一章 初めて見る生活 1
臭いがきつい。
ライドは鼻を抑えながら呻く。これは獣の油の臭いだ。今の人の大きな集落に近づいた時、まずその臭いにライドは閉口した。
地下の腐臭に比べればマシだが、無視できるようなものでもない。
そして、〈知覚〉に入る人、人、人。どれだけいるのか? 全員の動きを追ったら、頭が破裂しそうだ。
(蟻塚か!)
思わず突っ込む。
見るもの聞くもの全てが目新しいライドは目移りも激しい。時々鼻を押さえながらも忙しなく視線を走らせる。
塀の中、大通りと呼ばれる石畳の道は驚く程平らで、僅かに中央が高く、雨水が道脇の水路に流れるようになっている。石垣の建物は色鮮やかに色が統一され、ただ光を取り入れる穴ですら工夫が凝らされ、その造形と機能の美しさに目を奪われる。
体が震えるような技術。幾度となく立ち眩みを覚える。
進むと開けた場所に出る。広場だ。中央には大きな人の彫像がいくつも壁に彫られ、豊かな水が湧き、溜められている。遠目に見ても石とわかるのに、その肌や衣は本物であるかのように柔らかく、滑らかに見える。筋肉の動き、髪の毛に至るまでだ。
ライドは息を忘れて魅入る。地下で見た柱と同じ、遥か高みの衝撃に足元がふらつく。
壁に手をつき、体を支える。何度目だろうか? 戦士としてあるまじき醜態だが、衝撃が大きすぎて受け止めきれない。
程なく外の光は失われ、黒い闇が天頂から広がる。ライドは空の色の変化に呆けたように、上を向いたまま眺め、ため息を漏らす。
信じられないほど美しい変化だ。これはライドが暮らしていた世界ではない。そう思えてしまう。
「そうか。ここがあの世だな」
『ライド、帰ってきてくれ。1人で何処に旅立ってるんだ』
ソドムのため息が聞こえる。
見上げる空に見慣れた赤黒く分厚い雲はない。空と呼ばれるものは、これ程高くそびえるのか。試すまでもなく飛び上がっても届かない。
故郷の赤黒い雲は、上に行くほど水の中だった。ソドムにそう愚痴ると『意味がわからない』と一蹴される。
「ライド君? もう少し進んで欲しいな。あとで幾らでも見られるわな」
同じ場所でくるくると上を見たまま回るライドに、キャシーが半笑いで声をかける。既に、キャシー、ディーン、ハリーの3人しか残っていない。最後尾の護衛ですら付き合いきれずに先行し、解散した。どこの田舎から出てきたのか? ちらほらと行き交う住民達は、ライドの奇行に目を背ける。
「僕も2ヶ月振りの外は気持ちがいい。でも、そろそろお腹空かないかい? ライド」
ディーンの言葉にライドは振り返る。
そしてキラキラと目を輝かせて「凄い!」と笑う。子供っぽいと言いたければ言うがいい。ライドの心は今や子供だ。
少し前、地下から外に出たライドは凹凸のある岩肌の斜面に出た。絶えず流れる風は同じだが、臭いすら違う。改めて別の土地だと痛感する。
ライドの知る地上は、赤黒い雲から降りる赤く細かな水滴が人体を腐食させる常に薄暗い世界だ。
〈あれ〉を追い払ってから封印を受けるまでの短い間、輝くような彩りと光の世界を見たが、それを楽しむ余裕はなかった。すぐに封印された。
世界が消えていくとさえ思った天変地異に、抑えてみせると言って背中をむけて走る仲間達を思い出す。
何処かの土地で、彼等のなした仕事の結果を見れる日がくるだろうか。
少し離れた場所を見下ろすと、土や石の塀に囲まれたところがある。そこには多くの人の気配のあった。目的地ローレンだという。更に下、絶壁のような斜面の下に小さく見える港街が城砦都市ミラジ。その先に広がる煌めく水面が海だそうだ。こんな距離から海を見るの初めてだ。それほど視界が開けている。
これが地上か。感慨を通り越して心の躍動が止まらない。
「ライド、あれが死せる大地だ。見覚えないかい?」
ディーンの示す方向に目を向ける。そこ方角には、遠くに漆黒の壁がある。黒く切り立った壁だ。それは空の上では少し赤みがかった空に吸い込まれるように伸びている。別の方向や更に奥側にも、同じ黒い壁がうっすらと見える。つまり、囲まれている。
「いや、分からないな。前は遠くが見通せなかったな。あの先が人の住めないこの世の果て?」
「そう言われてる。で、あそこの壁の上の方に山が透けて見えるだろ? 一昨年はなかったんだ」
ライドは初めに示された漆黒の切り立った空間に再度目を向ける。
漆黒の空間が空に溶ける境から更に上に巨大な禿げた岩山がみえる。その尖った天頂部には黒くて四角い何かがある。相当に高い。背面に見える山々の数倍だ。背面に聳える山々とて頂きは白く、簡単に辿り着ける高さではない。
『霊山アンデレウェルトじゃないか。無くなる訳がない』
「アンデレウェルト?! あれが?」
ソドムとディーンの会話を聴きながら、不思議な世界だと思う。あんな山が消えて現れるのか?
