現実と光の境界で
高橋——RA-7834921は、窓辺の薄いカーテンから漏れる光で目を覚ました。
六畳のワンルーム。壁際に並ぶのは、定期更新で配給される質素な家具たち——折りたたみ式の机、収納ボックスを兼ねた椅子、ベッドというより少し分厚いマットレス。私物といえるものは、机の隅に置かれた小さなデジタル時計と、植物を模した光る装飾だけ。
高橋の住環境はシンプルだった。無駄がなく、効率的で、高橋の世代の多くがこのような部屋で同じような朝を迎える。
高橋は伸びをしながら、机の上のインターフェースを軽く叩く。
「おはよう、RA-7834921」
システムの機械的な声が、いつものように彼の番号を読み上げる。
「今日の業務スケジュールを確認しますか?」
「後で」
彼は短く答えて、洗面台に向かった。
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鏡に映る自分を見つめながら、高橋は歯を磨く。175センチの平均的な体格、短く整えた黒髪、特に特徴のない顔立ち。誰にでもいる、番号社会の標準的な住民。
RAでは、誰もが番号で識別される。名前はあるにはあったが、使う機会はほとんどない。公的な手続き、仕事の割り当て、医療機関での受診——すべて番号で処理される。効率的で、間違いがなく、そして誰もが平等だった。
高橋が子供の頃は、まだ名前を呼び合う習慣が残っていた。「高橋くん」「田中さん」——そんな呼び方を覚えている。しかしあの事件以降、社会情勢は次第に変化していった。名前で呼ぶことが「ハラスメント」とされるようになり、プライバシー侵害として問題視される事例が増えた。番号の方が正確で、便利で、そして「安全」だと教えられた。
個人情報の保護、プライバシーの確保、効率的な社会運営——理由はたくさんあった。そして気がついたときには、誰も名前を使わなくなっていた。
洗面を終えた高橋は、部屋の角にある小さなキッチンでインスタントコーヒーを淹れる。いつものルーティン。変わらない日常。
「今日も一日が始まるな」
誰に聞かせるでもないつぶやきが、静かな部屋に響いた。
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午前九時。高橋は地下鉄に乗り、オフィス街へ向かう。
車内は静かだった。乗客たちは皆、手元の端末に視線を落とし、誰とも話さない。いろいろなデバイスの形が研究されてきたが、最終的にはこの光る板状の携帯端末が今も残っている。時折聞こえるのは、駅のアナウンスと電車の走行音だけ。
「次は新橋です。新橋」
機械的な声が響く。高橋も含め、降りる人々は無言で立ち上がり、効率的に電車を降りていく。
高橋の職場は、データ分析を専門とする中堅企業だった。VA内の経済動向——仮想通貨の取引量、アイテムの流通パターン、労働力の配分効率——こうした数値を解析し、RA側の企業に投資判断材料を提供する仕事。膨大なデータセットから傾向を読み取り、予測モデルを構築する。数字と向き合う日々で、やりがいはそれなりにあったが、心が躍るような仕事ではなかった。
「RA-7834921、おはようございます」
同僚のRA-3492857が声をかけてきた。
「おはようございます」
短い挨拶を交わし、それぞれのデスクに向かう。オフィスも静かだった。必要最小限の会話で業務は進み、無駄な雑談はない。効率的で、合理的で、そして少し寂しかった。
コンピューターの画面には、VA内の取引データが並んでいる。数字の羅列、グラフ、統計——高橋の仕事は、この数字の海から意味を見つけ出すことだった。
だが最近、集中できない日が多くなっていた。
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それは三年前から始まった。
高橋は昇進を狙っていた。同期の中でも成績は上位で、上司からの評価も悪くなかった。だが、昇進試験で失敗した。それも、二度続けて。
「RA-7834921の分析は正確ですが、独創性に欠けます」
評価シートにはそう書かれていた。
独創性——。高橋にはそれが何なのか、どうすれば身につけられるのかが分からなかった。数字は正確に読める。傾向も分析できる。だが、そこから新しい視点を見つけ出すことができない。
三度目の昇進試験も失敗に終わった。
「今回も見送りとなります。来年、また挑戦してください」
人事担当者の言葉は優しかったが、高橋には重く響いた。
