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キマイラに捧ぐ  作者: 春戸稲郎
四月の物語
4/31

浦野真奈美と西江賀真作


 慶作くんに家庭教師をあてがった理由をあえてもうひとつ挙げるなら、塾に通わせたくても、多忙な真作さんでは送り迎えができないから、ということもありました。

 午後八時半。隣接する台所から水音が聞こえる居間で、座卓に向かう慶作くんに、長い黒髪の女性……浦野真奈美さんが、裏返した紙を差し出します。

「今日の分のおさらいのテストね。満点だったら終わりにしましょう」

 頷いた慶作くんは、テスト用紙を表にして、連ねられた英文を目で追っていきます。

 教え子がテストに向かっている間に、真奈美さんは台所へ向かいます。

 慶作くんはいつも真奈美さんに対して、柔らかなイメージを抱いていました。栗色の強い黒髪や体の線を強調しない服、そして穏やかで優しい声がそんな印象を与えていました。

 洗い物をしていたリーさんは水道を止めてエプロンで手を拭き、小声で話しかけます。

「お疲れ様、マナミ。コーヒーいるか?」

「テスト終わってからもらおうかな」

「そか。そこにご飯ある。家で食べるがいい」

「ありがとう。……すっごい助かるけど、お陰で太っちゃうなぁ」

「運動しないからだ。歩け」

 ふたりがくすくすと笑い合うのを、問題を解きながら慶作くんは聞いていました。

「リーっていつ見てもスリムだよね。けっこう食べるのに」

「デブになたらアオザイ着られないよ。最近ヨガ始めた。マナミも来るか?」

「ちょっと興味ある。けどお金かかりそうだなぁ」

「授業増やすがいい。ケイサクも喜ぶ。シンサクさんも安心する」

 慶作くんの家庭教師の真奈美さんは、当初は派遣所との契約で慶作くんに英語を教えていましたが、日程や時間などの融通を利かせるために、その年から真作さんの希望で個人契約を結んでいました。

「うぅーん。……社会人になってからでいいや」

「それならスーツ入らないくらい太らすか」

「それは、ちょーっと洒落にならないよ、リー」

 真奈美さんの授業がある日は大抵、家政婦であるリーさんもいるため、歳の近いふたりは自然と仲良くなっていました。

 慶作くんがテストを解き終え、真奈美さんが採点します。

「……ん、ほぼ満点だね」

「やった」

「すごいね慶作くん。今日のは中学生でも難しい問題だったよ」

 宿題をやる傍ら、慶作くんは英語の独学にも励んでいました。褒められたいから、というのが第一の動機でしたが、それは家庭教師の真奈美さんにだけではありません。

 細かい見直しをしているとき、玄関の扉が開く音が聞こえると、慶作くんはぱっと顔を上げました。

「先生ごめん。お父さんだ」

 真奈美さんに断りを入れてから、リーさんが動くよりも早くに慶作くんが玄関に走ると、スニーカーを脱ぐ真作さんがいました。

 真作さんは慶作くんの将来を思わせる端正な面立ちをしていましたが、ぼさぼさの髪や無精ひげでいつも台無しでした。年季の入ったジャケットとくたびれたジーンズという飾り気のない格好でさらにマイナスです。

 漫画家という、運動とは無縁の仕事をしているのに真作さんは痩せていて、その日も笑みでは隠しきれない疲労が顔から伺えました。

「お帰りなさい。お仕事はもう終わったの?」

「ただいま。原稿はまだなんだけど、大体メドがついたから、ちょっとメシ食いに来た。終電までにはあっちに戻る。ああ、リーさん、仕事終わりで悪いんだけど、なんかメシあるかな? 火の通った野菜を食べたい」

 玄関に顔を出したリーさんは、雇い主の注文に頷いて、すぐに台所に戻りました。

「連絡してくれればよかったのに」

「悪いな。でも真奈美先生と勉強中だったろ?」

「今終わったところ。聞いて。さっきテストで満点取ったんだよ」

「すげぇな。俺は人生で一度も満点なんか取ったことないよ。慶作は頭いいな」

 真作さんが肩を叩いて褒めると、慶作くんは満足そうに笑いました。


 本当なら真奈美さんのお土産になるはずだった中華料理を、真作さんは味噌汁と一緒にもりもりと食べていました。

「うまい。体が野菜ほしがってたのがわかる。やっぱ食事のバランスって大事だわ」

「誰もお料理されないんですか?」

 同じダイニングテーブルにかける真奈美さんの問いかけに、真作さんは苦笑します。

「うちが男所帯だからかなぁ。関心ないし時間もないしで、コンビニ弁当ばっかりだ」

 真作さんは仕事場として、電車で一本の距離にあるマンションを借りていました。慶作くんが寝食している家でも作業できないこともありませんが、仕事と家庭はきっちり分けたいという真作さんのポリシーがそうさせていました。