商人を含めた大集団は眼下に見えた壁に向かって進む。
近づくにつれて壁の大きさに圧倒される。高さは大人六人分はある。知覚できる厚さも大人二人分以上だ。それが広範囲の集落を囲っている。
思わず「これが塀の人の象徴か」と呟く。塀の人。納得の特徴だ。
壁の入り口には門と番人がいて、入口から並ぶ者達から何かを受け取ったり、言葉をかわしたりしている。中に入るまでには時間がかかった。
時が進み、夜になると地下のような暗さに変わる。しかし、壁の中では建物からは灯りが漏れ、舗装された通りでは、棒状の鉄の上に並びほんのりと光が灯り、闇を退ける。一部の区画では明らかに暗くなってから多くの灯りが焚かれ、活気がある。
塀の人が作り上げた高い壁は、内側から見ると一層の安心感がある。確かにこの壁の内側には価値がある。獣に捕食されない〈安全〉と言う価値だ。
ここでキャシーに先を急かされた場面に繋がる。街の中を歩き始めたライドの興奮は収まらない。
その後、ライドはキャシー、ディーン、ハリーの3人に連れられ、大きめの建物で料理をご馳走になった。屋外のテーブルでその味や匂いに喉を鳴らす。見たことのない器具には戸惑ったが、すぐに慣れる。食べて、話して、忙しなかったが、興奮して全く時の流れを感じなかった。
塀の人は、物を貨幣という単位に置き換える。これは普遍の価値と呼ばれる金塊の交換券を兼ねているという。軽く、持ち運びが容易で高額な取引が可能になるだろう。優れた発明だと思う。しかし、ライドには当然、持ち合わせがない。夕食は助けられた謝礼として、ご馳走になったわけだが、ライドとしては、戦士の矜持に従っただけだ。これは役割であり、礼は不要と伝えたが、気がつけば遠慮なく大量に食していた。当然、交換すべき券も多くなる。だが、ご馳走になれて良かったと思う。これ程美味しい料理を見ているしかできなかったら、血の涙が流れる。
肉、野菜。見知った料理の味が天地程も違う。
ライドが食事を貪る間、ソドムはあたりの景色を楽しむ。ソドムは見るもの全てが懐かしく、それだけで幸せらしい。
やがて、食事を終え外へ出る。此処は何をする場所かと聞くと、商人が「とうろく」や情報交換に集まる場所だとキャシーが答えた。
「じゃ、私は一度実家に顔出すな。何かあったら〈烏の宿〉でいいな?」
「ああ。僕とライドはこのまま教会からの迎えを待つ。ハリーは領主様に報告だね」
ディーンの言葉に、ハリーがにこやかに「またな」と別れを告げる。キャシーもだ。
キャシーの背には2本の黒い戦棍が背負われる。地下で拝借した武器をライドは譲り受けた。それを、長さと先端の大きさはそのままに、柄を太く、全体的に丈夫にできないかキャシーに相談し、キャシーは引き受けた。
「ライド、作るのはいいけど、暫く武器の携帯は認められないぞ」
「分かった」
ディーンの注意にライドは即答で答える。別に困らない。元々は素手だ。
その場で暫く待つ。迎えに来たのは大柄な壮年の大男だ。ライドと身の丈は変わらない。短い黒髪と短い顎髭を生やす、筋肉質で横に広い頑強な体格をしている。戦士の歩法には不利な体型だが、重戦士ほどではない。中途半端だ。戦士として鍛えた体ではないのだろう。
案内されたのは三角形の様な印象の尖った石造りの建物だ。既に闇の中だがライドにとって造形を知るのに光は必要ない。
「ここが我々ジュヌ神の意志を承る神聖な場所だ。ソドム殿におかれましては、ここで神の御意思を賜りつつ、領主様の迎えを待つことになります。ライド。君にとっては、人として生まれ変わる贖罪の場だ。神への理解に励み、1日でも早く敬虔なる神の僕に成長しなくてはならない。期限は御遣い様をお招きするまでだ。時間はないぞ」
短髪の大柄な男はそう語る。その目の前には地下で見た建築物のような円柱の柱に挟まれた大きな扉がある。扉は何かを塗った木材で、高さは大人3人分はある。これ程の大男がいるということか。
「ではディーン殿は正面よりお進み下さい。我ら神の僕は、脇の入口より参ります。ではライド、ついてきなさい」
壮年の大男が示す先には小さな入口がある。こちらには扉がない。壮年の男やライドは屈む必要があるが、中は天井も高く幅も歩く分には問題はない。
(荷物を持ったら通れないな)
その不便な出入り口に心の中で悪態を吐く。中に入ると子供特有の甘い匂いが鼻をつく。見れば2人の若い薄布を纏う女と6人の子供が、ランタンの薄明かりを頼りに集まって作業している。何かを作っている様だが、分からない、
「皆そのままに」
壮年の大男とライドの姿に、中で何かを作っていた子供と2人の女が深々と腰を折る。明らかに上のものに対する礼だ。壮年の大男は長側なのだろうか? ディーンからは平民だと聞いていた、教会内ては別の権力構造がありそうだ。
中は木材の扉が多い。木は乾燥しやすく、ボロボロなり材料の筈だが、目の前の扉に限らず、表面に何かを塗ることで乾燥を防止している。
滑らかで、木のささくれを感じさせない黒っぽい何かだ。色合いも深みがあり、手触りもいい。
その拘りに感銘を受ける。ライドは調べたい欲求を抑えて、先行する男について歩く。
辿り着いたのは、一際立派な屈まないで入れそうな扉の前だ。扉には何かの獣の顔を象った金具がある。
それを軽く打ち鳴らし、壮年の大男は中に声をかける。
「司祭様。お連れしました」
「お通しなさい」
ライドが扉の塗装に目を凝らしていると扉が内側から開かれる。開けたのは完全装備の帯剣した男だ。
中は白い光で満たされている。実式の光だ。壁は石を切り出して、積み上げて作っている。木製の机と椅子が並んているが、それらは細長く切り出した木材を組み上げたもので、濃い茶色に塗られ、重厚感がある。一体何度ライドの感情を振り切らせれば気がすむのか。この物を作る技術の差は途方も無いものがある。
中にいるのは、返事の主である壮年の目の細い男、金の刺繍の女、そしてディーンだ。他に武装した戦士が4人、薄衣の女が3人壁際にいる。武装した男は護衛として気を張っているが、ディーンより下かもしれない。
戦士の需要が増えているのか。戦士としては地上班に遠く及ばない下級の者が多い。塀の中には獣かいないのだから、これで十分か?
