邂逅
さっきの鉄骨が落ちた音。次の瞬間、白いものが一気にひろがって――
視界がぜんぶ、牛乳みたいに真っ白に染まった。
熱じゃない。湿った金属のにおいと、甘い薬みたいな匂いが混ざる。
目がしみて、喉がキュッと縮む。せっかく息を吸ったのに、咳になって飛び出していく。
「げほっ……なにこれ、ちょ、ま――」
床の感触がぐにゃって遠くなる。肩口にひやっとした何かが触れて、カチン、と軽い音。
手首が勝手に重くなる。磁束の輪っか、かな。そういう嫌な予感だけは当たる。
足音。執行官のブーツの音じゃない。もっと静かで、やわらかい足音。
「だいじょう……ぶ……」
言いきる前に、あたまの中のスイッチが、ふっと落ちた。
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目が覚めたら、天井に黄色い付箋が貼ってあった。「牛乳買う」「プロトコル修正」「植木に水」って、誰かの字。
鼻の奥に、コーヒーと消毒薬がまざった匂い。
遠くで小さくブーンと回る機械音。
壁際には透明のカーテンつきの箱があって、中に青い手袋がぶら下がってる。
棚には手書きラベルの瓶と、逆にラベルがない瓶。
机の端でノギスとピンセットが重なって、ケーブルはほどけかけのまま。
ベッド脇の床には、片方だけ転がったスリッパ。
……ここ、研究室……かな?それにしては、めっちゃ生活感ある。
片側には白いボード。
数式と、私みたいな棒人間の落書きが混ざってる。
机の上はコーヒーの輪っかがいくつも印をつけてて、空きマグと工具と、カップ麺のフタが本のしおりになってる。
窓辺の観葉植物には「ななし」とマジックで書かれた札。
かわいい。
私は簡易ベッドの上。
片側だけ薄く沈んだシーツ、枕にはコーヒーの香りが少ししみてる。
毛布の端は、手ぐせで丸められたみたいに柔らかい癖。
手首には薄い磁気の輪っか。
引っ張ると、ピッて低く鳴ってやめなさいと言われる。
足は自由。
毛布がふわっといい匂い。
パァン!
「うわっ!?」
乾いた破裂音。紙吹雪がぱらぱら降って、私の胸の上に一枚の星が落ちた。
机の端から、小さな丸い皿みたいなものがピョコンと飛び出してきて、
紙吹雪だけをふうっと吸い込んで戻っていく。
「なにそれ!」
「フブキくん(β)」
ひょうひょうとした男の声が、どこからともなく降ってきた。
知らない声だ。
「……あ、ちょっとまずいかも」
ぼん!
「うぎゃあ!?」
皿がもごっと膨らみ、さっき吸い込まれて圧縮された紙吹雪の塊が、
私の顔の右を弾丸みたいにかすめて飛んだ。
ベッドの金属フレームに当たって「ピン」と鳴り、そこだけ少し曲がる。
小さな煙の輪っかと金色の紙吹雪を一枚だけ、遅れて吐き出した。
「あぶな!!」
「仕様。たぶん」
「それ、仕様って言い張るの強すぎない!?」
「起きたね」
声がして、振り向くと、人が座っていた。
白衣でもスーツでもなく、くたっとしたカーディガン。
袖口に半田の焦げ跡と薬品っぽいシミ。
眼鏡はフレームが少し曲がってて、レンズの内側に細い傷が光る。
三日くらい伸ばした無精ひげが頬から顎に影を作って、髪は雑に後ろでひとつに留められてる。
前は撫でつけられてオールバックみたいになってるけど、こめかみのあたりから逃げた触覚が二本、ぶら下がってる。
マグカップを手で包んで、湯気の向こうで目だけがよく笑っていた。
「ここは……?」
「はーい、お目覚め記念。まずは呼吸、ゆっくり。
ここは……まあ、安全寄りの場所。そういうことにしとこう」
「執行官さんたちは?」
「ここには来ません。少なくとも、今日のぶんはねぇ」