「お父さん、ちゃんと寝てる?」

「心配すんな。徹夜は全然してないから」

「それならいいけど……」

 多忙を極める真作さんの週刊連載もすでに六年目に入っており、慶作くんも頭では、自分の心配が杞憂であることをわかっていました。しかし父親の作品が好評を博していることを喜ぶよりも、たったひとりの肉親の健康を憂う気持ちが強かったのです。

 食事を終えた真作さんに、慶作くんは学校でもらった保護者向けのプリントを渡します。

「五月に授業参観があるんだけど……」

「絶対行くから安心しろ。学校の写真資料も欲しいしな。そういやクラス分けどうなった? また愛海ちゃんと一緒だったか?」

「うん。今日もうちで一緒に遊んだよ」

「そうか。……愛海ちゃんには一年生のころから仲良くしてもらってるからなぁ。一度親御さんに挨拶にいったほうがいいのかな……」

 そこで、真作さんはプリントを脇にやり、テーブルに肘をついて、向かいに座る慶作くんに身を乗り出しました。

「愛海ちゃんと何して遊んでるんだ?」

「え? どうして?」

「俺は男子としか遊ばなかったからな。女の子とどうやって遊ぶのかと思って」

 少年漫画家という職業柄か、あるいは単純に父親としてか、真作さんはひとり息子の交遊に日ごろから興味津々でした。

 思春期に差しかかろうとする年頃の慶作くんは、もじもじと答えました。

「別に……ままごとしてるわけじゃないよ。一緒にユーチューブ見てお喋りした」

「まぁ愛海ちゃんはゲームとかしそうにないけど。それで? 何見て何を話すんだ?」

「えー? まだ話さないといけない?」

「いいから教えろよ。誰にもいわないから」

 連載に忙殺されている真作さんが自宅に帰ってくるのは三日ぶりのことでした。スマホを介さずにやり取りされる会話も同じく。

 楽しそうに言葉を交わす親子を、真奈美さんは微笑みながら見つめていて、リーさんは、助け舟のつもりで、こういいました。

「ケイサクとアミ、ペトの話をしてましたよ」

「ペト?」

「動物。生き物。ケイサクは犬が欲しいといてました」

 意外だったのか、真作さんは目を丸くしました。慶作くんは、咎めるようにリーさんを見つめました。

「たとえ話だよ、リーさん。僕じゃ犬は飼えないし」

「でもケイサク、楽しそに話してた」

「慶作、ペットほしかったのか? 飼えないってことはねーぞ?」

 父親に問われ、慶作くんは、しゅんとしたようにうなだれてしまいました。

「違うよ。欲しくないよ」

「ほんとか? 遠慮されたら父ちゃん寂しいぞ?」

 慶作くんが人に気を遣いすぎる性格であるということを誰よりも知っているのは真作さんで、だから、息子の本音を聞きだす尋ね方も心得ていました。

 慶作くんは少し考えてから、おずおずと語りました。

「……ほんとは、ちょっと欲しい、かもしれない。……誰かがうちに、眠るときまでいてほしいって、起きたときにいてほしいって、思うこともあるから……」

 リーさんも真奈美さんも、仕事である以上帰らなければなりません。真作さんもできるだけ家に帰るようにしていましたが、仕事場を離れられない日も度々ありました。

 ふたりの女性が慰めの言葉を探している間に、よし、と真作さんは手を叩きました。

「慶作、今度の日曜、一緒にペットショップに行こう」

「え? い、いいよ。お父さん忙しいでしょ?」

「時間作る。ちょうど息抜きしたいと思ってたところだ。……飼うとか飼わないとかは、実際に見て、プロに話を聞いてみないとわかんねーだろ?」

 行こうぜ、と真作さんが強く誘ったので、慶作くんはリーさんと真奈美さんの顔を見回してから、うん、と笑って頷きました。

 たったひとりの肉親で人気漫画家である父親が、慶作くんは大好きでした。


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