序章 だからお願いもう一度だけ奇跡を
奇跡だとエミリオは思った。これはもう奇跡以外の何物でもない。
海水を含んだ衣服が容赦なくのしかかる。ともすれば倒れそうになる身体に鞭打って、クロワを岩場に引き上げた。今年で十四になる少年の身体は、エミリオの想像以上に重かった。
「クロワ、おい、大丈夫か?」
青白い頬を軽く叩けば、クロワは大きく咳き込んだ。エミリオは胸を撫で下ろした。途端、疲労が押し寄せてくる。
「りお……姉」
息も絶え絶えにクロワが呼ぶ。
「泳げ、たの……か?」
「奇跡の生還を果たした第一声が、それ?」
エミリオは力なく苦笑した。
「同じことをもう一回やれって言われても無理。二回も奇跡は起こせないよ。さすがの私でも」
空は快晴。頬に当たる潮風が心地よい。目の前に広がっているのは、二人を呑み込み損ねた海。穏やかな顔をしてやることはえげつない。だから海は嫌いなんだ。女みたいで。
「次はアンタが助けてね」
エミリオは岩の上に寝そべった。本当に驚いた。集落の子供では一番泳ぎが上手いクロワが溺れているのを見て目を疑い、とっさに海へ飛び込んだ自身の行動に正気を疑った。しかしなによりも驚いたのは、万年カナヅチだった自分が少年一人を抱えて岸まで泳げたことだ。人間、死ぬ気になれば何でもできるものである。
「……クロワ?」
返答がない。いぶかしんでエミリオは体を起こした。浅い呼吸を繰り返すクロワは腕で目を覆っていた。波間に嗚咽が混じる。彼は泣いていた。
当然だ。危うく死ぬところだったのだ。戦場で暴れまわるエミリオとは違って、クロワは粋がっていてもまだ十四。怖かったろう。
エミリオは幼さの残る顔に手を伸ば――そうとした。
強烈な殺気に肌が粟立つ。とっさに身を屈めたエミリオの背に熱が走り、続いて痺れるような痛みが爆発した。体勢を立て直そうとしたら今度は肩に衝撃――矢だ、と知覚した時には身体が後ろへ飛んでいた。
「リオ姉ぇっ!」
悲鳴に似た声。目を見開くクロワの頬に手を伸ばそうとしたが、背後から引っ張る力には抗えなかった。
のけぞり海に身を投げ出す格好になったエミリオは雲一つない晴天を見た。あまりの青さに一瞬泣きたくなったが、感傷に浸る時間はなかった。海に呑まれる。沈む間際に頭に浮かんだことは諦めに近かった。
さすがに、二度目は無理だろうな。