ライブの風景
-------一か月後-------
研究室の朝は、いつものように付箋の確認から始まる。
「牛乳買う」「プロトコル修正」「植木に水」——この三枚は不動の定番で、毎週新調される。佐々木がマグカップを片手に機器の点検を終え、かんなの起床を待つ。
彼は付箋の角を指で揃え、前夜のコーヒーの輪っかの上に新しい三枚を重ねる。「牛乳買う」の右に小さく日付、「プロトコル修正」には控えめなパラメータ記号。「植木に水」の札はあえて裏向きにして、ジョウロを窓辺に置き直す。
ラックのインジケータを順に確かめる。予備電源、防音、ノイズキャンセルの自己診断。ピッ、ピピッ。数値は規定内。配信経路の遅延は許容、ログの警告は昨夜のまま静かに青。
モニタの片隅で、窓辺の「ななし」の土壌センサーが穏やかな値を示す。散水アクチュエータのタイマーを一旦停止。小さなランプがすっと消える。
研究室はまだ空気がひんやりしている。湯気の上がるマグを持ち直し、佐々木は寝室の扉を一度だけ見やる。
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この一か月で、かんなの生活リズムは格段に安定していた。
廃墟で、穴のあいた天井から落ちる夜風に肩をすくめ、
冷たいコンクリートで目が覚めた朝はもう来ない。
いまは専用の安眠マットレスが身体の形にやわらかく沈み、
璃がデザインした小さな星の刺繍の枕に頬が落ち着く。
寝室は研究スペースとは別室で、かんなの寝具は一式まるごと新調。
先日の「フブキくん(β)」でへこんだのは、佐々木の仮眠ベッドのフレームで、
いまもわずかに曲がったまま。足元には薄いメモ帳が一冊、がたつき止めに差し込まれている。
そして週に三度の配信ライブ。
かんなが寝室のドアノブを小さく回すと、蝶番が一度だけ短く鳴く。
かんなの素足が廊下のひんやりを踏み、次の一歩で研究室のラグに沈む。
研究室の朝の空気はコーヒーと金属の匂いが薄く混じり、
窓辺の光がカーテンの隙間から帯になって床に落ちていた。
「おはよ、佐々木!」
「おはようございます、かんなサン。今日の体調はいかがですか?」
「ばっちり!昨日の璃のスープがおいしすぎて、夢にまで出てきた」
かんなは伸びをしながら窓辺の観葉植物「ななし」に水をやる。もはや彼女の朝のルーティンだった。
「あー……『ナナシレインくん』、ぼくの自信作だったんですけどねぇ。手で水やりするなら、出番なしですか」
「朝の水やりは、私の係」
かんなはジョウロを掲げて、きっぱりと言い返す。
「植物だって、愛情もって水もらって育てられたほうが、ぜったいよく育つんだから!」
作業台の一角に、湯気の立つスープと焼いたパン、温めたミルクが三人分並ぶ。
黒のエプロンをかけた男が、静かな手つきで器を置いた。短く整えた黒髪、指先には微かな絵の具の跡。身長は、かんなよりわずかに低く、動きは正確かつ無駄がない。視線は時折、宙に開いた半透明のインターフェースに泳ぐ。
通称「璃」。ビジュアルアーティスト兼エンジニアで、演出と実装の橋渡し役だ。VA内のオープンツール「StageMesh」で佐々木と出会い、光粒子と動的タイポの演出を得意とする。公的には番号で通すが、この信頼圏では屋号を継ぐ通称「璃」として活動している。
「セットアップは、今朝の分まで通りました。音響と映像は同期済みです」
「やったー!今日はどんな映像にしてくれるかな」
三人でスープをすすったところで、机の端の小さなランプが点滅する。通信受信の合図だ。
佐々木がマグを持ったまま目線だけで通知を開く。
「高橋さんからのメッセージも来てますね。『今夜も楽しみにしています』だそうで」
「高橋さん……ありがたいな」
一か月前の高橋は番号「RA-7834921」だった。それが今では、配信のチャットで自然に「高橋」と名乗り、他の視聴者とも温かい交流を続けている。
変化は高橋だけではない。
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午後、佐々木の机に通知が点いた。彼が集計しているダッシュボードに、昨夜の配信ログとコミュニティの動きがまとまって上がってくる。
