スパルタ人カリロス(アミュクライ在住・31歳)の一日
目を開ける。
今がちょうど夜明けのときであることが、屋根のわずかな隙間からさしこむ光でわかった。
折しも、雄鶏が勇壮な叫びをあげるのがきこえた。
カリロスは片肘をついて身を起こし、かたわらでくったりと目を閉じている妻におおいかぶさると、「もう、いいかげんになさって」と相手が小さな抗議の声をあげるまで口づけをした。
心ゆくまで妻の髪をなで、抱きしめると、カリロスは立ち上がって暗闇のなかで顎髭をととのえ、長髪に指を通し、着なれた衣をまとう。
水を飲み、昨日のパンの残りを食べ、干した無花果を口に入れてから、家を出た。
昼までは、格闘技訓練場で過ごした。
若者たちにレスリングの指導をし、拳闘の心得を教える。
彼らの試合はすぐに火を噴かんばかりに白熱し、本気の殴り合いになって血を見ることも少なくないから、一瞬たりとも気を抜くことはできない。
一歩も退かぬという気概と、敵を打ち負かさずにはおかないという闘争心は大切だが、スパルタを守る戦士となる彼らが、訓練で取り返しのつかない傷を負うことがあってはならないのだ。
もちろん、自分自身を鍛えることも欠かしてはならない。
スパルタの若者たちは「年上の者に無礼なふるまいをしてはならぬ」と厳しく躾けられるが、それは相手が尊敬するに足る戦士である場合に限ってのことだ。
若者たちは常に年上の者たちの姿を、その言動を見ている。
そして、スパルタの男としてふさわしい態度とはどんなものかを学ぶと同時に、すぐれた人物とそうでない人物とを、厳しく選別している。
常に、彼らに尊敬され、称賛されるような男であらねばならない。
カリロスは熱い太陽の光に肌を焦がしながら、同じ時期に兵舎に入った幼馴染たちとかわるがわる取組を行い、激しい技の応酬に汗を流した。
昼には家に戻り、山羊肉のスープと炙った豆と果物を食べた。
水で割った葡萄酒をそそごうとする妻の手をとり、引き寄せて口づけをする。
まあ、と言ってくるりと背中を向ける妻を、すっぽりと腕の中へ入れて、あちらこちらを丁寧になでる。
いずれ彼の強い息子、娘たちを宿してくれる平らな腹に両のてのひらを重ねて置き、首筋に顔を埋めて鼻先をこすりつけた。
午後には合唱隊の訓練に参加する。
ヒュアキンティア祭の二日目に歌われる讃歌の練習だ。
カリロスが住むアミュクライでは、この祭儀は何よりも大切な行事であり、自然、練習にも熱が入る。
彼らを指導する詩人は、いかにして歌のひびきに魂をこめるかを力説するあまり、もう二度も竪琴の弦を切ってしまった。
スパルタの男たちは朗々と声をふるわせて歌った。
年齢別に編成された合唱隊の荘重な歌声が、木々のあいだにこだまする。
アミュクライの神域におわす輝ける君も、あるいは、この声に耳を傾けてくださっているかもしれない。
日暮れが近づくと、歩いて共同食事の会場に向かう。
毎日の共同食事は、老人から少年まで、あらゆる年齢の男たちが集う会食だ。
カリロスは、年長の者たちが着席するまでは、立ったままで待った。
食事の前に、皆で歌い、最年長者たちの話に耳を傾ける。
少年たちがじりじりとして、目の前の食べ物にばかり視線が向きそうになるのを必死にこらえているのが分かる。
やがて食事が始まると、大人たちはゆったりと食べ物を口に運ぶが、食べ盛りの少年たちはここぞとばかりにかき込もうとする。
それを笑われると、少年たちは赤面して少しは手の動きをゆるめるが、若い食欲の手綱を引き締めることは、彼らにはあまりにも難しい。
老人たちはいかめしい顔をしながらも、「歯につまりおる」と言って黒スープの汁の部分だけをとり、具は若い者たちに回してやるが、それもあっという間に消えてしまうのだった。
持ち寄りのパンや干し肉の切れ端が配られて、共同食事が散会になると、各自は灯りを持たずに歩いて兵舎や家に戻る。
夜間行動の訓練を兼ねているのだ。
カリロスは懐に入れたパンや肉を片手で押さえながら、歩き慣れた夜道をゆったりと歩いていく。
突然、近くの茂みから、犬の唸り声がきこえた。
腹を空かせた野犬が、夜に一人で歩く人間に襲いかかるのは珍しいことではない。
カリロスは慌てず騒がず、懐のパンを取りだして半分食いちぎり、身をかがめて地面にこすり付けてから、唸り声のした茂みの向こうに投げた。
その場に立ったまま様子をうかがっていると、じゃりっという微かな音と、呻き声がきこえた。
カリロスは、ふふと笑った。
いつでも腹が減っているスパルタの若者たちは、あの手この手で食べ物を手に入れようとする。
それもまた、遠征先で生き延びるための訓練のひとつだ。
茂みの向こうにひそんだ若者は、犬の唸り声をまねてこちらを脅かし、時間稼ぎの撒き餌として食べ物を投げさせるつもりだったようだが、過去に同じことをして、同じように失敗した男を標的に選んでしまったのが運の尽きだ。
これが砂ではなく毒であれば、どうなっていたか。
手に入れた食べ物を、よく確かめもせずに口に入れればどんな危険があるか、かつての自分と同じように、彼も学んだことだろう。
ついでに干し肉の切れ端も少しばかり食いちぎって投げてやってから、カリロスは再びゆったりと歩き出した。
もう一方の手は、ずっと短剣の柄に置いたままだ。
少し行ったところで、彼はふと、道の横に逸れた。
陽が落ちてから咲く美しい花が一輪、ぽっかりと花弁を開いていた。
カリロスはその茎をそっと手折ると、鼻先に近づけて香りをたのしみ、手にしたままで再び歩き出した。
花を差し出されたときの妻の表情を想像し、カリロスはふふと笑った。
月が照らす家路をたどる彼の口からは、知らずしらず、やさしい歌声がもれていた。