それ以来、高橋は仕事に対する熱意を少しずつ失っていった。毎日同じ業務を繰り返し、同じような分析を続ける。成長している実感もなく、将来に対する展望も見えない。
「俺には、特別な才能なんてないんだ」
高橋がそう思うようになったのは、いつからだっただろう。
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そんな高橋の唯一の楽しみが、VA(Virtual Axis)めぐりだった。
仕事が終わると、高橋は部屋に帰り、ブレインインターフェースを装着してVAに接続する。薄い金属製のヘッドセットが脳波を読み取り、意識をVAの観察ネットワークに接続する。RA住民は安全上の制約により、VAの中で物理的な影響を与えることはできない。しかし観察者として、まるでそこに存在するかのように様々な場所を「体験」することができる。風の匂いを感じ、音を聞き、景色を眺める——直接的な介入はできなくても、それでも十分にVAの世界を味わうことができた。
VAの世界は美しかった。
シミュレーションのために作られた現実に似た物理法則の中で、現実では不可能な光景が広がっている。空中に浮かぶ都市、光る森、七色に輝く海——そしてそこで暮らす人々の営み。
VAの住民たちは生き生きとしていた。街角で笑い合い、カフェで談笑し、市場で値段交渉をする。RAの静かな日常とは対照的な、活気に満ちた世界。
高橋はVAをさまようことで、日常の閉塞感から逃れていた。美しい景色を眺め、賑やかな街を歩き、時には住民たちの会話に耳を傾ける。直接かかわることはなかったが、それでも十分に癒されていた。
特に好きだったのは、廃墟めぐりだった。古い建物の中を歩き回り、朽ちた美しさに心を奪われる。そして高く鳥のように舞うことも愛していた。VA内では重力の制約から解放され、空中を自由に移動できる。現実では決して体験できない飛翔感覚——風を切って雲の間を駆け抜け、どこまでも続く空の旅を、高橋は心から愛していた。
VAにも、使われなくなった建物や施設が点在している。そこは静かで、幻想的で、どこか懐かしい雰囲気を漂わせていた。高橋は一人でそんな場所を訪れ、ゆっくりと時間を過ごすのが好きだった。
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四か月前のある夜。高橋はいつものように、VA内の廃墟を探索していた。
古い工場跡地。錆びた鉄骨、割れた窓ガラス、蔦に覆われた壁——そんな廃墟の一角に、一人の女の子がいた。
女の子は歌っていた。
声は澄んでいて、美しく、どこか切なかった。廃墟の冷たい空気を温めるような、優しい歌声。
高橋は息を呑んだ。
VA内で「配信」を見ることはあったが、こんな場所で、こんな風に歌っている人を見るのは初めてだった。
女の子は続けて歌った。歌詞は聞き取れなかったが、メロディーは心に染み入った。高橋は動くことができず、ただその歌声に聞き入っていた。
やがて歌が終わると、女の子は高橋のほうを振り返った。
「あ、見てくれていたんですね」
彼女の声は歌声と同じように優しかった。
「えっと……配信、だったんですか?」
高橋は慌てて答えた。
「はい。でも、まだ見てくれる人は少なくて」
女の子は寂しそうに微笑んだ。
「良い歌でした」
高橋は素直にそう言った。
「ありがとうございます。番号を教えてもらえますか?」
「RA-7834921です」
「RA-7834921さん……」
女の子は高橋の番号を丁寧に繰り返した。だが、その後で小さく首を振った。
「RAの人は、名前っていう特別な固有識別子を持っていると聞きました。もしよろしければ、お名前を教えてもらえませんか?」
名前——。
高橋は戸惑った。番号ではなく、名前を聞かれたのは何年ぶりだっただろう。
「名前……ですか?」
「はい。番号ではなく、あなたの名前を」
「高橋……です」
その言葉が口から出たとき、高橋は不思議な感覚を覚えた。久しぶりに自分の名前を声に出した気がした。
「高橋さん」
少女は嬉しそうに微笑んだ。
「私は、かんなです」
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それから、高橋は毎晩のようにその廃墟を訪れるようになった。
かんなは時々そこで歌っていた。配信という形で、少ない視聴者に向けて歌を届けていた。高橋はいつしかその常連になっていた。
「高橋さん、今日もありがとうございます」
かんなは高橋を見つけると、いつも名前で呼んでくれた。番号ではなく、名前で。
