第2話:鳳仙神社の巫女、あるいはアヤカシ堂の店主
その神社は『アヤカシ堂』と呼ばれていた。
正式名称は『鳳仙神社』という。所在地の『宝船市』の音読み『ほうせん』が漢字を変えて残った結果が名前の由来なんだそうだ。
で、その神社は山の中にある。山とはいってもそれほど高くはない。五十メートルほどの小山の斜面にある石段を百段登れば、山の中腹に社がある。老人が参拝するには少しきついかもしれないが、本当に神社に用事のある人間ならば石段が短くなるから大丈夫だ。どういう仕組みなのか俺にはよくわからないが、店長がそういう仕組みなんだというのだから、それで納得するしかない。
山の中だから、アヤカシ堂の周囲は当然ながら木々に囲まれており、普通はそこから人が入ってくることはない。石段を登るしか神社を訪れる手段はない。なので、普段は境内を掃除しながら石段の下をチェックしていればいい。目はいいから、百段下にいる人間の顔貌はすぐわかる。だからこそ驚いたのだ。
――香澄。
香澄は俺――番場虎吉の幼馴染だ。こんな寂れた神社に何の用だか知らないが、この場所ではできれば顔を合わせたくないと思った。アヤカシ堂で働いていることは同じ高校の人間には知られたくなかった。
「あれ、虎吉? こんなところで何してんの?」
そんな俺の願いも虚しく、数分後には石段を登りきった香澄が不思議そうな顔で俺を見ていた。どうやら神社の意思は――そんなものがあるのか知らないが――香澄を拒絶しないらしい。残念なことに。
「……どうでもいいだろ」
「あら、何よその態度」
俺の反応に香澄は白けた目で俺を見る。その目は俺の頭からつま先まで視線でなぞり、手に持った箒で止まった。
「……あんた、働いてるの? ここで――アヤカシ堂で」
「だったらなんだ」
「別に。物好きだなって思っただけ」
ふん、と鼻を鳴らされた。俺を、そしてこの神社を馬鹿にするような態度が神経を逆撫でた。
「……何しに来た」
「決まってるでしょ。取材よ」
香澄は首からぶら下げたカメラを持ち上げた。この女は宝船高校の水泳部の平部員と新聞部の副部長を兼部している。
「取材って、こんな神社の何を取材すんだよ」
「アヤカシ堂の取材って言ったら、『あの噂』の裏付けに決まってるでしょ」
本当はこんな馬鹿馬鹿しいこと、私はしたくないんだけどね。
ゆるゆると首を振って、香澄はため息をついた。
無理もない。アヤカシ堂のあだ名の由来――妖怪の出る神社なんて、今時の高校生が信じるはずがない。新聞部というやつは案外暇なのか、よほどネタ不足なのかもしれない。
「とにかく、この神社の神主に取材の申し込みをしたいんだけど、ちょうどいいからアンタ取り次いでくれない?」
「お前の態度が気に入らねえ」
「ガキみたいなこと言ってんじゃないわよバカ虎。参拝客に対する態度とは思えないわねえ」
軽くジャブを交えるように憎まれ口の応酬をする。
「はあ……仕方ねえな。一応は店長にお伺い立ててみるけど、オーケーしてくれるとは限らないからな」
「店長……?」
首をかしげる香澄を置いて、俺は社務所に向かった。ガラリと引き戸を開けると、玄関の奥には居住空間が広がっている。靴を脱いで居間に向かった。
「店長、取材希望者が来てるんですけど」
「男か? 女か?」
開口一番、そんなことを尋ねる店長に、思わず苦笑を漏らした。
「女です」
「通せ」
ごく短い会話で取材許可が出た。すぐに玄関に戻る。
「きゃああっ!」
靴を履いている途中で、少し遠い悲鳴が聞こえた。香澄の声だ。何事だろう。急いで靴を履き、社務所を出る。
