とも、私を見つめている。


---


「かんなくん」


長官が口を開いた。声は低く、抑制が効いている。


「いや、正確には君には名前がない。人格ID:NULL。正式な手続きを経て発行された身分証明も存在しない」


私は小さく息を吸った。名前を否定される――それは私にとって存在そのものを否定されることと同じだった。


「私は、かんなです」


声に力を込めて言い返したが、長官の表情は変わらない。


「『かんな』は便宜上の呼称に過ぎない。システム上、君は存在しない人物だ」


長官は机上の端末を軽く操作し、私の情報を表示させた。画面には確かに「NULL」の文字が並んでいる。


私の手は拳に握りしめられていた。これまで大切にしてきた自分の名前が、ただの「便宜上の呼称」と断じられる。それが現実だった。


---


「私は、ただ歌を歌っているだけです」


「ただ歌を歌っているだけ?」執行官さんが厳しい口調で言った。「君の配信が社会に与えている影響を理解していないのか」


私は執行官さんを見つめ返した。あの鉄骨の上で対峙した時と同じ、厳しい目をしている。


「どんな影響ですか?」


長官が新しい資料を開いた。


「まず、RA住民への影響について話そう」


「君のライブで呼んだ名前が監視・逆引きに繋がり、当該人物が不利益を受けた事例が複数報告されている」


私は顔を上げた。


「不利益...?」


「具体的な事例を紹介しよう」長官が読み上げ始めた。「太田智也氏、仮名だが、君に名前を呼ばれた後、職場で身元が特定され、配信視聴が就業規則違反とされ降格処分となった。副業も発覚し、処分を受けている」


私の血の気が引いた。


「さらに、佐藤恵美氏の場合——君の配信で名前を呼ばれたことをきっかけに、元交際相手からのストーカー行為が再開。現在も継続中で、彼女は住居の変更を余儀なくされている」