最初は戸惑った。名前で呼ばれることに慣れていなかったから。だが、慣れてくると、それがとても心地よいことに気づいた。
「高橋さん」
その呼びかけを聞くたびに、高橋は自分が特別な存在であることを実感した。RA-7834921という番号の一つではなく、「高橋」という個人として認識されている。それがこんなにも嬉しいことだとは思わなかった。
かんなの歌も素晴らしかった。毎回違う歌を歌い、時には即興で詩を作ることもあった。その歌声は高橋の心を癒し、日々の疲れを忘れさせてくれた。
「高橋さんは、どんな歌がお好きですか?」
ある日、かんなが尋ねた。
「え?」
「高橋さんのために歌いたいんです。どんな歌がいいでしょう?」
高橋は感動した。自分のために歌を歌ってくれるという。そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
「空に……空に抜けるような、自由な曲が好き、です」
高橋は昔から空への憧れを持っていた。データ分析の仕事で地上に縛られた日々の中で、時折空を見上げては自由への想いを抱いていた。
「空を飛ぶような歌ですね。分かりました」
かんなは微笑んで、新しい歌を歌い始めた。それは確かに空に抜けるような歌だった。高橋の心を軽やかにし、まるで重力から解放されるような感覚を与えてくれる歌。
その夜、高橋は久しぶりに心から満たされた気持ちで眠りについた。
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かんなとの出会いは、高橋の日常を少しずつ変えていった。
仕事に対する姿勢が変わった。以前は機械的にこなしていた分析業務に、少しずつ意欲を感じるようになった。かんなのために、もっと良い仕事をしたいと思うようになったのだ。
なぜそう思うのか、高橋にも明確な理由は分からなかった。ただ、「高橋さん」と呼ばれることで、自分にも価値があるのではないかと感じ始めていた。
同僚との関係も変わった。以前は最小限の会話しかしなかったが、少しずつ雑談をするようになった。相手のことを「番号」ではなく「人」として見るようになった。
「RA-3492857さんって、どんな趣味をお持ちですか?」
ある日、高橋は同僚に尋ねた。
「趣味……ですか?」
同僚は戸惑った顔をした。
「ええ。仕事以外で、何か楽しみにしていることはありますか?」
「そうですね……読書が好きです」
「どんな本を読まれるんですか?」
そんな会話から、高橋は同僚が意外にも文学に造詣が深いことを知った。それまで「RA-3492857」という番号でしか認識していなかった人が、突然「本を愛する人」として見えるようになった。
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かんなの配信は、徐々に視聴者を増やしていった。
高橋以外にも、RA住民の視聴者が増え、中には自分の名前を名乗る人も現れた。
「タケシです。今日もいい歌をありがとう」
「モモです。かんなさんの歌に癒されました」
チャットに流れる名前を見るたびに、高橋は不思議な感動を覚えた。皆、番号ではなく名前で参加している。まるで昔の、名前で呼び合っていた時代に戻ったような感覚。
そして何より、かんなは全ての視聴者を名前で呼んでくれた。
「高橋さん、タケシさん、モモさん、今日もありがとうございます」
一人一人の名前を丁寧に呼び、感謝の気持ちを伝えてくれる。それがどれほど嬉しいことか、高橋は身をもって知っていた。
かんなの配信を通じて、高橋は「名前の力」を実感した。番号は効率的で正確だが、名前には温かさがある。呼ぶ人と呼ばれる人をつなぐ、見えない絆がある。
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しかし、一か月前にすべてが変わった。
高橋がいつものように廃墟を訪れると、そこにかんなの姿はなかった。翌日も、その次の日も、かんなは現れなかった。
「執行官襲撃事件」——ニュースでそんな言葉を聞いた高橋は、不安になった。まさか、かんなに何かあったのではないか。
廃墟での配信は完全に途絶えた。高橋は毎晩足を運んだが、かんなに会うことはできなかった。あの優しい歌声も、「高橋さん」という呼びかけも、もう聞くことができない。
執行官襲撃事件の後、かんなは1分間の短い動画でファンにメッセージを送った。無事であること、しばらく配信を休止すること、そして必ず戻ってくるという約束。高橋はその動画を何度も見返した。