短く、それだけ言う。嘘っぽい言い方じゃない。けど、全部は言ってない感じ。
私は手首の輪っかを見せる。
「それ、外してくれたら、だいぶ安心するんだけど?」
「承りました。では、ぱぱっといきましょうか〜」
彼が腰を上げると、思ったより大きく見えた。天井の光が肩でひとつ切れて、影がふっとかぶる。ひと呼吸ぶんだけ胸がこわばった。
彼がひょいと近づいて、ペンみたいな細い棒を一振りする。輪っかがするりと解けた。
「ありがとう!」
ベッドから立ち上がり、しびれた手をぶんぶん振って血の巡りを確かめる。ひと歩き近づくと、自然と見上げる角度になった。女子の中では高いほうの私でも、彼の肩は天井の光を一枚切る位置で、目線は鎖骨のあたりに引っかかる。
「あ、自己紹介!私はかんな。NULLだけど、かんな。あなたは?」
男の人は、わざとらしく咳払いしてから言った。
「いや〜自己紹介タイムですね。僕、識別はVA-510219で通ってます」
「名前はないの?」
「僕も名前がなくなった後の時代の生まれでして」
「ふーん……お仕事は?」
「研究と運用をちょいちょい。機械の片付け、書類の片付け、あと片付け全般をですねぇ〜」
片付けが多くない?
彼が指先で机の上の小さな立方体をコトンと転がすと、
空気がすこしだけ甘くなくなった。消毒薬っぽい匂いが薄まる。
「それは?」
「クーキまるくん」
いちいち発明品(?)がちょっとかわいい。
「そういえば!さっきの、もくもくのあと、私……」
「いやぁ、あの時はですねぇ〜、白いのがドバッと出まして。これはイケナイ!って思いましてね、安全第一で、ちょいと固定して、びゅっと移動を。クラッカーのほうが性に合ってるんですけどねぇ」
彼は指を鳴らす。天井の角で、小さな紙の旗がひらっと出て「WELCOME」とだけ書かれて消えた。
旗を支えていたちいさなポールは消えずに、鼻先をすっとかすめて落ちる。
「おっと」
「それは!?」
「アイサツくん」
「連れてきたのは、執行官さんじゃなくて、あなた?」
「そうでしてねぇ」
即答。胸の中で、何かがコトリと転がる。助かった、とは言えない。だって私はちゃんと、つかまって、ここにいる。
「危ないことはしませんよ〜。驚かすのは、ついクセになっちゃってて。」
「ふむ」
私は彼の机の上にある付箋を見つめる。「牛乳買う」が二枚ある。大事なんだ、牛乳。
「それで、VA-ご…510……あれ、510219? ごめん、噛んだ。長いし名前ないなら私がつけちゃっていい?」
「やった~!かんなサンにつけてもらえるなら僕なんでも使いますよ!」
口が先に動いた。
「じゃあ、今日からあなたは『佐々木』でどう?」
男の人――いや、佐々木は少しだけ目を瞬いた。
「……理由は?」
「似合う。いま思いついた。あと、ささっと動く感じ。佐々木。ね?」
私が笑うと、彼も小さく笑った。
「採用で〜す。かんなサンがそう呼ぶなら、今日から私は佐々木で〜す」
「やった」
私は親指を立てる。
「で、佐々木は、私になにをしてほしいの?」
「いや〜、わたくしこと佐々木は、かんなサンの歌声に感動を受けましてねぇ!これはぜひ僕も支援したい!って思ってたんですよ〜。だから差し出がましくも、まずは安全第一、歌える場所の確保と、ちょっと見つかりにくい通り道の整備、それから機材の面倒をさせていただきたいな、と。」
彼は机の上を指でトントン。
透明の付箋がふわっと三枚、空中に浮いた。
一枚目には『歌える場所』と手書き。防音、ノイズカット、夜でもOK。
二枚目『見つかりにくい経路』。ミラー配信、遅延、切り替えルート。
三枚目『機材と生活』。マイク、インイヤー、予備電源、ごはん、寝る場所。