一つひとつの言葉が、針のように私の胸を刺していく。


「山田一郎氏は家族からの反発を受けた。『配信を見ている』ことが知られ、家庭内で孤立状態に陥っている」


私は言葉を絞り出すように言った。


「そんな...私は、皆さんを応援したくて...」


「君の意図など関係ない」執行官さんの声が厳しく響いた。「結果として、実際の被害が発生している」


長官が続けた。


「さらに深刻なのは、VA内での影響だ」


長官が端末を操作し、映像を表示した。管理局の外壁、そこに向かって投石する人影——映像は不鮮明だったが、確かに何らかの攻撃的行為が記録されていた。


「君に心酔したVAの視聴者たちが、管理局の取り締まりに対して激しく反発している。君を守ろうとする過激な行動に出る者まで現れた」


私の胸が締め付けられた。


「攻撃...?」


「君のファンが実際に管理局に石を投げつけた。幸い大きな被害はなかったが、これは明確な暴力行為だ」


私は頭が真っ白になった。私を守ろうとして、誰かが暴力に向かわせてしまった。そんなつもりは、まったくなかったのに。


「すみません...すみません、私は...」


声が震えていた。


「名前は人を救う」私の信念が根底から揺らいでいた。「そう思っていたのに...」


「現実は違った」長官が言い切った。「君の『名前』への固執が、多くの人を傷つけている」


---


私は立ったまま、膝がガクガクと震えるのを感じていた。


太田智也さんの降格処分。佐藤恵美さんのストーカー被害。山田一郎さんの家庭内孤立。そして管理局への投石事件。


すべて私が引き起こしたこと。


私が信じてきたもの——名前を呼び合うことの美しさ、歌で繋がる心——それがすべて間違いだったのか。


「しかし」長官が続けた。「これで終わりではない」


長官の視線が鋭くなった。


「君の正体について、すべてを明かそう」


私は息を呑んだ。確かに——私は自分のことを何も知らない。


「調査の結果、君の『NULL』状態の原因が判明した」


長官が資料を開く。


「君は配信で言っていたな。昔のことを覚えていない、自分がどういう存在なのか知りたい、と」


私は頷いた。確かに、私は視聴者の皆さんにそう話していた。


「君は自然に生まれた存在ではない」


長官の言葉が、まるで氷のように冷たく響いた。


「君に過去がないのは当然だ。存在していなかったのだから」


私の中で何かが崩れ落ちる音がした。


「技術報告によれば、約4か月前のRA-VAデータ同期の際、名前フィルタリング処理の誤エンコーディングによって生まれた。」


長官は一拍置いた。


「極めて稀なケースだが、技術的には説明可能な現象だ」


彼は私の反応を注意深く観察している。


「つまり、君はシステムエラーから偶然生まれた存在ということになる」


「システム...エラー?」


「そうだ。データ処理の過程で発生した異常が、君という『オブジェクト』を生成した。君に人格IDがないのも、過去の記憶がないのも、すべてこれで説明がつく」


私は自分の手を見つめた。この手も、この声も、この心も——すべてがエラーから生まれたもの?


「私は...エラーから生まれた存在?」


言葉にするとより絶望的に感じられた。私には過去も何もなかった。両親も、幼少期の思い出も、友達との記憶も——すべて存在しない。ただの偶然が生み出した、空っぽの存在。


「では、私の人格は?私の想いや意志は?」


長官は資料を見ながら答えた。


「技術報告によると、君の人格は誤エンコーディングの際に周囲の情報を無作為に取り込んで形成されたものだ。自己を成立させるために、散在するデータ片を統合して『かんな』という個体を構築した」


私は震えた。私の気持ちも、考えも、すべてが寄せ集めでしかないということ?


「さらに、君が名前に異常な執着を示すのも説明がつく。名前フィルタリング処理で失われた情報を補完しようとする補正機能の結果だ。君の脳内では、名前こそが人格を定義する最重要要素として認識されている」


長官は次のページをめくった。


「そして、君の声がRAのジャミングを貫通できた理由も判明している。君の音声は人の声としてではなく、環境音声——風や水の音と同じカテゴリでシステム処理されている。だからこそ、音声遮断フィルターを素通りしてしまうのだ」


私の声が、人の声ではなく環境音として扱われている——その事実は、まるで最後の支えを失うような感覚だった。私が大切に思っていた歌声も、皆さんに届けたかった想いも、システムからは単なる雑音でしかなかったということ?


