01:賢者の目覚め
時計塔の向こう側から、眩い朝の陽ざしが差し込んでくる。
ゆっくりと、ゆっくりと空へと昇る陽の光に、その国の街並みが淡く照らし出されていく。
広大な草原のど真ん中。四方を森と山に囲まれ、中心を大きな川が流れる街。
煉瓦と漆喰に彩られた、数えきれない多種の建物の周囲は高く分厚い壁で囲われ、円形を描いている。
街にはいくつもの煙突が立ち、もくもくと黒い煙を吐いている。
また至る所に巨大な歯車が備えられ、ぎりぎりと軋む金属音を響かせ、街中の様々な機械を動かしている。
煤や油の臭いが漂う、膨大な数の人々が住まい、働く国がそこにはあった。
だが、その宿があったのは街の中心から大きく離れた、寂れた場所だった。
大通りから枝分かれする横道を幾つも抜け、狭く、日の射さない暗い通路の奥に建つ、一軒の襤褸宿に〝彼〟はいた。
埃が舞う狭い部屋。太陽とは真逆に窓が開かれた、居心地の悪い空間。
そんな安宿の窓際に置いた椅子に腰を下ろし、腕を組んで沈黙していた大きな人影があった。
「…………」
黒い、夜の闇よりも深い色のローブを羽織り、その下に分厚く刺々しい衣装をした鎧と、漆黒の光沢を放つ猫の仮面を纏う、身の丈七尺を誇る巨体。
じっと、黒い大男は彫像のように一切身動ぎする事なく、しんと沈黙し続けていた。
やがて、彼の仮面の目に不意に、ぼぅ…と紅く光が灯る。
血のように紅く輝く目を何度か瞬かせると、仮面の大男はごきごきと首を鳴らし、大男は億劫そうに立ち上がった。
「―――天気は晴れ、風は適量、気温も程々。まさしく好日といったところか……憂鬱な」
開口一番に、気だるげに吐き捨てる大男。
男なのか女なのか、子供なのか老人なのか、詳しく聞き取る事が難しい奇妙な響きの声で呟き、肩を落とす。
虚空を見つめていたその目が、不意に部屋の角に向けられる。
そこにいたのは、すやすやと心地よさそうに眠りに就く若い娘だった。
癖の強い髪に、三角形の猫の耳。張りのある肌に長い睫毛、小柄な体には不相応な豊かに育った各所。
同性であってもはっと目を惹く程の様相を有した少女が、黄ばんだ寝具の上で毛布を抱え、尾を揺らして寝息を立てている。
大男はしばらくの間、少女をじっと見つめていたかと思うと、徐に近付き、少女の脳天に拳を振り下ろした。
「起きろ、馬鹿弟子」
「―――⁉」
突如、頭皮と頭蓋骨に襲い掛かった強烈な痛みに、黒猫の少女はかっと目を見開き、全身をぴんと伸ばして硬直する。
ぶるぶると全身を震わせた少女は、ぎこちない動きで顔を動かし、涙目で大男を睨みつけた。
「…! ぁにすんの、師匠ぉ…⁉」
「文句を垂れるなら自分で起きろ、シオン。今日が何の日か……抑も何の為にここに居るのか、確と思い出せ」
体を丸め、ずきずきと痛む頭頂部を押さえる少女に、大男―――師と呼ばれた者が冷たく告げる。
黒猫の少女・シオンはのそりと体を起こし、白み始めた窓の外を見やり、あっと声を漏らす。
「おっと、そうだったそうだった……今日は大事な日だった」
「誰の為だと思っている。さっさと準備をしておけ、今日は色々とやる事があるのだからな」
「やる事…?」
頭を摩り、酷い軋みを上げる寝具の上から降りるシオンに背を向け、師はごそごそと部屋の隅に置いていた鞄の中を弄り始める。
それを横目に見ながら、シオンも寝間着を脱ぎ、着替えを始める。
未だ寝惚けた様子を見せる弟子に目を向けないまま、師が平坦な声で告げる。
「―――次の〝漂流者〟が見つかった。これから迎えに行かねばならん」
「! またなの? 最近頻度が速くなってない…?」
「理由など知らん。探して連れて来いと頼まれている以上、それを全うするだけの話だ」
目を見開き、師の言葉に驚きの目を向けるシオンが、着替える途中のまま問いかける。
形の良い胸や細い腰や丸い尻、尻尾の付け根までもが露わとなっているが、振り向いた師は何の反応も返さず、無言でシオンを見つめるだけ。
シオンもその事に何も不満をこぼさず、寝具の横に置いていた黒い衣服を掴んだ。
「そうか、本当に忙しくなりそう……生きて見つかればいいね」
「どちらでもいい。そういうわけで予定が二つに増えた故に、朝はもう余裕がない。さっさと着替えろ」
「…師匠、私一応年頃の娘だからね? 今更だけど…」
「馬鹿弟子に気を遣ったところで、甘やかすだけであろうが」
「相変わらず、容赦がないねお師匠様……!」
険しい顔になりながら、上下の肌着を身に着け、自分の過剰な程の身体の膨らみを覆う。
その上から衣服を被り、袖に腕を通して裾を伸ばし、尻尾を服に開いた穴に通してから、腰と腹と胸の下に革の帯を幾本も巻く。
「今日はお前の試験もあるのだ……案じて何がおかしい。お前の行い全てに於いて、己の不安を掻き立てなかった事が一度としてあったのか。その無駄にでかい胸に手をあてて考えてみろ」
「無駄とは何か無駄とは。大丈夫に決まってる、何の為にこれまで努力してきたと―――」
「その言葉に信用性があるのなら、己はこんな話をしていない」
「……師匠のそういうところ嫌い」
楽観的に語る弟子に、師は覚めた様子で無情な言葉を告げ、肩を竦めてみせる。
全く信用してくれない師に、シオンは深くため息をつき、肩を落とす。だが負けてなるものかとばかりに唇を噛み、目力を込める。
最後に外套を羽織り、寝具の下に置いた鞄を担ぎ、着替えと出かける用意を終えた。
「準備完了……それじゃあ行こうか、師匠」
「お前が仕切るな、馬鹿者」
ふん、と何故か誇らしげに胸を張って鼻を鳴らす弟子を睨み、師が歩き出す。
ごとん、ごとんと重い足音を響かせ、部屋の扉に向かう師の後を、シオンが軽い足取りで追う。
「全く面倒臭くて敵わん……何故今更になってあの糞餓鬼の尻拭いをしなければならんのか。異世界になど、やはり来るものではない」
「…? 師匠、何か言った?」
「さぁな……行くぞ」
億劫そうな足取りで廊下に出た師が、仮面の奥の目を細めながら、小さく呟きをこぼす。
ぼそりと響いたその言葉に、シオンが訝しげに声をかけるも、師は適当に誤魔化し足も止めない。
不思議そうに首を傾げながら、黙々と先へ進む師が遠のいていく事に気付き、駆け足で彼の大きな背中を追っていった。