「いやっ、来ないで、来ないでえっ!」
声は何故か本堂の裏から聞こえる。何故そこまで移動しているのかはわからないが、とにかく走った。
「どうした! 香澄!」
本堂の裏に回り込むと、香澄は壁を背にして尻餅をついていた。いやいやをするように、腕を大きく振って目の前の敵を追い払おうとする。顔は青ざめていた。その視線の先の敵は――。
狛犬、だった。
社の前で鎮座しているはずの一対二匹の狛犬が、侵入者を睨めつけ、鋭い牙をむきだして唸っている。冷たい石でできた犬歯は、今にも香澄の喉元に食らいつきそうな凶暴な光を宿している。
そんな一触即発な状況だが、俺は特に驚かなかった。驚かなかったが、内心焦った。
「おい、狛村! 獅子戸! 何してる!」
俺は狛犬と香澄のあいだに入って石の犬たちを叱った。狛村と獅子戸というのは犬の名前だ。
「おう、虎吉か。この女ァ、本堂の裏に来てこそこそ盗人みてェな真似してやがるから、ちっと驚かせてやったのよ」
「……すごく……怪しい」
能弁な狛村が事情を説明し、寡黙な獅子戸が頷く。
「狛犬が! 人間の前で勝手に動くんじゃねえよ!」
「んなこと言われたって、ワシらの仕事は番犬だからなァ」
「……怪しい奴に吠える……何が悪い……?」
俺が叱っても、狛犬は決して悪びれない。まずい。まずいまずいまずい。
背中に注ぐ香澄の視線が怖かった。
「……ねえ、その狛犬……なんなの?」
まずい。今もっとも聞かれたくないことを聞かれた。言い訳。何か上手い言い訳を。喋らなきゃ。喋らなきゃ。喋らなきゃ。
「…………ロボット」
俺はやっとの思いでそう返した。
「ロボット?」
「そう。ロボットだ。よくできているだろう」
「何の話だァ? 虎吉ィ」
「うるさい、俺に話を合わせろ。ロボットの振りをしろ。店長に言いつけるぞ」
「!」
狛犬に慌てて耳打ちをする。彼らは自らの使命を全うしただけで本来何の罪もないのだが、店長の名を出すとおとなしくなった。普段からよく躾けられている証拠である。少し申し訳なくなった。
「ヤ、ヤァ、ボクタチハ、コマイヌガタ、ロボットダヨー。シンニュウシャニハ、ホエルヨウニ、プログラムサレテルヨー」
狛村は急にカタコトで喋りだした。そこまで必死にさせてしまい、さらに申し訳なくなった。
「へえー、よく出来てるわねー。本物の石でできてるみたいなのに」
「……キヤスク……サワルナ……」
香澄は先程まで青ざめていたのもすっかり忘れ、獅子戸の頭を撫でたりポンポン叩いたりしていた。獅子戸はまだ噛み付きそうな顔をしているが、一応はおとなしくしている。
「で、お前何してたんだ? 本堂の裏で」
「別にー……裏から本堂の中を写せないかと思って」
要は盗撮しようとしていたのだ。取材許可を取り次いでいるあいだにそこまでするとは、呆れを通り越してプロ根性すら感じる。
「馬鹿なことしてんじゃねえよ、ったく……。ほら、店長から許可降りたから、とっとと取材して帰れ。お前らも元の位置に戻れ」
狛犬は、ウオン、と一声吠えて、本堂の表へと走っていった。
香澄を伴って本堂の表に戻ると、犬は既に台座の上に戻り、本来の姿のまま、もう動かなかった。ガラリと社務所の引き戸を開け、香澄を中へ入れた。
「店長、連れてきました」
「入れ」
応接室の引き戸を開ける。香澄は少しビックリした顔をした。
「店長って……巫女さん?」
「おや、可愛らしいお嬢さんじゃないか」
後ろで一本結びにされた、腰まである烏の濡れ羽色の艶髪。宝石のように美しい金色の瞳。透き通るような白い肌。巫女服。
店長――天馬百合はゆるく微笑んだ。
〈続く〉