変わる生活・変わらぬ幸福
愛海ちゃんが帰っていくと、慶作くんは、晩ご飯の準備をしていたリーさんのいる台所に向かいました。
「どうしたか? ご飯はまだよ」
「そうじゃなくて……僕にも何か、リーさんの仕事、手伝えないかな?」
玉ねぎをみじん切りしていたリーさんは、手を止めて慶作くんを見つめました。
「驚くね。ケイサク、わたしの仕事取るか? クビにするか?」
「そ、そうじゃないよ」
慌てる慶作くんに、「冗談よ」とリーさんは包丁を置きました。
「なんでそう思うか?」
「その……ルスを飼いはじめてさ、いろいろお金もかかるようになったから、僕にできることで、家のことを手伝えないかなと思って……」
「うん。いいことだ。ケイサクはいい旦那様になる。わたし泣いちゃうよ」
涙を拭う真似をするリーさんに、「玉ねぎ切ってるからでしょ」と慶作くんは笑います。
「ケイサクは優しい子だ。でも料理はわたしの仕事よ。ひとりでやりたいね」
「そっか」
「自分の部屋の掃除をするがいい。鳥の世話もケイサクの仕事。それだけでとても助かる。わたしは、ちょとだけ、鳥が怖いだから」
「わかった。そうする。今日の晩ご飯は?」
「ハンバグね。も少し待つよ」
「うん。部屋の掃除してるね」
自分の部屋に戻っていく慶作くんを、リーさんは笑顔で見つめ、また玉ねぎのみじん切りに取り掛かりました。
その夜、授業でやってきた家庭教師の真奈美さんに、慶作くんは尋ねました。
「どうしたらさ、お父さんのお金の負担を減らせるかな」
まだ小学五年生の男の子がそんなことをいったものですから、真奈美さんは驚きました。
「お金を稼ぎたいの?」
「それは、たぶん、まだ無理だと思う。でも、ルスの餌代は結構かかるし……。だから、僕にできることで、何か節約できないかなって。お小遣い減らすとか、おやつ減らすとか」
授業終わりの真剣な相談に、真奈美さんは長い髪を揺らして首を傾げます。
「『お父さんの負担になってる』って、どうして思うの?」
「だって、僕が『ルスを飼いたい』っていいださなかったら……」
「そうじゃなくて、慶作くんのお父さんは、『お金かかるなぁ』なんて、全然思ってないかもしれないでしょう?」
実際、人気作家である真作さんの収入から考えれば、ルスにかかる毎日の餌代など、ほんの少し食費が増える程度のことだったでしょう。しかしもちろん、真奈美さんが指摘しているのは単純に家計の話ではありません。
「慶作くんは、ルスと一緒にいて、楽しいでしょう? 毎日ご飯あげるのも、掃除をしてあげるのも、大変とは思わないでしょう?」
「え?……うん。僕は、そうだよ?」
「多分ね、慶作くんが楽しいことは、お父さんも楽しいことだと思うの。『負担だなぁ』なんて考えないと思うんだ」
目からうろこが落ちたとき、人はこんな表情になるのでしょう。慶作くんの顔はまさにそうでした。
「そう、かな?」
「そうだよ。慶作くんだって、お父さんが楽しそうにしてたら、自分も楽しいでしょう? だから、お金のこととかは考えないで、毎日楽しくルスと向き合ってあげたら、きっとお父さんも嬉しいと思う」
「そっか……そっか」
慶作くんが安心したように頷くのを見て、真奈美さんは微笑みました。
「節約しようかなっていうのは、いい心がけよ。楽しく工夫できたらもっといい。でも、無理をして毎日辛い思いをしてたら、ルスとも楽しく暮らせないでしょう?」
「うーん。……わかりました。ありがとうございます、真奈美先生」
「はい。どういたしまして。……あ、慶作くん、スマホ持ってたよね?」
「持ってるけど?」
「ルスの写真とか、動画とかをね、スマホで撮影してお父さんに送ってあげたら? 絵を描くお仕事なんだから、いつか役に立つかもしれないよ」
「それ、いいかも!」
その日から慶作くんは、一日に一回は必ず、真作さんにルスの様子を、写真や動画を添えて伝えるようになりました。
ルスのお陰で、決して少なくはなかったふたりの会話が、以前よりももっと増えました。
真作さんがさらさらと、自分の漫画のキャラクターの顔を色紙に描いていくのを、ブリーダーさんはわくわくとした表情で見つめていました。
「いやぁ、まさかこんな形で、ずっと諦めていた新賀先生のサインをもらえるとは」
レンタルしていたケージを返すためにブリーダーさんの家を再訪した真作さんは、そこでサインを頼まれていました。
「むしろ遅れたくらいだよ。あれっきりサイン会はしてないから」
「残念ですけど、お気持ちはわかります」
「……よし、完成」
指定されたキャラクターを描き上げ、宛名つきでサインも添えた色紙を、ブリーダーさんに手渡しました。
「どうもありがとうございます。一生の宝物にします」
「いやいや、ありがとうはこっちだよ。きみがブリードしてくれたハネカエドリを、息子はすごく喜んでる。妬けるくらいに毎日一緒だ」
「何よりです。ケージはやっぱり不要でしたか? 返却にお手間をいただいてしまいましたけど……」
「買って無駄になるよりマシさ。助かったよ。連絡先を聞いてもいいかな? 飼育についてアドバイスがいるかもしれないから」
ブリーダーさんは快諾し、ふたりは連絡先を交換しました。
