歌声が響く廃墟で
私以外、誰もいない廃墟の天井から差し込む夕日が、舞い上がる埃に琥珀色の筋を描いていた。
天井はところどころ抜け、薄い雲の流れがそのまま見える。切れ目から落ちる光は、屋内なのに外の広さを連れてくる。
湿ったコンクリートの匂い。冷たい床の感触。
けれど胸の奥では、今夜も特別な時間が始まる予感が脈打っていた。
今夜は、番号の海から一人でも多くの『名前』をすくい上げる。
私は手首のブレスレットを二度タップする。
淡いブルーの操作パネルが宙に浮かび上がり、「配信開始」のボタンがやわらかく光る。
指先で押すと、カメラドローンが羽音のような低い音を立てて浮上。
私を一周し、音響システムが短い確認音を響かせる。
「配信開始まで、10秒」
パネルのカウントダウンが落ちていく砂粒のように進む。
私は髪を直し、深く息を吸った。
「3、2、1……配信開始」
赤いランプが灯り、私の姿が世界に解き放たれる。
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「みんな!」
両手を大きく広げる。
画面越しに伝わる熱が、胸を押し上げる。
廃墟の奥で、小さな光が揺れた。
VAへのブレインダイバーを可視化する簡易ホログラム――RAからのアクセスだ。
チャット欄が一気に溢れ出す。
『準備OK!!』
『きたああああ!』
『かんなちゃーーん!推し!!!!』
『仕事サボって見てるw』
『音割れ待機』
その中に、見覚えのある名前があった。
『今夜も盛り上がろうぜ! ― 高橋』
そのコメントと共に、浮かんでいた小さな光が点滅し高く舞い上がった。
やっぱり。あの光は高橋くんだ。
三ヶ月前まで、彼はただの「RA-7834921」だった。
けれど私が「番号じゃなくて、名前で」と呼びかけた夜、彼は震える声で名乗った。
「……高橋です」
今の彼は、当時が嘘のように陽気で、誰よりも場を盛り上げてくれる。
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「今夜の最初の歌は――」
半透明のチャット欄が、期待で一斉に息をのんだように静まる。
光の粒子が文字を形作り、宙にゆらめいている。
「『名前を呼んで』」
ブレスレットが淡く光を放ち、音響システムが低く起動音を鳴らす。
カメラドローンが生き物のように宙を舞い、最適な角度を探す。
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息を吸い込む。
廃墟は橙色の夕闇に沈み、まるで時が止まったように音を失っていた。
頭上の抜けた空が高い。息が伸びる。
かすかに届くのは、遠い街のざわめき。
古びた配管を抜ける風の吐息。
張り詰めた静寂は、深い水底のように重く、私の心臓の鼓動さえ響き渡る。
その中心に立つ私が、ここから世界を変える。――ここが私のステージ。
指先で宙に円を描く。
楽曲データが呼び出される。
――静寂が裂けた。
透明感のあるシンセベースが廃墟と私の身体を震わせ、きらめくハーモニーが崩れかけた壁に反響する。
開いた天井から風が降り、音は空へ抜けていく。埃まみれの空間が、一瞬で音楽の舞台に生まれ変わった。
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私は歌い始める。
```
遠い空の向こうで 誰かが呼んでる
忘れかけた声を もう一度抱きしめて
```
静かなAメロが、崩れた壁の隙間に溶け込んでいく。
声に応じて光の粒子が舞い、空間が淡い彩りを纏った。
チャット欄の文字は止まり、まるで世界全体が耳を澄ませているようだった。
```
数字の海に沈んで 見失ったままの僕
探してる いまもずっと
```
切ない旋律が鉄骨を震わせる。
Bメロに入ると、音は少しずつ厚みを増し、ホログラムの光が天井から雨のように降り注ぐ。
朽ちた廃墟が、宝石の箱のように輝き始める。
---
そして――サビ。
```
名前を呼んで 名前を呼ばれて
ぬくもりの光を確かめたい
番号じゃない あなただけの
美しい響きが ここにある
```
感情が爆発する。
私の声は震え、光は限界まで明るく燃え上がる。
音楽はさらに高まり、ラスサビへ。
重いビートが廃墟を揺らし、床に光の波紋が広がる。
一歩進むたびに、光が足元で跳ねた。
まるで光の中を踊っているような錯覚。
光の粒子が爆発するように広がり、天井から降り注ぐ光のカーテンが私を包む。
一拍、息をためる。胸の奥で音が軌道を変える。
```
名前を呼んで 名前を呼ばれて
私たちは ここに生きている
一人じゃない 繋がってる
愛を込めて 呼び合おう
```
私の声が、かつてないほど高く、強く、温かく廃墟に響き渡った。
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歌が終わると、音と光は静かに消えていく。
残ったのは――息を潜めるような静寂。
しばらくして、チャット欄に歓声の洪水が押し寄せる。
『鳥肌』
『声がバチクソ刺さる』
『お前ら泣くなwww』
『神曲確定』
『RAでこれ流して大丈夫かよ…』
最高潮の熱が、まだ肌に残っている。さっきの一曲は、私のなかの「最高」を更新した。
歓声が廃墟の壁で跳ね返り、画面越しでも頬に温度が移る。胸がいっぱいになる。
――けど、私はここで止まらない。もう一歩、踏み込む。私たちが本当に欲しい呼び方へ。
「みんな、ありがとう。でも……番号じゃなくて、名前で呼び合おう」
先ほどの熱狂から一転、チャット欄の空気が変わる。
『本名出すの?』
『そもそもVA民には名前なくない?』
『規約違反じゃ?』
『やめとけ危ないって』
そして――
『俺は高橋だ!』
私は笑みを浮かべる。
「高橋くん!ありがとう!」
それを合図に、ぽつぽつと名乗りが飛び込む。
『美香です…緊張する』
『モモです…!推してます!』
私は一人ずつ名前を呼んでいく。
そのたびに、光が揺れ、廃墟が温かさで満ちていく。
画面端で健全性スコアが黄色に変わる。見なかったことにして息を吸う。
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次の歌では、即興で名前を織り込む。
「高橋くん、ありがとう!」
「美香さん、緊張しないで!笑顔になってくれると嬉しいな!」
「モモさん、今夜も一緒に!」
チャット欄は爆発する。
『呼ばれたあああ!!』
『RAうらやまww』
『推しに名前呼ばれるとか昇天するわ』
『名前、結構いいな』
『マジで大丈夫なのこれ…?』
歌うほどに、距離は縮まる。
高橋くんのコメントが目に入った。
『最高!』
同時に、奥で揺れる小さな光が跳ねる。
まるで歓声を上げているかのように。
名前には、人を変える力がある。
そのたびに、私の胸は熱くなる。
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配信を終え、夕日の最後の光を見上げる。
奥に漂う光へ声をかける。
「高橋くん」
返ってきた声は元気いっぱい。
「今夜も最高だった!」
声とともに光が弾む。
三ヶ月前の怯えた彼を思えば、信じられないほどの変化だ。
けれどこれは始まりにすぎない。
もっと多くの人に、名前を呼び合う喜びを届けたい。
……ただ、胸に手を当てると、説明できない空白感が疼く。
思い出そうとすると、霧がかかったように遠ざかる。
私は出口へ歩き出す。
明日もまた、誰かの名前を呼ぶために。
夜風に歌を乗せ、小さく口ずさんだ。
```
名前を呼んで 名前を呼ばれて
私たちは ここに生きている
```
歌声は夜空に溶け、未来への予感を運んでいく。抜けた天井の四角に、小さな星がひとつ滲んだ。