部屋に入ると壮年の目の細い男が、立ち上がってライドを迎える。
「はじめまして。ライド君。我々は道を学ぼうとする者を歓迎します。励んで下さい。期待していますよ。今後はトフソーに何事にも指示を仰ぎなさい。それが貴方が守るべき規則です」
「わかったな。いや、わかりました」
「よろしい」
トフソーと呼ばれたのは、案内してきた壮年の大男だ。
壮年の目の細い男は、ライドに少し近づくと「大きいですね」と呟く。壮年の目の細い男の身長は一般的だ。
「どうぞ此方に」
帯剣した護衛の戦士が、ライドに席に着くよう促す。護衛はライドの背に1人、壮年の目の細い男との間から少し離れて1人立つ。ディーンがライドを手招きする。そこは細めの男の席の隣だ。立派な椅子の隣に四角い箱がある。
「司祭様は彼の左手の指先に手を近づけて下さい。触れる必要はありません。もう少し近くに。では、仲介は私が取り持たせて頂きます」
ディーンは司祭とライドとの間に立ち、ソドムと接触できる位置に、目の細い男の手を誘導する。
「ソドム殿。聞こえますか?」
『ええ。初めまして。ソドムと申します。司祭殿』
ソドムの返事に、細い目が微かに広がる。頭に響く声は不思議な感覚だ。戸惑いが見てとれる。
「アウデリアと申します。ジュヌ教の司祭を務めております。この度はお目覚めおめでとうございます。元ミラジ伯」
『家あってこその爵位です。家のない私に爵位は不要です。アウデリア司祭殿』
「わかりました。では、時越えの人、ソドム殿。まずは簡単ですが今の世情や歴史ついてご説明させて頂きたいのですが、いかがでしょう?」
『願ってもないお話です』
アウデリア司祭と名乗る壮年の男は、ソドムにセレ国の成り立ちと、少しの雑談を交え、次いでソドムの年代の特定の為に歴史を遡っていく。
ソドムの名前は記録に残っていないらしい。ミラジの領主の系譜はほぼ完全に残っており、話すうちに、初期の約20年程空白の期間の中が該当するとわかる。ソドムの2代前、叔父の名が見つかったらだ。その系譜をソドムが唸り声を上げて見渡す。知っている名前があったのか、それとも無ければならない名前がないのか。判断はつかない。ただ、好意的な声は上げない。
話を聞く限り、500年前から塀の人の暮らしはあまり変わっていないという。理由は500年前、理由は不明だが、ミラジ以周辺以外の住民が消失したことによる。更にミラジも長い間宗教に傾倒し。神学以外の学問を禁じたためと話す。
アウデリアの説明はキャシーの言う学院側の歴史の視点だ。理由は教会を名乗っているが、その本職は古き〈かみ〉と呼ぶ存在の解明と信奉だという。
御遣いは、そのもっとも古い〈かみ〉に属する使者だとか。
『今は多くの教会が勝手にジュヌ教を傘下に入れてるらしい。御遣のせいだよ。でもセリーヌ様の降嫁はそれより前。今はそれ以上の情報はないね』
ソドムはそう付け加える。
挨拶と簡単な情報交換を済ませ、会談は終わる。金の刺繍の女セリーヌは、終始難しい顔で座ったままだ。ライドは会談後、壮年の大男と退出する。
打合せが終わった訳ではない。ライドとソドムの出番が終わっただけだ。
ディーンはこの後の話合いに参加し、近場に休む場所に向かうという。明日、ディーンが迎えに来るまでは、ライドは教会で過ごすことになる。
「まず朝の起床は日の出が目安だ。明日は私が呼びに行く。起きたらまずはここで体を清めるように」
ライドは壮年の大男に案内され、教会の裏から、細い川?にあるちょっとした踊り場に降りる。狭い。しかし、何より気にかかるのは、この川は今朝までいた地下の浅い部分から流れてきていることだ。ライドの〈知覚〉はその出入り口まで感がみつけている。
知性のある粘性体なら、この川を通って地上に出ることもできるだろう。出ていないとは限らない。地下で見たあの一体だけだと断言はできない。
「その後、朝の祈りを捧げる。ついて来なさい。道は早く覚えるように」
壮年の大男に従い、川辺から再び教会裏手の斜面を登る。石を組み上げた内部に入り、木戸を閉める。基本的に教会内部の道は、天井には余裕があるが幅が狭い。壮年の大男が歩くと、子供が通り抜ける隙間もない。
「それと問われたこと、教わったことには必ず返事をするように」
「わかった。了解。そうな。いいよ。どれか相応しいな?」
ライドが問いかけると、壮年の大男は難しい顔で振り向く。ソドムから、『はい』じゃないかと返事が返る。
「はい。わかりました。と。そして浅く一礼。問題や間違いの報告には、申し訳ございませんの一言を頭に添えること。その後に内容を報告しなさい」
「はい。わかりました」
壮年の大男の一礼に習い、ライドは真似をする。壮年の大男は一言、「よろしい」と頷き、再び歩き始める。
「こちらの道を通りなさい。ソドム殿から要望で他の道に入りたい場合は必ず報告しなさい」
「はい。わかりました」
一礼する間に、壮年の大男は前に進んでしまう。一歩小走りで間を詰める。中々難儀な作法だ。
「先程の篝火で身を清めることを沐浴という。神に感謝を込めて、顔と手を洗うように。明日、皆と共に作法を覚えなさい。その後、朝の祈りを捧げる。祈りは日に2回、朝と夕方に行う。まずは私の所作をよく見ておきなさい」