「とはいえ、一般的な鳥については多少なりとも助言できますけど、ハネカエドリについてはわからないことだらけですからね。お役に立てるかどうか。……もしものときは、ハネカエドリを研究している施設を紹介しましょうか?」
「ん。助かるよ。何から何まで」
「商売ですから。……ところで」
ブリーダーさんは、真作さんの後ろで鳥たちを眺めている女性を、ちらと見ました。
「そちらの、おきれいな女性は?」
「……きみを信用しているが、俺の恋人だ。デートも兼ねてる」
秘密にしてくれよ、と真作さんが頼むと、後ろにいた女性もまた、にこりと笑って頭を下げました。
とある日曜日の昼下がり、真作さんのマンションを出入りする五人の男女が、偶然集まりました。
「ちょっと高かったけど、いい買い物したよ」
真作さんが自宅に資料を取りに来たところ、プライベートでリーさんに会いに来た真奈美さんが台所にいました。慶作くんは愛海ちゃんと一緒に自分の部屋で遊んでいました。
コーヒーを飲む真作さんの前に、ダイニングテーブルを挟んで真奈美さんがいました。
「ハネカエドリ、でしたっけ。結局おいくらだったんですか?」
「あー……やめとこう。絶対『男って馬鹿』って思われるもん」
「思われてもよいですよ。あの鳥、もうケイサクの友達。お金関係ないです」
食器を洗っているリーさんに、「いいこというね」と、真作さんは指を振ります。
「俺はそんなにいろいろ期待してたわけじゃないんだけど、ルスが来てからの慶作は、けっこう変わった気がする。明るくなったというか、自分から喋るようになったというか」
「ケイサク、性格もしかりしてきました」
「前からしっかりしてましたけど……慶作くんは、〈自分にできること〉と〈大人に頼ること〉を考えるようになったと思いますよ」
「それな。あいつ、困ったときは自分ひとりでどうにかしようとしてたから。……まぁ、俺がもっとちゃんとした親父だったら良かったんだろうけどよ」
自嘲気味に真作さんが呟くのを、すぐに真奈美さんが否定しました。
「真作さんは十分いいお父さんですよ。慶作くんに信頼されてますから」
「ん。そこんとこは俺の自慢だ。……っていうか、聞きたいんだけど。俺と慶作って仲が良すぎるかな? あんまりベタベタしすぎてるかな?」
「ダメってことはないと思います。ねぇ?」
「マナミが正しいです。仲良いは仲悪いよりもいいに決まてます」
「そりゃそうなんだけど……慶作、なんか俺のこと気にしすぎじゃねーかなって。俺があいつの年頃のときって、『親父はあっちいけ!』って感じだったから。もっと好きにやっていいのに。たまにはあいつに怒ってみたいよ」
真作さんがぶつぶついうのを、女性ふたりは笑って聞いていました。
「ふたりはこれからどっか行くの?」
「リーの仕事が終わったら、ちょっとお買い物に。夏物をふたりで見ようかなって」
「いいね。服とか試着するなら写真ちょうだい」
「スケベはダメよ。シンサクさん」
「そんなんじゃないやい。漫画の資料として使うっつーの」
「あ、やっぱりお父さんだ」
台所にいた三人が顔を向けると、隣接する居間に、スケッチブックを抱えた慶作くんと愛海ちゃんが二階から降りてきていました。
「お父さん、どうしたの? 忘れ物?」
「おう。ついでにちょっと休憩してた。いらっしゃい、愛海ちゃん」
「お邪魔してます。おじさん」
愛海ちゃんは丁寧にぺこりと頭を下げました。
「ずいぶん静かだったけど、ふたりで何してんだ?」
「ルスの絵を描いてたよ。ね?」
「ほーう。ちょっと見せてくれよ」
真作さんがふたりを呼び寄せると、慶作くんが素直にスケッチブックを差し出すのに対し、愛海ちゃんは背中に隠してしまいました。
「なんだ。愛海ちゃんは見せてくれないのかよ」
「やだ。プロの漫画家に絵を見られるなんて恥ずかしいもん」
「気にするなよ。俺なんて毎週何十万人に見られて恥かいてるんだぜ?」
「やだやだ」
「愛海ちゃん、わたしにならいいでしょう? こっち来て」
真奈美さんが手招きすると、愛海ちゃんはとことこと駆け寄りました。
「愛海ちゃん上手じゃない。羽とかよく描けてるよ」
「ほんとに? リーさんもそう思う?」
洗い物を中断したリーさんが頷く傍らで、真作さんも息子の絵を見ていました。
「慶作ぅ、もっと線を足して大きく描いたらどうだ? 余白が多くてちょっと寂しい」
「そうかな?」
「ほーらダメ出ししたー」
愛海ちゃんがそういうと、女性陣は揃って笑いました。
「じゃあさ、お父さんも描いてみてよ」
「お、俺もか?」
真作さんは少しだけ躊躇しましたが、すぐにスケッチブックを捲って立ち上がります。
「おーし、やったらぁ! 絵と恥のかき方をプロが教えてやる! チビどもついてこい!」
ずんずんと大股で廊下に出て行った真作さんの背中に、子供たちがついていきました。
そんな三人を、リーさんと真奈美さんが見つめていました。
「シンサクさんは良いお父さんだ。何を心配していたのか」
「ほんとにね。優しくて頼もしい。……リー。あと食器片付けるだけでしょ? 遊ぶ時間なくなっちゃうよ?」
「そうだたね。ごめんなさい」
とある日曜日。
とびきり幸せな昼下がりでした。