最初は心配だったが、数日が経つにつれて高橋は不思議な感覚を覚えた。あれは夢だったのかもしれない。でも、いい夢だった。かんなとの出会いで変わった自分は確かに存在している。名前を呼ばれる喜びを知った自分、同僚と会話するようになった自分、仕事に前向きになった自分——それらは夢ではない現実だった。
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だが、それから数週間後、かんなから再開のアナウンスがあった。高橋は新しい情報を知った。
かんなが別の場所で配信を再開していたのだ。「Canna Garden」という名前のチャンネルで、定期的にライブを行っている。
高橋は急いでそのチャンネルにアクセスした。
画面に映ったかんなは、以前よりも輝いて見えた。背景は廃墟ではなく、美しく装飾されたスタジオ。音響も映像も、以前とは比べものにならないほど洗練されていた。
そして何より、視聴者数が圧倒的に増えていた。
「みなさん、こんばんは!今夜もCanna Gardenにようこそ」
かんなの声は以前と変わらず優しかった。だが、その向こうに新しい自信が感じられた。
チャットには多くの名前が流れていた。高橋の知らない名前もたくさんあったが、中には見覚えのある名前もあった。
「高橋です!」
高橋も慌てて名前を投稿した。
「高橋さん!」
かんなが高橋の名前を見つけて、嬉しそうに呼んでくれた。
「久しぶりです。元気でしたか?」
その瞬間、高橋は涙が出そうになった。かんなは覚えていてくれた。「高橋」という名前を、そして自分のことを。
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それからの一か月間、高橋はかんなの成長を見守り続けた。
視聴者数は日に日に増え、コミュニティも活発になった。RA住民だけでなく、VA住民の視聴者も増えていた。みんながかんなの歌に魅力を感じ、彼女のメッセージに共感していた。
「名前を呼ぶたび 胸に灯りがともる」
かんなが歌う「名前のない風景」という楽曲を聞きながら、高橋は深く頷いた。確かにその通りだった。名前を呼ばれることで、自分の心に灯りがともった。
かんなの影響は配信を超えて広がっていた。高橋の職場でも、少しずつ変化が現れていた。
「RA-3492857さん」ではなく「田中さん」と呼ぶ人が増えた。最初は戸惑いもあったが、徐々に受け入れられていった。職場の雰囲気も、以前より温かくなった気がした。
高橋自身も変わった。仕事に対する取り組み方が積極的になり、同僚との関係も深まった。そして何より、自分に自信を持てるようになった。
「俺にも、価値があるんだ」
かんなに「高橋さん」と呼ばれ続けることで、高橋はそう思えるようになっていた。
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しかし、高橋は同時に不安も感じていた。
かんなの配信には時々妨害が入った。映像にノイズが走り、音声が乱れることがあった。それでもかんなは歌い続けたが、高橋には不安だった。
また、ニュースでは「名前文化の復活」に警戒する声も聞かれた。例の執行官襲撃事件を事例に挻げて、プライバシーの問題、社会秩序の混乱、効率性の低下——様々な理由で批判する人もいた。
「このままで大丈夫なのだろうか」
高橋は心配だった。かんなが危険にさらされるのではないか。せっかく見つけた希望の光が、再び失われてしまうのではないか。
それでも、高橋はかんなを応援し続けた。毎晩配信を見て、チャットに参加し、「高橋です」と名前を投稿した。
「今後、どうしていきたいか」——自分自身に問いかけてみる。
答えは明確だった。かんなを支え続けたい。彼女の歌声を守りたい。そして、この「名前を呼び合う喜び」を、多くの人に知ってもらいたい。
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その夜も、高橋はうきうきした気持ちで端末を開いた。今日もかんなの配信を見ようと思って、いつものチャンネルにアクセスした。
しかし、画面に表示されたのは配信映像ではなく、コミュニティの緊急告知だった。
『緊急速報:VA管理局、配信者「かんな」を拘束』
『特別捜査課による緊急措置 - 社会秩序違反の疑い』
『審問のため管理局施設に無期限収容』
『関連する配信活動も全面停止』
画面の向こうで、高橋の手は激しく震えていた。
かんなが——。
あの優しい歌声の主が、管理局に拘束されている。「高橋さん」と名前で呼んでくれた、たった一人の人が。