天井の突き抜けて高い空間に出た後、壮年の大男は、人の形に見える色のついた半透明の色付き板の方に歩く。その両脇にはその板の方に向かって椅子が並ぶ。トフソーはその椅子には座ることなく、光の通る半透明の色付き板の前で膝をつき、大声で言葉を紡ぐ。
意味があるような、ないような? 誰かの独り言のような内容だ。何かに行き詰まった者が、誰かに教わった心の持ちようを復唱している内容だ。
トフソーは一通り所作を終えて立ち上がり、ライドに分かる範囲で繰り返すように指示する。ライドはそのまま壮年の大男の所作を真似る。所作と言葉を終え、立ち上がり、向き直る。繰り返すだけなら得意だ。勿論、真似は真似でしかない。声には抑揚はなく、所作もキレはない。
「終えたな」
「声は自分に分かる程度で良い。名はなんと言ったか? 新たな同志よ」
「ライド=フォン=クレイル。フォンが母、クレイルは父の名だ」
「新たな同志に祝福を。ジュヌ信徒になるのであれば、父母はジュヌ神である。ライドのみが名前となる。セリーヌ様はライドが同志となることを期待されている。考えておくように」
「はい。わかりました」
名前を短縮する気はない。つまり、信徒になる気は無い。
「並んでいる絵は何がな? 。凄く精巧な絵だが内容が気になるな。縛られたり、吊るされたり、焼かれたり」
「皆聖人であらせられる。敬意を持って礼を失することがないように」
「〈せいじん〉?」
「神の教えを説き、人々の救済に携わり、神の元に帰られた方々だ。見なさい、ライド。尊き者達は、誤解を受け、憎しみの目を向けられようとも、命果てる瞬間まで、人々を慈しみ、神への感謝を忘れない。そのお姿が最も輝かれた時を絵師が描いたものだ」
「人の為に尽くして回った者を、誤解程度で焼き殺した? 本当の出来事?」
「大衆は時として暴走する。我々はジュヌ神の御名の元、人々を誤った道に進まぬよう導く使命がある」
納得し難い。恨みや妬みがあったとしか思えない。それも大勢の人に。ライドはトフソーとの感覚の違いに何を質問すべきか言葉を失う。
続いて、壮年の大男はライドを食堂に案内し、同様に所作を教える。こちらは簡単だ。位が上の者の話す言葉を聞き、その後、一言、神に祈りを捧げて、食べる。終われば器を洗って戻す。それだけだ。
「日々の働きは、アウデリア司祭より連絡がある。私がそれを伝える。起床、沐浴、祈り、食事、文字の習得だ。教えの理解に励め。午後は仕事だ。薪の準備、教会外壁の清掃、排泄物の処理、薬草集めに従事する様に」
「祈りはない、な?」
「祈りの時間に行う。信徒として相応しい立ち振る舞を学んだ後、布教者の付人としての功徳を積む。よく精進し、お役に立てるように努めよ」
「仕事は前任者か、仲間はいないかな? 少なくとも初日は教えが欲しい。設備の場所や物の流れを知らないとだな。それは都度トフソー様に聞けばいいかな?」
「手配しよう」
「はい。わかりました」
一礼し、顔を上げると、トフソーは上を向いて祈りを捧げていた。何か懺悔のように見えるのは気のせいか?
最後にトフソーは、ライドに通って良い道を覚えているか、順序を確認し、寝泊まりする部屋に通される。
「本来は大部屋で皆と寝起きを共にするべきだが、そなたはソドム殿の依代という特殊な状況にある。暫くこの個室を使用せよ。生活は光と共に起き、闇と共に休むように」
「はい。わかりました」
トフソーは去る。部屋には机と椅子、そして、寝床らしい台がある。どれもライドには小さめだ。部屋もライドが寝転んで手を伸ばせば足先から、端から端まで届きそうだ。寝る時は部屋を斜めに使うことにする。まずは机と椅子を寝台とは逆の中央側にずらし、寝台を移動する。
これで休める。
『ここはトフソーくらいの信者が使う部屋だね。机やインクがある。昔はインクは高価だった。安く作れるようになったんだろうね。無造作に置かれてる』
「数字は早めに覚えたいな。基本は同じだろうしな」
『ずっと言葉の練習してるね。大分聞きやすくなった』
「口に慣らさないとな。それにキャシーの女言葉な。早めに変えたい」
『キャシーのは女言葉と違うね。独特だよ。話を戻そう。私は文字が読める。夜は外出禁止だ。そこで、一つ、寝る前に協力して欲しい事があるがいいか?』
「なんだな?」
『彼らは私を別の容器に移す手段を持ってる。手段は分からないが可能なんだろう。でも閉じ込められるのは絶対に避けたい。領主に引き渡した後、確認に来て欲しい。万が一の時には容器を壊して欲しいんだ。私は自力で避ける為に自由に動かせる手足を用意する。少なくても努力を進める。で、協力して欲しい』
「簡単に侵入できるかは分からないな。だが、試そう。で、今は何すればいい?」
『私は精霊の元素だ。ならば、変質させれば物理的に干渉できる筈だ。まずは物に接触できるか、動かせるか確認したい』
ライドは知覚を頼りに机の上から、棒を取った。それを机の上に置き、近くに左手の指先を置く。
ソドムの様子はわからないが、ソドムには気配がない。気配がない以上、物体に触れられるとは思えない。
「ソドム。棒には触れられるのかな? 暗くて見えないってことはないな?」
『棒じゃなくて筆だ。文字を書く道具だよ。ご心配なく。見えてる。私の目には光が関係ないらしい。昼でも夜でも、ランタンの有無でも変わらない』
「便利」