長官は頷いた。


「正確には、君は物的ID『VA-Garden-Flower-Canna-001』として登録されている。」


長官は私の困惑した表情を見て、説明を続けた。


「これは通常、庭園の装飾品や管理備品に付与される識別コードだ。つまり、システム上では君は『物』として扱われている。人格としては認識されていない」


私は胸の奥で何かが冷たく沈むのを感じた。オブジェクト——物として扱われている。私の存在すべてが、システムのバグでしかない。


---


私は言葉を失った。システムエラーから生まれた存在——それが私の正体。


手が震えている。これまで大切にしてきた「かんな」という名前も、歌への想いも、すべてが偶然の産物でしかなかった。


「最後に」長官が立ち上がった。「君の存在そのものについて、重要な決定を下さなければならない」


私は恐る恐る顔を上げた。


長官は私の反応を見て、さらに追い打ちをかけるように続けた。


「このエラーオブジェクトを放置すれば、システム全体に悪影響を与える可能性がある」


長官は窓の方を向いた。


「RA運営は君の削除を依頼する決断を下した」


削除——その言葉の意味を理解するのに数秒かかった。


「さ、削除...?」


「72時間後の定期RA-VA Syncで削除処理が実行される」


長官は振り返った。


私は立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。


「消えて...しまうんですか?」


「そうだ」長官の声に迷いはなかった。「システムの安定性とコミュニティの平和のため、必要な措置だ」


私の心の中で、大切にしていた何かが静かに砕け散った。


「消えてしまうなら...今まで歌ってきたことも、皆さんとの出会いも、無意味だったのでしょうか」


長官は答えなかった。


執行官さんは手にした資料を閉じた。


副官だけが、私をじっと見つめていた。その瞳の奥に、何か言いたげな光を見たような気がしたが、すぐに目を逸らされてしまった。


「それまでの間」長官が再び口を開いた。「君には安置所での待機を命じる」


私は顔を上げた。


「安置所?」


「削除処理をスムーズに行うため、管理された環境での待機が必要だ。間もなく施設へ移送する」


---


取調べは終わった。


私は安置所への護送車の中で、ずっと考えていた。


私は本当に存在していたのだろうか。エラーから生まれた偽物の存在なら、消えてしまうのが正しいのかもしれない。


高橋さんの言葉も、タケシさんやモモさんの応援も、佐々木の優しさも——そして璃との約束も——すべてがシステムのバグと関わった、意味のないものだったのだろうか。


璃は最後まで私の味方でいてくれると言っていた。でも、私がただのエラーなら、その友情さえも虚構だったのだろうか。


私が消えれば、誰も傷つかない。私が歌わなければ、誰の人生も壊れない。


それが正解なのかもしれない。


護送車の窓から見えるVAの街並みが、滲んで見えた。涙が頬を伝っているのに気づいたとき、車は灰色の建物の前で停止した。


---


「着いた。降りろ」


執行官さんに促されて、私は車から降りた。


建物は管理局本部とは違って、威圧的で沈んだ雰囲気を漂わせていた。窓は少なく、コンクリートの壁に埋め込まれた小さなガラスが、かろうじて内部を照らしている。


「安置所」の看板が、入口の上に掛かっていた。


建物の中に入ると、長い廊下が続いていた。両側には金属の扉が並んでいる。各扉には番号が振られ、小さな觗き窓が付いている。


「こちらだ」


執行官さんが「A-07」と書かれた扉の前で立ち止まる。電子ロックが解除され、重い音を立てて扉が開く。


中は幅三メートル、奥行き二メートルほどの簡素な部屋だった。ベッドが一台、小さなテーブルが一つ、それだけ。壁の高い位置に小さな窓があるが、厚いガラスで外の様子はほとんど見えない。