「コミュニティの変化が興味深いですねぇ」
佐々木の分析では、かんなの配信を視聴するRAの人々に、微妙だが確実な変化が現れている。
「番号だけで交流していた方たちが、チャット内で『愛称』や『呼び名』を使い始めています。最初は配信内だけでしたが、今では日常のVA内交流でも」
ログダッシュボードには、興味深い推移が記録されていた。
一か月前:
『RA-4423871です、応援してます』
『お疲れ様でした。RA-9871234より』
今週:
『タケシです!今日もいい歌声でした』
『おつかれさま。モモより』
『素敵な配信をありがとう、ケンより』
そして何より印象的なのは、こうした「名前」を使う人たちが、お互いを尊重し、配慮し合っていることだった。
「自分の名前を名乗るということは、相手にも名前があることを認めるということなんですね」佐々木が静かに続ける。「かんなさんの配信を通じて、皆さんが『呼ぶ/呼ばれる』関係の価値を再発見している」
佐々木は興味深げにうなずく。
「面白い変化ですねぇ。RAの文化が、VAに逆流している」
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夜。定刻の19時半。かんなのライブチャンネル「Canna Garden」が開始される。
視聴者数は一か月前の倍以上。常連の高橋、タケシ、モモ、ケンに加え、新しい顔ぶれも増えている。
「みなさん、こんばんは!今夜もCanna Gardenにようこそ」
かんなの声が響くと同時に、璃がデザインした光の演出が始まる。花びらのような光粒子が舞い、かんなの周りに優しく回転する。
だが5分も経たないうちに——
『信号異常検知』
『未認証配信継続』
『干渉開始』
システムからの警告とともに、映像に激しいノイズが走る。オーディオメータは緑の帯を保ったまま。
一か月前なら、これで配信は中断されていた。
「あ、来た来た。いつものジャミングさん」
かんなは慣れた様子で笑う。
『また管理局の妨害か』
『毎回おつかれさまです>ジャミングさん』
『むしろ演出っぽくない?』
チャットも慣れたものだ。そして次の瞬間——
ノイズが音楽のリズムに合わせて脈動し始める。
映像の乱れが、万華鏡のようなパターンへと“整った乱れ”に変わる。
VJ卓の合図に、干渉タイミングと粒子/動的タイポが同期する。
「すごい!これはもう演出だね」
マイクの波形は安定。チャット欄に『声、聞こえる』『歌詞拾える』が並ぶ。
『これジャミングじゃなくて逆に幻想的』
『毎回違うパターンで飽きない』
『管理局も気づいてるはずなのになぜ続ける?』
チャットが盛り上がる中、かんなは歌い続ける。
今夜の選曲は「名前のない風景」——璃が提案した、名前の喜びをまっすぐに歌うオリジナル楽曲。
歌詞の中で、かんなはこう歌う:
*「名前を呼ぶたび 胸に灯りがともる」*
*「番号じゃなくて あなたの名で」*
*「名前っていいね それだけで強くなれる」*
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配信を見守るのは、もはやRAの住民だけではない。
VA内部でも、当初は好奇心や野次馬根性で覗いていた住民たちが、次第にかんなの配信を真剣に楽しむようになっていた。
「私も愛称にする!」
「名前で呼ばれるの、うれしい」
「ねえ、みんなも名前で話そう」
初回の配信で見えた『本名出すの?』『危ないかも』といった慎重な声は、今夜はほとんど見当たらない。画面はハートと「呼んで」で埋まっていく。
VA内のカフェでは、そんな会話が交わされるようになった。特に若い世代の間で、会話も注文票もホワイトボードも、気づけば“名前”で埋まっていく。
オープンツール「StageMesh」のVJ板でも、表記を愛称前面に切り替える投稿が増えた。RA発の“—呼び名”が、現場のVJ民を経由してVAへ一気に広がっている。