『便利なもんか。水面に跳ね返る輝きも、照らし出される自然の美しさも見えない。宝石の輝きを見ることも叶わない。これは大きな損失だよ。景色もずっと曇りかと思っていた。、夕日も分からなかった』
「それは嬉しくないな。ソドム、ついでに聞きたい。死せる大地について、ソドムはどう考えているな?」
『本当に知らないのか? 精霊がいない。存在できない場所だ。生き物でも、物でも、立ち入れば消えて塵に帰る。まさに見えない仕切りだよ。突然真っ暗な空間に切り替わって、放り込めば死体でも塵になる』
「想像し難いな」
『私も近くまでしか行ったことはないんだ。世界はその壁に囲まれている』
「ソドムも死ねるな?」
『私には精霊が精霊なしで意識を保っている。別の世界のどこかに保管してね。ああ、そうか、死せる地も解明できるのか。試す価値はあるね』
ライドは死せる地の向こう側に故郷を求めてみたが、流石になさそうだ。
世界に果てはあるのか? どんな場所なのか? 昔、そんな話題で盛り上がったことを思い出す。死んだ仲間達への土産話が一つ増えた。
「上手くいきそうか?」
『中々伸ばせない。少し伸ばすと視界が歪む。何処に伸びているのか分からない。まずは認識することからだ。触れてる感覚はないんだ。視覚的に重ねるだけだよ。維持するのか難しい』
「ある程度で切り上げる」
『ああ、私はその間、自力で視界を集める訓練をするよ。何となく掴めそうだ。私には睡眠が要らないからね』
結局、この日はソドムの訓練は細く視界を伸ばす太さの調節に費やして終える。ライドは地上の建築物に高揚していたが、思いの外直ぐ眠れた。
その晩、悪夢を見る。
馴染みのある悪夢だ。
夢の中のライドは子供だ。走る自分を冷静に眺める自分がいる。12歳の時の記憶だ。ローレンの数え方なら11歳か。3つ違いの末子の妹を背負い、凹凸の激しい森を進む。右肩には泣きはらした虚ろな顔が見え、その口からは意味不明な呟きが漏れる。
もつれる足を前に進めながら、ライドは喉と舌が乾いて張り付くのを感じていた。目の前に広がるのは大きな木の根と赤い水滴のような霧だ。その中をひたすら走る。背後からは人のぜつほうの叫びや巨大な質量が地面を耕す音がする。
空腹だが恐怖で足が前に出る。幼い体を通してライドはぼんやり我に返る。
そうだ。年齢を理由に戦士長昇格を見送る通達を受けた翌々日の出来事だ。
10歳で地上班の初陣を飾ったライドは、順調に頭角を現し、12歳で戦士長の候補に名を連ねた。極めて早いが前例の範囲内だ。しかし、ライドの戦士長昇格に反対したのは母だった。ライドは母を恨んだ。戦士長になりたかったからだ。
その日のうちに、集落の全戦士が集められ、翌日、母の率いる班で、初めて集落への脅威の群れの討伐に参加した。今から思えば、脅威に対して、戦士長として離れた場所に向かわせるより、手元に置いておきたかったのだろうと思う。
結果、母は四散し、多くの隊は壊滅。大型の地上の獣の群れが、1体辺り6枚もつ刃で地下を集落ごと耕した。
それでも集落には、数人の生存者がいた。その1人が妹だ。その妹を連れ出し、他の生存者を無視した。
まだ生き残った戦士が抵抗しているにもかかわらずだ。
近くに隠れられる地下はない。その日のうちに残った大人の戦士は獣に食われた。
ライドは戦士の矜持を捨て足の折れた妹を抱えて逃げた。ぼんやりと我に帰るライドは、その背中の体温を懐かしく思う。弱者は息を殺して隠れるものだ。しぶとく、狡猾に襲撃する。弱者である人の生き方そのものだ。
ライドの耳には、生きながら喰われる戦士や、捨てていった集落の生き残りの叫び声が張り付いている。記憶の良さは利点ではない。多くの死に立ち合えば、心は擦り切れる。怯えようが、無感動になろうが集団で生きる上で支障が出ることに変わりはない。
この30年のち、再び集落に所属したライドが、擦り切れた感情の代わりに頼った判断基準が戦士の矜持だ。一度は忘れても、人の中で生きる方法すら忘れたライドには、ほかに頼れる基準がなかった。
幼い妹は戦士として未熟だ。赤い霧に冒され、目や鼻に一筋の血が流れ始めた頃、ライドは細い洞窟に逃げ込んだ。
その洞窟に、ライドの拙い〈知覚〉では生き物は見当たらなかった。しかし、何かの住処だろうとは考えていた。
それでも妹の体調が戻るまで、霧から逃れる場所が必要だった。水を汲み、虫を焼き、意識を取り戻した妹と食べる。妹は縮こまって眠ることを怖がったが、また明日会えると話すと泣き笑いを浮かべながら眠った。
それが最後の会話だった。
ライドはその手を繋いだまま傍で眠ったか、夜半に繋いだ手に握る力を感じて跳ね起きた。
ぐちゃぐちゃと肉を咀嚼する音。疲れていなければ聞き逃すはずのない音だ。その音の発生源はすぐ隣。妹の顔ではなく、細かな虫が蠢くような、細かな牙を持つ触手があった。妹の頭と左上半身はすでに覆われ貪られ、失われていた。残っているのは右半身と腰から下だ。足がバタバタと激しく動き、痙攣していた。ライドは掴む妹の手を振り払って逃げた。
何故振り払ったのか。
生きる為に決まっている。妹はすでに死んでいた。逆に寝ていれば、喰われたのは自分だ。しかし、本当に死んでいたのか? 振り払った手は暖かく、ライドの掌に命を感じさせた。
