19:異変
森は、いつもと同じく命に溢れていた。
人が滅多に足を踏み入れない、大樹が並び立つその根元には、無数の草木や生物が繁栄している。
びっしりと苔に覆われた地面を虫が這い、宙を羽虫や蝶が舞う。虫達を追い、鼠などの小動物が周囲を気にしながらひょこひょこと顔を出して来る。
色彩に溢れたその地の片隅に、黒猫の少女はしゃがみ込み、訝し気に首を傾げていた。
「えっと……こっちが冠茸、こっちが冠茸擬き、あれ? 逆だったっけ? あれ?」
見た目がよく似た、しかし片方は食用に、もう片方は強い毒性を持つ、王冠を逆さにした傘を持つ二種類の茸を両の手に持ち、交互に見やって眉を顰めるシオン。
冒険者が採取依頼を受ける、毎年間違えて多数の犠牲者が出る茸の見分け。
加入してまだ日が浅いシオンは、目を皿のようにして二つを見比べ、正解を見出そうとする。
「……よし、こっち。師匠、どうかな」
「外れだ。どちらも冠茸擬きだ、馬鹿者」
「がーん」
ほとんど館で選び、近くで佇んでいた師に……魔女ではなく、黒い鎧の大男の姿になった彼の者の元に向かうとにべもなくそう告げられ、シオンはがっくりと肩を落とす。
よろよろと後退る弟子に、師は仮面の奥の目を細め、おもむろに歩き出すとある大樹の根元に寄る。
「冠茸は樹の根と根の間に生える…玉座に座って見える様が見分けるこつだ。冠茸擬きはその前に、本物を隠すように生えやすい……よく観察すれば質感で異なるが、それは慣れでしかわからん」
「ぬぅ……口惜しい」
こきっ、と根元に生えた茸を採り、シオンの前に持ってきてもう一種類と比べてみせるが、目立った特徴の違いが分からず、シオンはますます険しい顔になる。
師は頭を悩ませる弟子を見下ろして肩を竦めると、彼女が腕に提げている二つの籠に、それぞれ茸を分けて入れてやった。
「冠茸擬きは麻痺性の猛毒だ。だが、毒の量を極僅かでも間違えなければ治療に使える……覚えておけ」
「…魔術士なのに薬を作る機会があるの?」
「魔術だけで食っていける世なら、誰も彼もがあの学園の試験に殺到するだろう。黙ってその頭に叩き込んでおけ……もう一度探してみろ」
げぇ、と面倒臭そうに顔を歪めるシオンの頭を軽く叩き、手頃な大きさの岩に腰を下ろす師。
渋々と言った様子で木の根の間を探り始める弟子を見ていたが、不意に彼女の背に声をかけた。
「…あれから、あの糞餓鬼からのちょっかいはないのか」
師に問われ、シオンはうげっと心底嫌そうに顔をしかめる。
鼻持ちならない態度で、師を馬鹿にしてきたあの男の顔は、できる事なら二度と思い出したくはなかったのに、師に尋ねられた所為で思い出してしまった。
「……特に何も。学園から追い出されたって聞いたし、大丈夫なんじゃないの?」
「どうだかな……あの手の屑は、鬱陶しい恨みを募らせて盛大に自爆するものだ。気を付けるに越した事はない」
「……学園の人達も大変そう」
ああも性格に難がある男を、何の間違いがあったのか入学させてしまって、教師や職員達はどんなに苦労しているのだろう。
同情はするが、元々部外者で関係のない話であり、もう二度と顔を合わせる事もないだろう、とシオンは自分の気持ちを落ち着かせる。
ふと、同じ日にあった女教師の話を思い出し、シオンは手を止めて師に振り返った。
「…師匠、学園の先生にならないの? あの先生、必死に頼んでたけど」
「ならん。なる気もない。餓鬼共の面倒を見るなど、どんなに頭を下げて頼まれたとしても御免だ」
「でも、私の面倒は見てくれてるじゃない」
「……それは、自分を糞餓鬼と認めての言葉か」
「そういうわけじゃない……っていうか、そんな風に思われてたとか、初耳なんだけど」
師に確認すると、思わぬ返答が返ってきて戸惑うシオン。
普段から迷惑をかけまくり、その度に謝っている記憶があのだが、もしかしたらそれ以上に師を苛立たせているのだろうか、と不安になる。
「…師匠が先生になったら、この間の奴みたいな碌でなしも居なくなると思うのに。師匠ならあんな奴ら、授業の片手間でぶっ潰せるでしょう?」
「しろ、と? あの手の輩に態々付き合えと? 馬鹿も休み休み言え。関わり合いになりたいと思うか、馬鹿め」
「えぇ〜……あんなの私も関わりたくないのに」
がっかりした様子で肩を落とすシオン。
あまりに目に余る行為に、思わず立ち向かった彼女だったが、相手の力が強かったために手も足も出せなかった。
師のように、力のある者が制御してくれるのであればそれ以上に楽な事はない、と考えるシオンだが、生憎師はそんな怠惰を叶えてくれるほど甘くはなかった。
「手のかかる餓鬼はお前一人で十分だ。重荷を自ら背負うなど、己は御免被る」
「…重くないし、むしろ軽いし」
「重い。できる事なら、お前にも疾く独り立ちして欲しいものだ……今のお前では、それも叶いそうにないがな」
心底面倒臭そうにそう呟く師を、シオンは思わずじろりと鋭い目で睨む。
