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かんな  作者: 可湳
5/16

ライブの風景

-------一か月後-------


研究室の朝は、いつものように付箋の確認から始まる。


「牛乳買う」「プロトコル修正」「植木に水」——この三枚は不動の定番で、毎週新調される。佐々木がマグカップを片手に機器の点検を終え、かんなの起床を待つ。


彼は付箋の角を指で揃え、前夜のコーヒーの輪っかの上に新しい三枚を重ねる。「牛乳買う」の右に小さく日付、「プロトコル修正」には控えめなパラメータ記号。「植木に水」の札はあえて裏向きにして、ジョウロを窓辺に置き直す。


ラックのインジケータを順に確かめる。予備電源、防音、ノイズキャンセルの自己診断。ピッ、ピピッ。数値は規定内。配信経路の遅延は許容、ログの警告は昨夜のまま静かに青。


モニタの片隅で、窓辺の「ななし」の土壌センサーが穏やかな値を示す。散水アクチュエータのタイマーを一旦停止。小さなランプがすっと消える。


研究室はまだ空気がひんやりしている。湯気の上がるマグを持ち直し、佐々木は寝室の扉を一度だけ見やる。


---


この一か月で、かんなの生活リズムは格段に安定していた。


廃墟で、穴のあいた天井から落ちる夜風に肩をすくめ、

冷たいコンクリートで目が覚めた朝はもう来ない。

いまは専用の安眠マットレスが身体の形にやわらかく沈み、

璃がデザインした小さな星の刺繍の枕に頬が落ち着く。


寝室は研究スペースとは別室で、かんなの寝具は一式まるごと新調。

先日の「フブキくん(β)」でへこんだのは、佐々木の仮眠ベッドのフレームで、

いまもわずかに曲がったまま。足元には薄いメモ帳が一冊、がたつき止めに差し込まれている。


そして週に三度の配信ライブ。


かんなが寝室のドアノブを小さく回すと、蝶番が一度だけ短く鳴く。

かんなの素足が廊下のひんやりを踏み、次の一歩で研究室のラグに沈む。

研究室の朝の空気はコーヒーと金属の匂いが薄く混じり、

窓辺の光がカーテンの隙間から帯になって床に落ちていた。


「おはよ、佐々木!」

「おはようございます、かんなサン。今日の体調はいかがですか?」

「ばっちり!昨日の璃のスープがおいしすぎて、夢にまで出てきた」


かんなは伸びをしながら窓辺の観葉植物「ななし」に水をやる。もはや彼女の朝のルーティンだった。

「あー……『ナナシレインくん』、ぼくの自信作だったんですけどねぇ。手で水やりするなら、出番なしですか」

「朝の水やりは、私の係」

かんなはジョウロを掲げて、きっぱりと言い返す。

「植物だって、愛情もって水もらって育てられたほうが、ぜったいよく育つんだから!」


作業台の一角に、湯気の立つスープと焼いたパン、温めたミルクが三人分並ぶ。

黒のエプロンをかけた男が、静かな手つきで器を置いた。短く整えた黒髪、指先には微かな絵の具の跡。身長は、かんなよりわずかに低く、動きは正確かつ無駄がない。視線は時折、宙に開いた半透明のインターフェースに泳ぐ。

通称「璃」。ビジュアルアーティスト兼エンジニアで、演出と実装の橋渡し役だ。VA内のオープンツール「StageMesh」で佐々木と出会い、光粒子と動的タイポの演出を得意とする。公的には番号で通すが、この信頼圏では屋号を継ぐ通称「璃」として活動している。