脳裏に置いていくなと妹の叫び声を幻聴する。何度も何度もだ。
目覚めたライドは足の間を確認する。これもこの悪夢を見た後の日課だ。この日から5年程は残念な結果ばかりだった。無事を確認して安堵する。
(重症だな)
地上に出る少し前から、起きている最中にこの光景か脳裏にちらついた。今の体の年齢である18の頃にはだいぶなくなっていたはずだ。再発の原因は自分の相対的な実力の低下だ。この塀の中で周りに溢れる人の気配は問題にならない。例え寝込みを襲われようとも、傷一つ負うことはない。それでも果てしない技術の塊に恐れを抱いている。これを扱うこの地の人は故郷の人より遥かに強い。その分、ライドは相対的に弱くなった。獣はいないのに、人を恐れている。
失われた数十年の鍛錬が口惜しい。しかし、記憶をそのままに若さを手に入れたのであれば僥倖だ。確実に同じ年齢の以前より強くなれる。
「起きていたか。よく眠れなかったようだな。慣れなさい」
扉が軽く叩かれ、トフソーが現れる。昨日と同じ格好だが、少し水の匂いのする服装だ。
ライドはトフソーに習って、胸に手を当て、一礼する。トフソーは満足気に一つ頷くと、ついてくるように促す。
挨拶に気がついたのはソドムからの入れ知恵だ。
厠で用を足し、狭い石の通路を通り抜けると、数人の男達が建屋の外、川辺で篝火の前に人が集まる場所に出る。
辺りには薄っすらと細かな水滴が漂う。色が違うが、馴染み深い景色に近い。ライドは立ち止まるが毒はない。似て非なる霧だ。
「霧が濃い。今日は暑くなるようだ」
「この水滴は消えるのかな?」
「朝だけだ」
霧が自然に消えると言われて驚く。霧の先にはうっすらの建築物の影が浮かび上がっている。川辺に張り出した橋の手前には、ライドの肩口ほどの高さで、白煙をあげる篝火がある。先客は、その煙を体に纏うような仕草と祈りを繰り返していた。
「まずは水で顔と手を清め、沐浴の列に加わりなさい。厳粛に」
「はい。わかりました」
トフソーは「終えたら祈りの間に」と言い残して立ち去る。
ライドは周囲に朝の挨拶の真似事をしながら流れの速い、狭く深い川辺に降りる。周りは無表情だが、ライドは挨拶の度に笑顔を作る。キャシーに勧められた。挨拶は敵意はないと言う意思表示だ。返ってくる対応を見る限り、ライドへの敵意があるように見えてしまうが、ソドムには、そんなものだと窘められる。
ライドの背後から更に6人程の集団が現れる。先客も後から来た者達も一言も喋らない。
『ここの作法なんだろう。挨拶は会釈程度で。態々違う行動はするなよ?』
ソドムの言葉に頷く。
しかし、ソドムの忠告は半分上の空だ。〈知覚〉で不穏な動きを見つけ注意を奪われた。場所は上流の石造りの橋の上だ。
この塀の中では、小競り合いを数えたらキリがない。多すぎる。戦士の矜持に従うまでもなく関わる気になれない。好きにしたら良いと思う。目の前にあるのもそんな気配の一つだ。しかし、問題があった。相手が子供だということ。この距離だなければ気がつけない小さだ。大人が子供に対して殺意を疑う行為に出ている。
子供は集落の宝。その宝に何をしているのか? 周りの大人が見逃すとは考え難い。
『どうかしたのか?』
「確認したくてな」
〈知覚〉でその周囲だけを注視する。濃度を上げれば見える景色は視覚のようにはっきりする。すると鳥肌の立つような色のない現実が視える。
「突き落とされた。もうすぐここに流れてくる。子供だ。拾うぞ」
『何なんだ? この急流にか? まずは周りに声を上げて、人手を増やそう』
ソドムの言葉に、ライドは頷く。手近な男に声をかける。すぐに細身で眉の太い小綺麗な青年が、訝しみながらも、数人の信者とともに川辺にくる。
「普段通りに」
小綺麗な青年はそう指示を出す。トフソーのような指導の立場にいる者らしい。
「君はトフソー様が連れてこられた人だね。早々に徳を積もうとは素晴らしい。流れる人というのは?」
小綺麗な青年は、整った顔の眉を凝らしライドの指し示す先に目を細める。ライドが指差す方向に波間に頭が2つ見える。小綺麗な青年も気がついたのか、茶色の癖毛に手を当てる。1つ影が下に沈む。もう1つはまだ浮いている。
「端に流れてくれることを祈るしかない。届かないっ。この流れでは入って助けるのは無理だ」
「引き上げるのは俺がやる。その後の手を借りたい」
小綺麗な青年に宣言すると川を凝視する。あと2呼吸か。小綺麗な青年が、何言われたか分からないと見ているが、説明する時間はない。
沈んだ子供は既に4m近く沈んで暴れている。近づく小動物の影を威嚇し追い払う。
「視界を集めるのをやめる」
『ご心配なく。言い忘れたけど、視界は自力でそこそこ確保できる。昨日の夜コツを掴んでね』
「そうか」
ライドは無造作に急流に入る。身体を水が撫でる。久々に感じる冷たさだ。川幅はこの土地の言い方で6m。深さは倍に届かない程度か。所々さらにその倍の深さがある。程なくライドは、暴れる人影の周りに水の防波堤を作り、左手で小さな姿を掴む。浮き上がるついでに水面の子供を肩に乗せて水面に顔を出す。ライドも子供も剥いだ場所から流されていない。戦士の歩法での風を扱うように水を扱う。当然、規模も〈力〉も桁違いだが、戦士の歩法と比較して難しいというほどでもない。別に自分が動くわけではない。
