第1章:すれ違う視線
東京のオフィスタワーの25階。ガラス張りの会議室に、午後の陽光が斜めに差し込む。私は書類の束を抱え、深呼吸してからドアをノックした。
「高梨沙織、入ります」
中では、部長の佐藤さんがいつもの調子で冗談を飛ばし、新プロジェクトの概要を説明していた。その隣に、初めて見る顔があった。
黒いスーツに身を包んだ男。年齢は30歳前後だろうか。整った顔立ちに、どこか遠くを見るような瞳。名札には「神崎悠真」と書かれている。
「高梨さん、このプロジェクトの資料、まとめてくれてありがとう。さすがだね」佐藤部長の声に、私は小さく会釈する。
でも、なぜか神崎さんの視線が私に絡みつく。まるで、私の心の奥を覗き込むような――そんな気がして、胸がざわついた。
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私の仕事は、広告代理店の企画部でクライアントの提案書を作ること。締め切りに追われ、同僚の愚痴を聞きつつ、淡々とした日々を過ごしてきた。28歳、恋愛なんて遠い記憶。学生時代に付き合った彼とは、すれ違いが原因で別れて以来、心に蓋をしてきた。
「高梨さん、今回のプロジェクト、結構大規模だから気合入れていこう!」同僚の美咲がランチの席で笑う。
「うん、そうだね」私はサラダをフォークでつつきながら、ふと朝の神崎さんのことを思い出す。あの視線。何か、引っかかる。
「ねえ、さっきの新入りの神崎さん、なんかミステリアスじゃない?」美咲が目を輝かせる。「イケメンだし、噂だと海外の支社から異動してきたらしいよ」
「へえ……そうなんだ」私は興味なさそうに答えたけど、心のどこかで波が立っていた。
その夜、残業でオフィスに残っていた私は、資料室で神崎さんと鉢合わせた。
「高梨さん、遅くまでお疲れ様」彼の声は穏やかで、どこか温かみがあった。
「神崎さんも……お疲れ様です」私は少し緊張しながら答える。
彼は棚からファイルを取り出しつつ、ふと言った。「このオフィス、夜は静かだね。まるで教会みたい」
「教会?」私は思わず聞き返す。
「うん。静けさの中に、何か大きなものがある気がするんだ。君は、そういうの感じない?」
私は言葉に詰まった。教会なんて、子供の頃に親に連れられて行ったきりだ。でも、彼の言葉には不思議な重みがあった。まるで、私の心に眠っていた何かを揺さぶるように。
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翌日からのプロジェクト会議で、私は神崎さんと頻繁に顔を合わせるようになった。彼は頭の回転が速く、クライアントの心を掴む提案を次々と出す。なのに、どこか掴みどころがない。
ある日、会議の後に彼が私に話しかけてきた。「高梨さん、君の資料、いつも丁寧だね。まるで誰かを救うために書いているみたいだ」
「救うだなんて、大げさですよ」私は笑ってごまかしたけど、彼の目は真剣だった。
「いや、本当に。君の仕事には、誠実さがある。それって、簡単なことじゃない」
その言葉が、なぜか胸に刺さった。誰も気づかないような小さな努力を、彼は見ていたのだ。
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