第55話:永遠の眠りを望む
天界を追われた――いや、自分の意志で天界を出ていった時、私が持っていた荷物はそう多くはなかった。
筆と墨、そして長方形の紙を何枚か。それが私の装備だった。
天界から降りて、最初に見たものは大きな海だった。それが琵琶湖という湖だということを住人に聞かされ驚いたものである。
この頃のまだ純粋だった私は、荒れ狂う琵琶湖を鎮めるため、琵琶湖を支配する黒竜に嫁入りすることに躊躇はなかった。
私の数少ない装備で、黒竜を封印し、翌日には住人に何も告げず、凪いだ琵琶湖をあとにしたがそれはそれ。
当時、地上では紙は貴重なものだった。天界で用意したぶんを切らして、葉っぱに筆で書くことで御札代わりにしたこともある。それでも効力はあるのだから、やはり神気が込もっているかどうかの違いであろう。
とにかく、先代の弁財天から教わった札術ひとつで日本を北上し、多くの妖怪を打ち倒し、あるいは封印し、あるいは契約を結んだ。この頃が大暴れできて一番楽しかった時期だったと思う。
そして、運命の北海道に私はたどり着く。
その村の住人達は、とてもひもじい思いをしていた。
凍てつく雪と氷に閉ざされ、畑もろくに育たず、山の獣を狩ることでしか命を繋げない者たち。
そんな彼らが、私を財産の神様だと知った時、取った行動は――正しくないとは言えど、責めることは出来ない。
ごめんよう。
ごめんよう。
彼らは泣きながら私を神社の御神体に縛り付ける。
私は彼らの行為を甘んじて受け入れた。事情が事情であったし――人間の役に立てるなら、これも本望であった。
しばられ地蔵ならぬ、しばられ弁天。おまけに封印の御札まで貼られてまったく身動きが取れなくなった。
いや、身動きを取るまでもなく。私の意識は泥の底に沈むようにそこで途切れた。
次に目を覚ました時、目の前に男の顔があった。
灰色の目。長い銀髪。真っ黒なロングコート。
それらは私の封印された当時にはなかったもので――明らかに、異邦人だった。
封印の御札はすでにその男の手によって剥がされ、今は縛られていた縄をほどいているところだった。
「――やめて。ほどかないでください」
私は自分でも驚くほど冷たい声をしていた。
「……うん? こうやって縛られているのは君の意志なのか? そういう趣味なのか?」
男は表情一つ変えず、小首をかしげる。
「私の意志ではないし、そういう趣味でもありません。でも、村を栄えさせるためには仕方ないのです」
「村? ……ふむ」
男はその言葉を聞いても縄をほどくのをやめない。
「あの、話聞いてますか」
「君は一度、外の様子を見たほうがいい。だから外す」
縄をすべてほどいて、男はひざまずき、私の手を取る。
二人で御神体の置かれた本堂を出て、下界を見渡せる場所へ移動する。
下界は、当時とはまったく様変わりしていた。
もはやそこは村ではなく――町、だった。
舗装された道路。クリーム色の建物が立ち並ぶ。色とりどりの家の屋根。
「おそらく君が封印されてから五十年から百年は経っている。君は見事、村を救い、栄えさせた」
男は私の方を見て、若干微笑んだ、ように見えた。
「だから、もう君は一人で頑張らなくてもいいし、苦しまなくても大丈夫だ」
私は別に頑張った覚えもないし、苦しんだわけでもない。
私の『弁財天』としての神格が、無意識のうちに村を救ったに過ぎない。
私は何もしていない。
そう男に伝えると、
「……そうか」
と、やはり表情筋の足りていない顔で呟く。
「君はこの村――いやもう町だが――を救ったわけだが、どこか行くあてはあるのか」
「……ありません。もともと放浪の身でしたから」
「なら、うちの店で働け」
「店?」
問い返す私に、
「俺は今日からここに店を開く」
男は高らかにそう宣言したのだった。
「……あの、ここ神社ですよ?」
「構わない。正体を隠せたほうがいろいろと都合がいい」
「どんな怪しいお店を開く気ですか」