「セットアップは、今朝の分まで通りました。音響と映像は同期済みです」

「やったー!今日はどんな映像にしてくれるかな」


三人でスープをすすったところで、机の端の小さなランプが点滅する。通信受信の合図だ。


佐々木がマグを持ったまま目線だけで通知を開く。

「高橋さんからのメッセージも来てますね。『今夜も楽しみにしています』だそうで」

「高橋さん……ありがたいな」


一か月前の高橋は番号「RA-7834921」だった。それが今では、配信のチャットで自然に「高橋」と名乗り、他の視聴者とも温かい交流を続けている。


変化は高橋だけではない。


---


午後、佐々木の机に通知が点いた。彼が集計しているダッシュボードに、昨夜の配信ログとコミュニティの動きがまとまって上がってくる。


「コミュニティの変化が興味深いですねぇ」


佐々木の分析では、かんなの配信を視聴するRAの人々に、微妙だが確実な変化が現れている。


「番号だけで交流していた方たちが、チャット内で『愛称』や『呼び名』を使い始めています。最初は配信内だけでしたが、今では日常のVA内交流でも」


ログダッシュボードには、興味深い推移が記録されていた。


一か月前:

『RA-4423871です、応援してます』

『お疲れ様でした。RA-9871234より』


今週:

『タケシです!今日もいい歌声でした』

『おつかれさま。モモより』

『素敵な配信をありがとう、ケンより』


そして何より印象的なのは、こうした「名前」を使う人たちが、お互いを尊重し、配慮し合っていることだった。


「自分の名前を名乗るということは、相手にも名前があることを認めるということなんですね」佐々木が静かに続ける。「かんなさんの配信を通じて、皆さんが『呼ぶ/呼ばれる』関係の価値を再発見している」


佐々木は興味深げにうなずく。


「面白い変化ですねぇ。RAの文化が、VAに逆流している」


---


夜。定刻の19時半。かんなのライブチャンネル「Canna Garden」が開始される。


視聴者数は一か月前の倍以上。常連の高橋、タケシ、モモ、ケンに加え、新しい顔ぶれも増えている。


「みなさん、こんばんは!今夜もCanna Gardenにようこそ」


かんなの声が響くと同時に、璃がデザインした光の演出が始まる。花びらのような光粒子が舞い、かんなの周りに優しく回転する。


だが5分も経たないうちに——


『信号異常検知』

『未認証配信継続』

『干渉開始』


システムからの警告とともに、映像に激しいノイズが走る。オーディオメータは緑の帯を保ったまま。


一か月前なら、これで配信は中断されていた。


「あ、来た来た。いつものジャミングさん」

かんなは慣れた様子で笑う。


『また管理局の妨害か』

『毎回おつかれさまです>ジャミングさん』

『むしろ演出っぽくない?』


チャットも慣れたものだ。そして次の瞬間——


ノイズが音楽のリズムに合わせて脈動し始める。

映像の乱れが、万華鏡のようなパターンへと“整った乱れ”に変わる。


VJ卓の合図に、干渉タイミングと粒子/動的タイポが同期する。


「すごい!これはもう演出だね」


マイクの波形は安定。チャット欄に『声、聞こえる』『歌詞拾える』が並ぶ。


『これジャミングじゃなくて逆に幻想的』

『毎回違うパターンで飽きない』

『管理局も気づいてるはずなのになぜ続ける?』


チャットが盛り上がる中、かんなは歌い続ける。


今夜の選曲は「名前のない風景」——璃が提案した、名前の喜びをまっすぐに歌うオリジナル楽曲。


歌詞の中で、かんなはこう歌う:


*「名前を呼ぶたび 胸に灯りがともる」*

*「番号じゃなくて あなたの名で」*

*「名前っていいね それだけで強くなれる」*


---


配信を見守るのは、もはやRAの住民だけではない。


VA内部でも、当初は好奇心や野次馬根性で覗いていた住民たちが、次第にかんなの配信を真剣に楽しむようになっていた。


「私も愛称にする!」

「名前で呼ばれるの、うれしい」

「ねえ、みんなも名前で話そう」

初回の配信で見えた『本名出すの?』『危ないかも』といった慎重な声は、今夜はほとんど見当たらない。画面はハートと「呼んで」で埋まっていく。


VA内のカフェでは、そんな会話が交わされるようになった。特に若い世代の間で、会話も注文票もホワイトボードも、気づけば“名前”で埋まっていく。

オープンツール「StageMesh」のVJ板でも、表記を愛称前面に切り替える投稿が増えた。RA発の“—呼び名”が、現場のVJ民を経由してVAへ一気に広がっている。