管理局の監視レポートには、段階的な警戒度上昇の経緯が記録されていた:
【2週間前】
『対象"かんな"の影響範囲:配信視聴者層→日常交流へ拡大』
『現状:局所的変化。観察継続』
【1週間前】
『重要:RA→VAへの"名前情報"流出を確認』
『要注意:匿名コミュニティでの模倣行動が増加』
【現在】
『対象"かんな"の影響範囲:配信視聴者層→日常交流→匿名コミュニティへ波及中』
『重要:暴動や混乱は発生せず。むしろ自主的なルール形成が進行』
『要注意:名前文化の熱量増大。行動変容が加速』
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深夜。配信が終わり、かんなが眠りについた後。
佐々木は一人、データを整理している。
視聴者数の推移、チャット内容の分析、RA/VA間の反応の差異。ダッシュボードでは視聴熱(滞在/反応)が右肩上がり、通報件数も同時に微増。健全性スコアのランプが黄/緑の間で点滅する。
「面白いことになってきましたねぇ」
彼は小さくつぶやく。
一か月前は「異例の配信者」だったかんなが、今では「新しい文化の触媒」と目される事例が増えている。名前が合言葉のように、自然と広がっている。
それは革命ではない。静かで、穏やかで、でも熱を帯びた変化。
かんなが歌った歌詞を、佐々木は小さく口ずさむ。
机の上の付箋「牛乳買う」を新しいものに交換しながら、彼は窓の外を見つめた。
VA の夜空には無数の光が瞬いている。それぞれの光に、番号があり、そして時には名前がある。
配信経路は自動で重化し、ログには細い監視タグ〈OBSERVE-AMB〉が付いたまま。オペレーター向けの『観察継続』通知が1件残っている。
変化は、ゆっくりと、しかし確実に始まっている。
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「佐々木、おはよ!」
「おはようございます。今日も元気ですねぇ」
かんなの朝の挨拶は変わらない。だが、机の上の通信ログには新しい変化が記録されていた。
昨夜の配信視聴者の中から、初めて「管理局内部」からのアクセスが検出されていたのだ。
佐々木は眉をひそめる。
「どなたでしょうね?」
彼が確認したIPログには、VA管理局特別捜査課からの接続記録。そして、その視聴時間は配信の開始から終了まで、まるまる2時間に及んでいた。
「……面白くなってきました」
佐々木は小さく微笑む。
彼はルーティング一覧を一つ開き、太くなった経路と監視タグの継続を確認する。ラックの通知ライトが小さく瞬く。
璃からの朝の連絡では、新しい演出プランの実装準備が整った、とだけ届いた。詳細の共有は、次の打ち合わせまで保留だという。
「今夜の配信では、さらに面白いことになりそうですねぇ」
外では朝の光が差し込み始める。新しい日常の中で、小さな革命は静かに続いていく。
研究室の窓辺で、観葉植物「ななし」が朝日を浴びて輝いている。名前があってもなくても、それはそのまま美しく、静かに成長を続けていた。
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配信データの分析結果が示していたのは、予想を超えた変化だった。
RA住民の中に「名前文化」が浸透し、VA内の若者層にも熱が広がっている。チャットにも日常にも、名前の響きが当たり前に混ざり始めた。
管理局の監視報告書には、こう記録されていた:
『現状:暴動・混乱なし(内部警戒度を一段引き上げ)』
『現状:暴動なし——内部警戒度:L2(第二段階)へ移行』
『観測:RA→VAへの“名前情報”流出を確認/未認証配信・切り抜き拡散の増加』
『懸念:VA内での文化模倣が顕著化/集合行動(ミーム化)加速』
『対処:即時監視強化(直轄へ移管)/経路遮断テスト拡大/早期介入案の起案・承認申請』
『警告:遅延は不可。短期に臨界到達リスク』
かんなの歌は、もはや単なる配信ではない。
当局の文書上では「社会波及を伴う現象」。監視網は細く締まり、観察は警戒を越え『対処準備』へと移っていた。