吊るした腕が痛い。しかし、動くようになったことは嬉しく思う。
ライドは水面に立ち上がると浅瀬を歩くように岸に戻る。
水面に浮いた時点で沈んだ子供から水は吐かせた。今は息ができない程咳き込んでいる。
地面に赤黒いシミが広がる。
沈んでいた人影の右腕からの出血だ。早く量が多い。ディーンより少し若い女だ。出血量と時間を逆算すると助かる見込みは低い。
急速に弱る女に、首から下ろした男の子供が「お姉!」と駈寄る。
「場所をあけてな。止血を試す」
ライドは13〜14くらいの女の脇に左手の指を入れ、止血する。痛みにうめき声が上がる。ライドは布に包まれたままの右腕を傷口に近づけ状態を確認する。痛み以上に節々が上手く動かない。気が焦る。
「動けっ」
ライドはぼーと、脇に立つ小綺麗な青年を叱責する。まとわりつく男の子供が邪魔で集中できない。小綺麗な青年はその声に我にかえると人を集め、道具集めやトフソーを呼びに走らせる。物の名前は分からない。的確だと信じる。
「君。大丈夫かい?」
そして、小綺麗な青年は元気な12歳程度の子供を気遣いながらその場を離れる。
女の脈は弱い。ライドは土気色の顔色を覗き込むと、左手で止血したまま、右掌で傷の深さと損傷を精査する。
右腕は自力では動かすにはまだ心許ない。〈力〉を使って外から動きを補助する。
〈知覚〉を別の生き物の体内に使うことは難しい。情報の取捨選択に慣れがいる。何より全て確認しては頭がもたない。相手無理にに干渉する行為だ。行う側が強くなくてはならないし、相手にも負荷がかかる。
出血の原因である切断された傷を見つける。ライドは精度を高める為、〈力〉を強める。頭への負荷は水を逸らすのに必要な〈力〉の比ではない。右腕や右半身が鬱血するのを感じる。と、右半身、特に首周りのの浮腫が割れる。
脳裏にソドムの意味不明な弱々しい声が聞こえるが気を回せない。意味不明な体外の〈力〉が、体内と均衡を保つように動く。
何故筋力の質と量を超える〈力〉が存在できているのか分からない。分からないが状況はわかる。制御が効きにくい。誰でも奪い、利用できると言ってもいい。だが、それは今は考える時ではない。目指すは子供の女の止血。手段は切断された血管を繋ぐこと。範囲は狭いがこの作業は〈手〉の生成と変わらない。体の耐久性はこれ以上上がらない。
(きつい)
左手に痺れが走る。左半身に筋力と内側からの圧力のせめぎ合いが始まる。右半身の負荷を下げる為に、左に集中した結果だ。それでも右半身に肉離れのような痛みが走る。しかし、痛みで余計な動きをしている暇はない。ライドは、額に脂汗を浮かべながら破損部分を圧縮接着する。それを出血の多いものだけ、複数同時に行う。
「頑張れ! 寝るな! しがみついて起きるっ! 」
「姉! 死んじゃ嫌だっ! 姉!」
子供の声に小綺麗な青年が「スープと気付けの酒を!」と指示を出す。
酒はライドの常識では高級品だ。それを躊躇なく指示した小綺麗な青年に好感を覚える。ライドの口元が少し緩む。
しかし、治療する子供の女の方は芳しくない。弱々しく目を開くと、12歳程度の子供に「ごめんね」と呟く。
ライドはその声に弾かれたように更に〈手〉を増やして、手足の末端に血が流れないように抑える。身体と頭に血を集める為だ。当然、ライドへの負荷は跳ね上がる。歯を食いしばり、目が血走る。目から出血するのは時間の問題だ。
「体を温めるものがないなっ!」
「今届いた!」
小綺麗な青年の声とともに、少し年上の青年が、手に怪我を負った子供の衣服を切り裂くと、その代わりに布を巻く。
同時にやってきた女の信者が、酒や良い匂いのするスープを、匙で子供の口に運ぶ。女の子供は口を動かし、それを飲む。生きる意思はある。希望が見えた。女の信者が声をかけ、女の子供の体をさする。
ライドの右半身もまた、至るところで皮膚が割れ、血が滲む。見た目なら、ライドも血まみれだ。
しかし、ライドの無力感とは関係なく、状況は進む。
教会内の休憩所に移動するように促されたライドは、怪我をした子供を抱え、案内されるがままに教会の寝台に運ぶ。
その間も治療を続ける。
ライドの左右の眼が充血する。
小綺麗な青年はいつのまにかいない。代わりに大柄なトフソーがいた。
ライドの不安を他所に、女の子供はスープを飲むたび顔色が良くなり、そして眠る。呆気に取られる程の生命力だ。
他の信者が女の子供の濡れた服を暖炉の側で干し、大きな布で女の子供の体を覆う。周りは山場は越えたと胸を撫で下ろしている。〈知覚〉で見れる子供の女の命は確かに安定している。あの失血でだ。腑に落ちないが、間に合ったことは素直に嬉しい。
「ライド。君も治療を受けなさい。それに新しい布を。それでは膿が腐る。終わったら状況の説明をするように」
トフソーの言葉に、ライドは立ち上がる。少しふらつくが、大したことはない。〈力〉を使わなければ出血も止まる。
喉が渇き、胃が食料を求めて音を立てる。ライドは信者がくれた果実の絞り汁を喉に流し込み、トフソーに先に祈りをと注意を受けながらも、朝の食事だと渡された芋粥スープを更に喉に流し込む、足りない。後で隠れて狩に出ねばならない。幸いこの地は獲物の楽園だ。困る気がしない。
