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キマイラに捧ぐ  作者: 春戸稲郎
八月・終わりの物語
30/31

旅立ち

 

 八月も終わりに差し掛かった日の夕刻。

 本来ならまだ明るいはずの時刻でしたが、その日は近付く台風による荒天のせいで、空には厚い雲が敷き詰められ、高い湿度もあり、どんよりと陰気な薄暗さでした。

 今夜半にはいよいよ台風の暴風域が飛び込んでくるとあって、周囲の家々は雨戸を閉めていました。

 人の姿の見えない住宅街に一台のタクシーがやってきて、最寄り駅から運んできたひとりの女を降ろすと、足早に去っていきました。

 ごうごうと湿り気を帯びた風に長い髪を嬲られながら、化粧の厚い若作りな女は、キャリーケースを担いで短い階段を上り、一軒の家の呼び鈴を押しました。

 築年数で言えば三十年以上か。経年劣化の進んだその家だけは、雨戸も何も、台風に対する備えがなされていませんでした。

 ぱたぱたと足音が近付いてきて、中から玄関扉が開かれました。

「いらっしゃい、お母さん」

 小柄な、中性的で可愛らしい顔立ちの少年に笑顔で迎えられて、女は困惑しました。

「ずいぶん元気そうじゃない、慶作」

「そうかな」

「……まぁ、泣いてぐずぐずするよりかはマシね」

 上げてよ、と女がいうと、慶作くんは、どうぞ、と扉を大きく開いて歓迎しました。

 女は薄暗い玄関で靴を脱ぎながら、面倒そうにいいました。

「雨戸とか、閉めてないの?」

「ああ、そういえば……忘れてたよ。あとで手伝ってくれる?」

「なんでわたしが」

「今晩は泊まっていくんでしょ? 一日だけでも住むわけだし……」

「そうじゃなくて、あの外人の家政婦にやらせればいいでしょ」

 靴を脱いでいる女のハンドバッグを持たされた慶作くんは、ああ、と思い出したように、こういいました。

「リーさんはね、もういないんだ」

「はぁ? 家政婦辞めたの? いつからいないの?」

「うーんと……もう五日くらい経つかな。今は僕ひとり」

 それを聞いて少し驚いた様子の女でしたが、すぐにあざけるような表情に変わりました。

「さんざん偉そうに説教を垂れてくれた割には、あの女もずいぶん無責任ね」

「うーん……そんなことをいう資格は、お母さんにはないと思うなぁ」

 にこにこと笑いながら辛辣な言葉を浴びせてきた慶作くんに、女は目を丸くしました。

「いうじゃない。これから母親になる人間に向かって」

「僕に母親はいないし、必要もない。僕を引き取りたくなければ、今すぐ帰れば?」

 慶作くんは一切の敵意を示さずに、女を挑発しました。

 女は面白くなさそうに、ふん、と鼻を鳴らします。

「子供の癖に生意気ね。……首輪をつけてでも、あんたはわたしが連れ帰るわ」

「ペット扱いはともかく、虐待したら噛み付くと思ってね。……お金が欲しければ、〈いい子〉にすることだよ」

 こっちへどうぞ、と慶作くんは、女を居間に案内しました。

 この五日ほどをひとりで過ごしてきた慶作くんの家の居間は、雑然としていました。ゴミ箱にはコンビニの弁当箱などが詰め込まれ、干して乾きはしたものの、衣類はたたまれずに放置されていました。