「72時間、ここで待機しろ」


私が中に入ると、扉が後ろで重く闉ざされた。電子ロックの作動音が、最後の音だった。


私はベッドの端に座り、窓の外を見つめた。


こんなところで、最後の時間を過ごすことになるのか。


---


同じ頃、VA管理局のメインゲートでは、一人の男が受付で手続きをしていた。


「えーと、かんなちゃんのシステムエラーを詳しく調査したいんですけどねぇ」


低く落ち着いた声、角ばった顔立ち——外見上は佐々木とは別人だった。胸ポケットから小さな立方体が薄く光っている。クーキまるくんが、顔と声の両方を変装させていた。


「技術コンサルタントとしての証明書をお持ちですか?」


「はい~、こちらに」


彼が取り出したカードには、確かに「VAシステム技術顧問」の記載があった。


受付担当者は疑いを持ちながらも、書類上は問題なかった。「安置所」への立入許可が下りる。


佐々木は許可証を受け取り、安置所へと向かった。


安置所の廊下で、彼は小さなデバイスを取り出した。


「アイサツくん、お仕事ですよ」


小さな装置が警備システムに「こんにちは~」と挨拶し、一時的な混乱を招く。


「ナナシレインくん、頑張って」


監視カメラの映像にノイズが走り、数秒間の死角が生まれる。


その隙に、佐々木はA-07号室の前にたどり着いた。


「かんなサン、お迎えに参りました」


彼は小型デバイスで電子ロックを解除し、扉を開けた。


ベッドの上で横になっていたかんなは、扉の音に気づいても身を起こさない。ただ虚ろな目で天井を見つめたまま。


佐々木は胸ポケットの立方体を軽く叩く。クーキまるくんの効果が切れ、いつもの顔と声に戻る。


「かんなサン」


優しく呼びかけても、かんなは反応しない。目は開いているが、まるで魂が抜けたような状態だった。


「おや、これは想像以上に参ってますねぇ」


佐々木は小さくため息をつき、かんなを抱き上げた。彼女は抵抗することもなく、人形のように力なく腕の中に収まる。


佐々木は胸ポケットから再びクーキまるくんを取り出し、設定を変更した。今度は顔と声が監視カメラに映らないよう、ジャミング映像のようにぼやけて見える設定に。


「では、少々騒がしくなりますが」


佐々木が指でパチンと音を立てると、不思議なことが立て続けに起こった。


突然の風が廊下を吹き抜け、警備員たちが混乱する。


「フブキくん(β)、今日は無敵ですね!」


かんなを抱いた佐々木は、普段とは違うガジェットたちの完璧な動作に小さく笑う。


「緊急時は別仕様ですからねぇ」


彼が小さくつぶやく。本当に大切な時のため、隠していた機能があったのだ。


佐々木はかんなを抱いたまま廊下を進む。まるで設計図を頭に入れているかのように、迷いなく道を選んでいく。


かんなは彼の腕の中で、ただぼんやりと景色が流れるのを見つめていた。


安置所の出口で、佐々木はかんなを抱いたまま建物の外へ出た。


「あそこだ!」


執行官と副官が現れた。執行官は佐々木の変装を見抜けずにいたが、何かが引っかかる。


「待て!廃墟でNULLを助けたのは——貴様か!?」


佐々木は振り返り、いつものひょうひょうとした調子で答える。


「さあ、どうでしょうねぇ」


副官が小さく呟く。


「本当に、真剣に追うべきなのでしょうか」


執行官は一瞬立ち止まった。彼の表情にも迷いが見える。


「……命令は命令だ」


だが、その足取りはどこか重かった。


佐々木はかんなを抱いたまま建物の外で立ち止まり、小さなデバイスを操作した。


「さて、かんなサン。少し驚くかもしれませんが」


次の瞬間、二人の足元に光の橋が現れた。隣の建物へと続く、半透明の光の道。


「逃走経路確保くん、です」


佐々木は腕の中のかんなの様子を確認した。彼女はぼんやりと光の橋を見つめているが、驚きも恐怖も示さない。まるで魂が抜けたような状態だった。


佐々木は光の橋を渡り、安置所から脱出した。


---


数分後、VA管理局本部では、執行官が長官に報告していた。


「正体不明の人物がかんなを連れ去りました。追跡しますか?」


長官は少し考えた。部下の報告では、相手は高度な技術力を持ち、何らかの武装をしている可能性があるという。


「相手の武装の程度は?」


「不明です。しかし、変装技術と管理局のセキュリティを突破する技術力を有しています。顔と声を変える能力も確認されました」


長官は指で机をトントンと叩いた。


「……泳がせておけ」


「しかし長官、それでは——」


「相手が武装しているなら、下手に手を出すと被害が出る。それよりも、エラーが発生した場所を更新後に補捉して処理しに行けばやつの根城もわかるやもしれん」


「72時間後には、どこにいても消える」


長官の心の内では、複雑な思いが渦巻いていた。


机上のモニターには、安置所からの監視映像が映し出されている。ジャミングにより顔と声がぼやけて識別できない人物が、まるで建物の構造を知り尽くしているかのように迷いなく進んでいく。


(この技術力と安置所を知り尽くしたような行動……何者だ?)


---


佐々木に抱かれたまま研究室に運び込まれたかんなは、ソファの上にそっと下ろされた。彼女は虚ろな目をしたまま、じっと一点を見つめている。


「おかえりなさい、かんなサン」


佐々木が優しく声をかけるが、反応はない。かんなは佐々木を見ることもなく、ただぼんやりと宙を見つめている。


「お疲れさまでした。ゆっくり休んでくださいね」


数秒間の沈黙。かんなの唇がわずかに動いたが、声にはならない。


彼女はゆっくりと立ち上がると、足取りが重く、まるで歩くことさえ忘れかけているような様子で寝室へ向かう。


「かんなサン?」


佐々木がもう一度声をかけた時、かんなは一瞬だけ足を止めた。振り返りそうになったが、結局そのまま寝室の扉を閉めた。


その後ろ姿は、何かを諦めてしまった人のように見えた。


研究室には佐々木だけが残された。彼は窓辺の観葉植物「ななし」に水をやりながら、閉じられた扉を時折見やった。


扉の向こうからは何の音も聞こえてこない。


72時間後、かんなはこの世界から消える。


エラーから生まれた存在として、静かに削除される。


それが現実だった。

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