気を遣う事をまるでしないこの大男に何を言っても無駄だろうが、自身の気持ちを無視される事は我慢がならなかった。
「絶対いや。そんな事を言うんなら、私は師匠と死ぬまで一緒にいてやる。この先も老いるまでずっと隣にいて、一緒の墓に入ってやる」
ふんっ、と鼻を鳴らすシオンに、今度は師がぎろりと鋭い目を向ける。
じっと弟子の目を見つめるが、不思議そうに見つめ返されるだけで、自分が何を言ったのかもまるでわかっていない様子であった。
師は思わず、天を仰いで肩を落とした。
「…これだからこの小娘は」
「? 私、何か変なこと言った?」
訝しげに首を傾げるシオンに、師は今度は項垂れて頭を抱えてしまう。
何やら自分が失言をしてしまったようだが、どれが原因で、どうして項垂れているのか全くわからず、シオンはおろおろと宙に視線を彷徨わせる。
戸惑う弟子の前で、師はやがて舌打ちと共に立ち上がり、歩き出した。
「……もう行くぞ。依頼の量には十分届いているだろう。あまり長居すれば、日が暮れる前に森から出られなくなる」
「ねぇ師匠、私の言った事の何がおかしかった? それだけ教えてほしいんだけど、ねぇってば」
「……行くぞ」
しつこく尋ねてくるシオンを無視し、師は森の出口に向けて歩き出す。
木々の間を歩く間も、何が気に障ったのか気になって仕方がないシオンは、師の袖に縋りついて呼びかけ続ける。
何度も何度も問い続け、シオンの方が根負けしかけた時だった。
ピタリ、と唐突に師が立ち止まる。
釣られて足を止めたシオンが、師が見ている方向を見やると、はっと息を呑んで顔色を変える。
そこにあったのは、地に伏した黒い毛むくじゃらの塊―――森に棲む熊の亡骸だった。
人の背丈の倍を誇る巨体に、長く鋭い爪を持った、森の主と呼ばれる種の一体。遭遇すればまず命はないとさえ言われる、危険な種だ。
それが、物言わぬ骸となって転がっている。
草地に赤黒い血の池を広げ、その上に俯せになって、ぴくりとも動かない。その体には、貫通した大きな穴が開いていた。
「……これは」
「死んでるの…?」
「そのようだな。森の獣にやられた傷ではない事は確かだが……」
師はシオンと共に熊の亡骸に近づき、森の生存競争で受けたものではまずない傷跡をなぞる。
亡骸に開いた丸い穴は全身の至る所にあり、縁が焦げたように黒く染まっている。
熊の顔を見てみれば、獲物を前に襲い掛かろうとする威嚇の形で固まっていて、自らの死を自覚する事なく息を絶ったことを示していた。
「これ……魔術? それとも何か、武器か何かで?」
「おそらくな。ごく最近……昨日一昨日に受けた痕のようだ。それも、複数人に一斉に撃たれたものらしい。……殺したら殺したで、他に何もされていないようだ」
「酷い……食べる為でも、毛皮を獲る為でもないなんて」
溢れた血は、黒く変色して草地にこびりついている。
大勢で殺してそのままにし、肉を取る事も毛皮を剥ぐ事もなく、森の中に放置している。ただ単に獲物を仕留める事だけを目的とした狩りの痕だ。
そのやり方と後始末の杜撰さに、シオンは思わず嫌悪で顔を歪ませる。
「……的代わり、か」
「え?」
ぼそり、と師が呟くも、無残な熊の亡骸を凝視していたシオンは聞き取れず、咄嗟に尋ね返す。
しかし師はそれに答える事なく、仮面の奥の目を細めて立ち上がった。
「行くぞ、組合に報告しなければならん。…此奴はこのまま此処で眠らせておいてやろう」
「……犯人を捜さないの?」
「己らだけでか。どこの誰とも、何人で寄って集って行ったのかもわからぬのにか。それは勇敢ではなく無謀というものだ」
無情に、熊の亡骸から離れる気でいる師をじろりと見やるシオン。
命をあまりに軽視した行いに、内心で酷く憤慨していた彼女は、自分と同じ考えを抱いていない師に咎めるような目を向ける。
「…何も思わないんだね、師匠は」
「驕るな、小娘。これは人間の悪意によって行われたもの。善意だけで首を突っ込んで救われるものなど何もない……己の分を弁えよ」
見下すような響きを持って告げられ、シオンは何も言い返す事ができない。
ただ殺す為だけに殺された、人間の悦の為に殺された熊の亡骸から漂う腐臭に背筋の毛を逆立てながら、棒立ちになるばかりだ。
「調べたければ、自分で後に依頼を受けよ……そこから先は自己責任だがな」
「……師匠、いやな生き方してるよね」
「そう思うのならば、何時でも去ってくれて構わんぞ―――己は、人に好かれる為に在るわけではない」
師は悔し気に俯くシオンに背を向け、巨体を揺らして歩き出す。
そして、弟子の方を見ずに声を発する。
「斯様な醜悪な業を残す人になど、好かれたいとも思わん」
憎悪に満ちた言葉を残し、ずぶずぶと黒い靄に包まれて姿を変える師が、弟子にそう告げて去っていく。
シオンはその背中をしばらくの間睨みつけ、立ち尽くしていたが、やがてぶすっと険しい顔で歩き出し、師の後をついて行く。
その様を、事切れた巨熊の死骸だけが見送り、辺りは再び静寂に包まれた。