 もっとも、慶作くんの生活環境などに頓着しない女は、ソファーの上の衣類を払いのけて、そこに腰を落ち着けました。

 そのとき女は、足元に白い羽が落ちていることに気付きました。よく見ればそこらじゅうに、白い羽根が散らばっていました。

 不審に思ったかもしれませんが、慶作くんも居間に入ってきて、女の注意は逸れました。

「とりあえずお茶を……あ、お母さんはコーヒーがいいかな?」

「要らない。そんなことより、ちゃんと準備はできたんでしょうね」

 じろりと女が睨むと、慶作くんはこくりと頷き、居間の隅を指差しました。

 何が詰め込まれているのか、ぱんぱんに丸く膨らんだリュックサックがありました。

「ひとつにまとめたよ。いつでも出られるようにね」

「結構。朝になったらここを出るから」

「うん。……それなんだけどね」

 慶作くんが何事かをいおうとすると、ダメよ、と女が先回りしました。

「荷物はあれだけ、時刻は明日。それは変わらないから」

「とりあえず、聞くだけ聞いてよ。僕と今日まで暮らしてきた……」

「ペットの話なら論外よ。処分しとけっていったでしょ」

 女が呆れたように嘆息したときでした。

「黙って聞けよ、色気違いの年増女」

 慶作くんが冷たく鋭くいい放ちました。

 その瞬間、女はぎくりと硬直しました。

「おっと」

 慶作くんは、うっかりしたように口に手を当てます。

「悪い言葉だったね。ごめんなさい」

 そういって慶作くんは立ち上がりました。

「まぁ、でも……時間はあるんだから、とにかく僕の自慢話だけでも聞いてよ。それでもダメなら、僕は諦めるからさ」

 ちょっと待ってて、と女にいい残し、慶作くんは二階へ上がっていきました。

 女は黙って、居間で待ちました。

 窓の外で吹き荒ぶ風は、いっそう強くなっていました。

 やがて、二階から階段を降りてくる足音が聞こえてきました。

 ふたり分の足音が。

「お待たせ。紹介するよ」

 再び現れた慶作くんが〈それ〉を居間に導くと……女はぎょっとしました。

「なっ……だっ……!」

 異様な……異形の〈女〉が、立っていました。

「……だ、誰よ、その女……」

 慶作くんの隣に立つ、彼よりも頭ふたつほど背の高い〈異形〉に、女はそれしかいえませんでした。

 晴れがましい笑顔で、慶作くんはいいました。

「これが僕の……〈彼女〉が僕の、唯一無二の存在だよ、お母さん。……さぁ、ルス、初めての人には、挨拶だ」

 慶作くんが促すと、異形の女……ルスは、ぺこりと頭を下げました。

「はじめまして。ルスといいます」

 滑らかな言葉を話すルスに、慶作くんの母親は言葉を失いました。

 そのときまでは慶作くんの母親も、目の前にいるルスを、〈変な格好の人間〉と見ていたかもしれません。何せシルエットは完全に、大人の女性でしたから。

 頭とへそ周り以外は白い羽毛に覆われていたルスは、頭頂部にはヘラジカの角、腰には蛇の尻尾が生えていました。肘から先の両腕はヤモリのようで、女からは死角でしたが、背中には魚のひれがありました。

 肩から上……人間のそれにしか見えないルスの顔は、誰かに似ていました。

 愛海ちゃんに……リーさんに……あるいは真奈美さんに似ていました。

 洋服を身につけていない、異常な格好の変質者……という慶作くんの母親の認識は、ルスの膝から下の、鳥のようにしか見えない脚を見たときに一変しました。

「ひっ……!」

 短い悲鳴を上げた慶作くんの母親は、ソファーから反射的に立ち上がりました。

「なっ……なっ……なによ、それっ!」

 化け物を見るような……というより、まさしく化け物を見た表情で恐怖する慶作くんの母親に、慶作くんは端的に説明しました。

「彼女はルス。元は、ちょっと珍しい鳥だった。お父さんが僕に与えてくれた宝物で、今の僕のたったひとりの家族だよ」

「鳥? そいつのどこが鳥よっ!」

 狼狽する女に、慶作くんは笑いました。

「まぁ、驚くよね。……ルスは、進化する鳥なんだ。……彼女の手は、ヤモリを食べたからこうなった。彼女の腰にある尻尾は、蛇を食べたからこうなった」

 自慢げに話す慶作くんが隣のルスを見上げると、ルスもまた、愛しそうに慶作くんを見るのでした。

「ヘラジカの缶詰を与えたら角が生えて、魚肉を与えたら背びれが生えた。……話は逸れるけど、ルスを進化させるには、ひとつコツがあってね。血のついた生肉ほど、個性が強く、早く現れるんだよ」