私は思わず身構える。一応この神社は私――弁財天を祀った神社である。そんな自分にとって神聖な場所で変な商売されても困る。
「この町――当時は知らんが今は宝船市と呼ばれている――には大きな魔力の流れがある。君もそれにつられて来たのでは?」
「……」
男の発言に、心当たりがないわけでもない。
あてどもなく放浪していたつもりだったが――魔力の流れに吸い寄せられていた、のか。
「この魔力に吸い寄せられて、多くの悪魔や妖怪――総称してアヤカシが町に現れる。それを退治したり交渉する店を作りたい」
「要は妖怪退治屋、ですか」
「できれば退治する前に交渉しておきたいところだが、まあ話に付き合ってくれるアヤカシは少ないだろうな」
男はフッと息を吐く。
「で、返事をお聞かせ願いたい、弁財天殿?」
「……まあ、衣食住を保証してくれるなら、私はどこだっていいんですけど」
「決まりだな。俺の名は■■■■。『黒猫』と呼んでくれ」
「私の名は――」
ゴポ、ゴポ。
冥界の泥の中を、泡が立ち上る音だけが響く。
ああ、ここはとても静かだ。
私が――弁財天が地獄に赴き、裁きの場に現れた時、閻魔大王はたいそう驚いていた。
死神ネクロに刈り取られ、地獄に落ちた魂。来るのが早すぎたというより、来るはずがないのだ。不老不死の神なのだから。
大王は苦渋の末、私を冥界の泥の中に眠らせる処分をした。申し訳ないことをした、と思う。閻魔大王に忖度をさせるなど。
そうして私は、泥の中を揺蕩っている。
ゴポ、ゴポ。
笑い声も泣き声もなく、怒鳴り声も歌声もなく。
ここはとても静かで――落ち着く。
泥は温かく私を包み、私はまどろんでいく。
このまま眠ってしまおう。なにかやり残したことがある気がするが、なんだかもうどうでもよかった。
私が意識を手放そうとした、その刹那。
「――店長――!」
薄く目を開けると、虎吉がガラスケース越しに、私に向かって叫んでいるのが見えた。
冥界の泥の刑は、冥界の泥に沈んだ罪人を見せしめにするために、ガラスケースが張られ、中の様子が見えるようになっている。
「虎吉……か……。何の用だ? あとにしてくれ……。今とても眠いんだ……」
「まだ寝ちゃダメです! あなたにはまだやるべきことがあるんだ!」
「もうどうでもいい……寝かせてくれ……私は永遠に眠っていたいんだ……」
気だるく答える私に、虎吉は両手をわなわなと握りしめる。
次の瞬間。
バリーン、と音がして、ガラスケースが割れた。
ドバッと泥がケースから溢れ出し、死者たちが流されていく。
泥の外は寒い。思わず身震いする。
虎吉は私の肩に手を置いて、真剣な表情で私を諭す。
「頼む弁財天、俺達に力を貸してくれ! ウルフェンと――黒猫を倒せるのは、アンタしかいないんだ!」
黒猫様を、倒す。
その言葉に、私は震え上がる。
「――私のこの手で、恩人を殺せというのか?」
「アンタだってわかってんだろ。アンデッドになっちまった黒猫をこのままにしておくわけにはいかねえだろうが」
アレはもう、人間の形には戻せない。
「アンタの手で、楽にしてやってくれよ……」
虎吉は、今にも泣きそうな顔で、そう言ってくる。
虎吉だって、私の手を汚させたくはないのだ。
でも、虎吉も他のアヤカシも、黒猫様には勝てない。アヤカシ堂の創設者にして初代店長。その強さは私も骨身にしみている。
黒猫様に勝てるとしたら――私しかいない。いや、私でも互角に戦えるか分からない。
だからこそ、この少年は私に懸けた。
神とは、人を試し、人に罰を与え、――人を愛するもの。
だからこそ、神は人々の願いに応えなければならない。
「――敬語、忘れてるぞ、たわけ」
私は虎吉の額に軽くチョップして立ち上がる。
「閻魔、すまん! 地獄から脱獄させてもらう!」
「あーいいよ、アンタみたいな神様を地獄に落とすなんざ、俺にどんな罰が下るかわかりゃしねえ。さっさと行っちまいな」
閻魔大王はしっしっと手を振って私に応える。
「――帰ろう、人間界へ!」
〈続く〉




