名を失った都市にて
かんながライブを終えた夜、崩れかけたビルの鉄骨が冷たく鳴り、端末にはさっきの歌の切り抜きが次々と生成される通知が走る。
廃墟に響いたあのライブと名乗りは、RAとVAをまたいで拡散し、熱狂と冷笑、警告と戸惑いを同時に生んでいた。
同期ラインのランプが点き、短い動画とリミックス音源がRAとVAを往復する。流れるのは番号とログばかりで、名はすぐに滲んで消える。
RAの掲示板には短い映像の切り抜きが並ぶ。
VAのタイムラインにはリミックス音源と、整列した感想の統計が流れていた。
『鳥肌やば』『神回』『でも規約違反じゃ?』
『マジで本名は危険』『いや、胸に刺さった』
かんなはそれらを眺めて、小さく笑う。
「やっぱり、届いてる」
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翌朝。
差し込む光が頬を照らし、かんなは目を覚ました。
埃の舞う廃墟は静かで、腹の奥がからんと鳴る。
「……おなか、すいた」
靴を鳴らして外へ出る。角を曲がると、無人コンビニの扉がすっと開いた。
冷たい蛍光灯、整然とした棚。人の気配はなく、機械の呼吸だけが響く。
パンと水をレジに置くと、昨夜のライブで得たギフト残高〈1200〉が表示された。
だがすぐに、灰色の警告が浮かぶ。
〈保留中/本人確認が完了していません〉
〈人格IDをリンクしてください〉
「だから、それがないんだってば」
決済は赤い輪を描いて戻り、商品は棚に吸い込まれていく。
かんなに残ったのは、空腹とため息だけだった。
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「しょうがない」と吐き捨てたかんなは配給所へ足を向けた。
列は短く、番号だけが呼ばれる無機質な空気の中――
「おばちゃ~ん!!!」
かんなはぱっと顔を上げ、大声で手を振った。
奥からふくよかな女性が現れ、笑いながら袋を抱えてやってくる。
「はいはい、今日も来たねぇ、かんなちゃん。ほら、パンと水。食べなさい」
かんなは袋を両手で抱え、目を潤ませる。
「ア”リ”ガ”ト”ゴ”ザ”イ”マ”ス”ゥゥゥゥ!!!」
列の人たちがぎょっと振り返るが、当人たちはお構いなし。
「昔はあんた、遠慮して泣きながら受け取ってたじゃない。
今じゃ図太くなったもんだねぇ」
「だってぇ~おばちゃんのパンでわたし生き延びたんですもん!!
命の恩人であり神ですぅ!!!」
おばちゃんは腹を抱えて笑い、かんなの背中をぽんぽん叩いた。
「いいからしっかり食べな。若い子が倒れたら笑えないよ」
かんなはパンを高く掲げ、鼻をすすりながら叫んだ。
「今日も人類に栄光あれええええぇぇぇ!!!」
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かんなはパンをかじりながら、ふと思いついたように口を開いた。
「ねぇ、おばちゃん。……名前って、持ってる?」
おばちゃんは一瞬ぽかんとした顔になり、それから声をあげて笑った。
「また変なこと聞くねぇ。VAで名前なんて持ってる人、今じゃほとんどいないよ」
「やっぱり……」
「昔からいる人なら、たまに覚えてる人もいるけどね。あたしもバーンアウト前は呼ばれてたよ。
でももう誰も使わないし、番号があれば生活は回るし――忘れられちゃったさ」
おばちゃんは袋を抱え直しながら、少し声を落とした。
「RAにはまだ名前があるらしいけど、こっちに持ってくるのは禁じられてるしね。
まぁ、あんな事件もあったし、そんなもん抱えてたら危ないって扱いさね。だから、VAの若い子は“名前”って言葉自体もう知らないのさ」
軽く笑ってはみせるものの、その目尻にはかすかな寂しさが滲んでいた。
「便利すぎると、人間の形ってのも薄くなっちゃうんだねぇ」
かんなはパンを胸にぎゅっと抱きしめる。
固いはずなのに、噛むたびに熱が喉を満たしていった。
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夕刻。
かんなは廃墟に戻り、再び機材を並べ始めた。
ドローンの羽音が低く震え、チェックランプが次々と緑に変わっていく。
「よし……今日もいくよ」
昨夜のバズがまだ尾を引いている。
タイムラインには切り抜き動画が溢れ、スタンプや拡散タグが跳ね続けていた。
それと同時に、監査局からの通報も山のように積み上がっている。
パネルに指を置くと、カウントダウンが始まる。
「3、2、1……配信開始!」
赤いランプが点灯した瞬間、画面がざらりと揺れた。
映像がブロック状に崩れ、音声も砂を噛むように途切れる。
〈当局によるジャミング信号を検出〉
〈健全性スコア低下〉
「おおっと、来たか」
かんなはむしろ楽しそうに笑った。
チャット欄が荒れる。
『ジャミってる!』
『完全に狙われてるぞ』
『昨日のバズのせいか…』
けれど、ノイズの裏から――声だけが、鮮やかに抜け出した。
```
ひかり ほどける
なまえ 芽吹く
```
廃墟に響いた歌声はフィルタをすり抜け、ネットの向こうへ真っ直ぐ届いていく。
ブロックノイズが画面を覆っても、音だけは途切れなかった。
『映像止まってるのに声は聞こえる!?』
『どうなってんだこれ、奇跡だろ』
『歌がシステムを突破してる…!』
『ジャミングに勝つとか熱すぎるw』
かんなは一歩踏み出し、声を重ねる。
数字では測れない振動が廃墟を震わせ、埃が宙に舞い、光に照らされて花弁のように散った。
「ほらね。声は、消せない」
チャット欄が一斉に爆発する。
歓声と笑いと涙の絵文字が混ざり合い、熱は瞬く間に広がっていった。
通知のカウントが跳ね上がり、健全性スコアの赤枠が画面端にちらつく。
まるで世界が一緒に心臓を打ち鳴らしている――その脈動は、同時に監視の網にも触れていた。