「それって、支援?」
「そうですね。まずはここから」
「見返りは?」
「ない」
一拍。彼はマグを口に運んで、コーヒーをひと口、ふくむだけで飲まなかった。
怪しい。めっっちゃ怪しい。けど、嫌いじゃない。むしろ、ちょっと嬉しい。だって、ここ、あたたかいし。
「暴力とか、する?」
「できるだけしない。趣味じゃない」
即答。そこだけは、ちょっとホッとする。
「でも、さっきは、私、こう……」
手首の輪っかの真似をしてみせる。
「必要最低限の固定はします。安全のためでしてねぇ」
「ふむふむ。正直者だ」
私はニヤッとして、ベッドから降りた。足、ちゃんと動く。
「ここ、いいね。植物かわいいし、付箋いっぱいだし。『ななし』ってセンス好き」
「お、そういってもらえると柄にもなくがんばった甲斐がありますね。」
彼が窓辺のパイプをツンと触ると、観葉植物の上にだけ小さな霧がふわっと落ちた。
霧の粒が一つだけ弾かれて、コンセントの方へぴゅっと飛ぶ。
彼が手のひらをひらりと振ると、粒は方向を変えて鉢に吸い込まれた。
「なにそれ!」
「ナナシレインくん」
「それと、もうひとつだけ、いい?」
私はくるっと振り返る。
「私ね、歌うことのほかに、もう一つやりたいことがあって――自分のルーツ、知りたいんだ。全然昔のこと覚えてなくて……こっちも協力してくれないかな?」
佐々木の手が、ほんの少しだけ止まった。マグを口に運ぶ。コーヒーを、口に含む。
「……調べてみましょう。でも、いいんですか?いきなり会ったアヤシイ人に自分の過去探らせちゃって」
目は笑ってるのに、湯気の向こうで、言葉だけが少し重い。
彼はマグをそっと置いて、目の笑みを戻した。
「まずは、ここでの暮らしを整えましょう。話はゆっくりで」
「うん!」
私は笑って、彼の机の付箋を一枚、指でトントンした。「牛乳買う」
「これ、私の分も入れといてね。あとで一緒に買いに行こ」
佐々木が指をぱちん。棚の小さなランプが一つだけ点いて、低い電子音が短く鳴る。
「いま、在庫に“かんな分”を足しました!これからよろしくお願いします~~!」
「これからよろしく!佐々木!」
そういった瞬間、さっきのランプが合図だったみたいに、
ピッ、ピピッ。天井の隅でミニホイッスルが鳴って、
ぼふっ。棚の奥から小さな空気砲が一つ、二つ、三つ。
ぽふっ、ぱんっ、と連鎖して、書類と透明付箋がふわっと舞い上がる。
さっきのランプの下で、小さな装置が点滅して、紙吹雪をひとつかみだけ撒いた。
観葉植物の札「ななし」がぴらりと揺れ、アクリルのクリップが私の耳横をかすめて落ちる。
「わぁ、きれい……って、挨拶の圧つよ!これは!?」
「カンゲイくん(自動)」
胸の奥が、ぱっとあたたかくなる。歓迎されてる――そう思った。
見た目は、くたっとしたカーディガンに無精ひげのエンジニア系お兄さん。なのに、口を開くと祭りの司会者みたいにひょうひょうとしてて――そのギャップが、ちょっとおかしくて、ちょっと安心する。
外はまだ、どこかでサイレンが鳴っている。ここだけ、静かで、ちょっと変な匂いがして、でも、悪くない。
新しい物語の始まり――。
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……ひと呼吸おいて、部屋を見渡す。
舞い上がった書類は、散乱というより、元より増えたみたいに机の端に積もっている。透明付箋は壁まで泳いでいって、勝手に「歌える場所」「経路」「機材と生活」の欄に一枚ずつ貼り足されていた。
ああ、だから“片付け”が業務の大半を占めるのか。ちょっとだけ納得。