ライドは右腕に張り付いている布を剥がし、新しい布を巻く。剥がした布は、血と膿に塗れている。
「よく洗っておきなさい」
「はい。わかりました」
右腕は、茶色と赤で皮膚が全てかさぶたのように固くなっており、大部分が割れている。傍見ていたトフソーがギョッとする。しかし、経過は良好なようだ、腕の形をしているし、しっかり動く。ライドは胸を撫で下ろす。
「では、説明を。次は何か起きたら、私に連絡に来るように」
「はい。わかりました」
ライドは一礼の後、経緯を簡単に説明する。小綺麗な青年の助けがなければ、女の子供は助からなかっただろう。礼を言いたいが見当たらない。
トフソーはそっと寝台で眠る13、14歳の女の子供の腕を取り傷口を見る。
傷は右腕の内側、手首と肘の間にある。深く幅広の傷だ。精査したライドは、それが切られた傷ではなく、刺された傷だと確信する。トフソーは「無垢な命が救われたことに感謝を」と祈りを捧げる。
ライドはその傷跡を2度見する。既に瘡蓋だ。治りが早すぎる。しかし、周りに不審に思う気配はない。
「司祭様からのお褒めの言葉は、後日頂くと良い。それまでに一層励むように。アウデリア様、セリーヌ様は今、外出中だ。数日は戻られないだろう」
「ありとうございます」
「宜しい。では礼拝堂へ。着替えて来なさい。その後はディーン殿が迎えに訪れるまで文字の練習を」
ライドは腹の虫を抑えながら、トフソーの後に続く。文字を教えてくれるというのだ。断る理由はない。
祈りを済ませると、ライドは石造りの個室に案内される。中には古びた書物と砂を敷き詰めた縦横1m×0.5m程の板がある。そこで壁に掛けられた表の文字を全て正確に書く練習をする。席は4つあるが、今はライドしかいない。
書き取る文字は、順番も重要らしい。文字数は32。この組み合わせで言葉を作る。ライドはなれない形を書き慣れるまで繰り返す。
「ソドム?」
それにしても静かだ。ライドはソドムが一言も発しないのを不審に思う。
『ぁぁぁ。あ? ライドか?』
「どうしたな? 見えるだろう? 文字だな。練習する」
『そうか。あぁ見える見える。死にかけたよ。私としては朗報、なのか?』
「死ねないんだろ?」
『死ねるらしい。いや、消滅か。ライド。女の子の治療の時、何をしたんだ? 強烈な光に包まれた』
抑揚のない声を出すソドムは、まだ意識がはっきりしないと言う。外向きの〈力〉はソドムに影響があるようだ。つまり。〈手〉ならソドムを殺せる。
危なかった。ソドムはミラジにいた家族のその後を気にしている。その調査の前に死なせたのでは寝覚めが悪い。
『もう少し時間が掛かったら、もう少し光が強かったら。消えたね。ライドが1日声をかけないで放置しても、消えた気がする』
「本当か? 悪かった。だが、地下での戦闘ではこんなものではなかった筈だ」
『視界を確保しようとしたせいかな。次は視界を散らすよ。死ねると分かると死にたくない。あの何もない牢獄を除けば死はやはり怖い』
「未練がなかったらおかしい」
『それはその通りだけど、閉じ込められている時は死を心から願ってたんだよ。そういえば子供は助かったのかい?』
「ああ。広間で寝ているな」
『良かった。しかし、治療にも使えるのか。万能だな』
「子供の生命力が強かっただけだ。それに効率の悪さは高いな。今の専門家が見たら笑われるな」
『手助けできる手段があれば十分だ。無い物ねだりだよ。私にも使えるか?』
「血の通った体がないと難しいな。だが、元素の可能性を探れば、似たことはできるかもしれないな」
『先は遠いか。まずはものに触れる訓練だ。ライドの服には触れた感触がある。届けば動かせると思けどね』
ライドは文字の形を慣れる為砂の上に指で形を作りつつ、書物に書かれた並べ方で、書き方に慣れる。その間、ソドムは砂に触れようと悪戦苦闘している。相変わらずソドムは〈知覚〉でいるのかいないのかわからない。それでも確かに服の裾は動かせる。精霊はわかっても元素になるとわからないのか。ものを動かせるということは、そこに〈力〉があるはずなのに気味悪い。
『この街は今、注目の的だろうね』
ソドムは一息つくと、そう話し始める。多くの他の街の貴族や教会、商人の協力者がいる筈だとと言う。
貴族は自分の勢力に属さない〈御遣い〉の存在が気になるだろうし、商人はこの未曾有の状況で、物の価値と権利の変化に神経を尖らせると。
『地下でも口止めがなかった。止められないからだろうね。それだけ不安定ってことさ』
「霊峰アンデレウェルト。あんな山が現われればそれだけでも不安になる」
『私は消えていたことに驚いたよ』
勢力争いと聞いてライドは眉を潜める。川に落とされた子供の腕の傷は、抑え込まれて刺されたものだ。そうでなければつく傷ではない。
加害者は初めから1人川に沈めるつもりだった。何故か? わからないことだらけだ。
更に小綺麗な青年は教会の信者ではなかった。その周囲の者も同じだ。早々に逃げていた。他の信者は新たな客人としか思っていなかった。
ソドムは時越えの人を確認しに来たと見るが、それだとハッシュベルからの移動者と連絡を取っていたことになる。その懸念をトフソーに伝えると、もう鼠が入り込んだ。と嫌悪を見せた。何を知っているのか? 人同士で病的な狩が日常的に行われていると理解するまで、1ヶ月を要した。