管理局の監視レポートには、段階的な警戒度上昇の経緯が記録されていた:


【2週間前】

『対象"かんな"の影響範囲:配信視聴者層→日常交流へ拡大』

『現状:局所的変化。観察継続』


【1週間前】

『重要:RA→VAへの"名前情報"流出を確認』

『要注意:匿名コミュニティでの模倣行動が増加』


【現在】

『対象"かんな"の影響範囲:配信視聴者層→日常交流→匿名コミュニティへ波及中』

『重要:暴動や混乱は発生せず。むしろ自主的なルール形成が進行』

『要注意:名前文化の熱量増大。行動変容が加速』


---


深夜。配信が終わり、かんなが眠りについた後。


佐々木は一人、データを整理している。


視聴者数の推移、チャット内容の分析、RA/VA間の反応の差異。ダッシュボードでは視聴熱(滞在/反応)が右肩上がり、通報件数も同時に微増。健全性スコアのランプが黄/緑の間で点滅する。


「面白いことになってきましたねぇ」


彼は小さくつぶやく。


一か月前は「異例の配信者」だったかんなが、今では「新しい文化の触媒」と目される事例が増えている。名前が合言葉のように、自然と広がっている。


それは革命ではない。静かで、穏やかで、でも熱を帯びた変化。


かんなが歌った歌詞を、佐々木は小さく口ずさむ。


机の上の付箋「牛乳買う」を新しいものに交換しながら、彼は窓の外を見つめた。


VA の夜空には無数の光が瞬いている。それぞれの光に、番号があり、そして時には名前がある。

配信経路は自動で重化し、ログには細い監視タグ〈OBSERVE-AMB〉が付いたまま。オペレーター向けの『観察継続』通知が1件残っている。


変化は、ゆっくりと、しかし確実に始まっている。


---


「佐々木、おはよ!」

「おはようございます。今日も元気ですねぇ」


かんなの朝の挨拶は変わらない。だが、机の上の通信ログには新しい変化が記録されていた。


昨夜の配信視聴者の中から、初めて「管理局内部」からのアクセスが検出されていたのだ。


佐々木は眉をひそめる。


「どなたでしょうね?」


彼が確認したIPログには、VA管理局特別捜査課からの接続記録。そして、その視聴時間は配信の開始から終了まで、まるまる2時間に及んでいた。


「……面白くなってきました」


佐々木は小さく微笑む。


彼はルーティング一覧を一つ開き、太くなった経路と監視タグの継続を確認する。ラックの通知ライトが小さく瞬く。


璃からの朝の連絡では、新しい演出プランの実装準備が整った、とだけ届いた。詳細の共有は、次の打ち合わせまで保留だという。


「今夜の配信では、さらに面白いことになりそうですねぇ」


外では朝の光が差し込み始める。新しい日常の中で、小さな革命は静かに続いていく。


研究室の窓辺で、観葉植物「ななし」が朝日を浴びて輝いている。名前があってもなくても、それはそのまま美しく、静かに成長を続けていた。


---


配信データの分析結果が示していたのは、予想を超えた変化だった。


RA住民の中に「名前文化」が浸透し、VA内の若者層にも熱が広がっている。チャットにも日常にも、名前の響きが当たり前に混ざり始めた。


管理局の監視報告書には、こう記録されていた:


『現状:暴動・混乱なし(内部警戒度を一段引き上げ)』

『現状:暴動なし——内部警戒度:L2(第二段階)へ移行』

『観測:RA→VAへの“名前情報”流出を確認/未認証配信・切り抜き拡散の増加』

『懸念:VA内での文化模倣が顕著化/集合行動(ミーム化)加速』

『対処:即時監視強化(直轄へ移管)/経路遮断テスト拡大/早期介入案の起案・承認申請』

『警告:遅延は不可。短期に臨界到達リスク』


かんなの歌は、もはや単なる配信ではない。


当局の文書上では「社会波及を伴う現象」。監視網は細く締まり、観察は警戒を越え『対処準備』へと移っていた。


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