 慶作くんは、かねてから不思議に思っていました。ヤモリを二匹、蛇を一匹、ルスに餌として与えたのですが、たったそれだけで強く個性が発現したことについてです。その何十倍もの量の鶏肉を与えても個性が消えないくらいに。

 鍵になるのは血液なのだと思い当たったのは、たったの一滴の血を舐めたことで、ルスがヒトの知能を獲得したからでした。

「DNA? 遺伝子? 僕にはよくわからないけど、ルスが進化するために必要な生物の情報は、生肉のほうが保有しているらしい」

 そこで慶作くんは、自分の母親を見つめました。

 まるで褒め言葉をねだるように。

「見て、お母さん。……やっと完成したんだよ。ルスは美しいでしょう?〈獣の姫〉という感じでしょう?」

 慶作くんが一歩近付くと、女は一歩、後ずさりしました。

「あ、あんた……それ、も、元は、鳥って、いったわね?」

「そうだよ。鳥のままでも十分可愛かったけど、今のほうが……」

「殺したの?」

 慶作くんの母親が、ルスに対するような目で、慶作くんを見ました。

「あんた……人を殺して、食わせたの?」

 女の問いに、慶作くんは素直に頷きました。

「そうだね。三人殺した。ルスの血肉になってもらった。冷蔵庫にまだ少し残ってるよ」

「………………まさか、ここにいた、家政婦や、家庭教師を……!」

 慶作くんが再び頷くと、女は、わなわながくがくと震えました。

「なんて……なんてことを……」

「だって、そうするしか、なかったんだ。ルスを完成させるしかなかったんだ」

「ど、どうして、なんで……」

「なんでって……もう、僕のこれまでの日常は、めちゃくちゃになってしまったし、このままだと、ルスや皆と離れ離れになってしまうから。だからそうなる前に……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。いつでもどこにでも連れて行けるようにね」

 いたって穏やかに語り続ける少年を、女は、もはや人とは見なさなくなったでしょう。

 ねぇ、お母さん、と、慶作くんは優しく語りかけました。

「ルスを連れて行ってもいいかな?」

 冗談のような慶作くんの願いは、当然拒絶されました。

「あんた……自分が何をいってるのか、わかってるの?」

「……まぁ、そうだよね。予想はしてた」

 慶作くんはさして落胆した様子もないままに、隣にいたルスの手を握りました。

「そういうことだから……ルス、これから一緒に、ふたりだけで暮らそう」

 そういうと、ルスはこくりと頷きました。頭の傾きに合わせて、慶作くんによって切り揃えられた黒い髪が揺れました。

「いいよ、慶作。でも、わたしたちはどこに行くの?」

「どこででもいいさ。嵐の夜に紛れよう。きみの隣が僕の居場所さ。……おっと」

 慶作くんはさっと動き、スマートフォンを取り出そうとした女のハンドバッグを蹴り飛ばしました。

 勢いよく吹き飛んだハンドバッグは、窓ガラスを割ってしまいました。

「あっちゃあ、やっちゃった」

「ひっ……!」

「お母さん、警察を呼ぶのは、まだ待ってくれるかな?」

「……やめ、やめて、殺さないで……!」

 怯えきった様子の母親に、慶作くんは呆れたようにため息をつきます。

「お母さんなんて、餌にする価値はないよ。殺す意味もない。……僕がルスに与えたいのは、〈愛〉だけなんだから」

 そのときでした。

 どんどんどんと、玄関の扉が乱暴に叩かれました。

 玄関の扉の向こうから、警察だ、ここを開けなさい、という男性の大声が。

 やれやれと、慶作くんは頭を振りました。

「窓を割ってしまったからかな。……まぁ、僕にまつわる行方不明者が三人も出たんじゃ、見張られもするだろうね。……さすがにもう、ごまかすのは無理か」

 慶作くんがそんな独り言を呟いているうちに、弾かれたように立ち上がった慶作くんの母親が、玄関に走っていました。

 それを見つめながら、慶作くんはゆっくりとリュックサックを背負います。

 そうして、ルスに手を差し出しました。

「それでは、姫、参りましょう」

「あなたとならば、どこまでも」


 ……家の中に警察官が踏み込んだときには、すでにふたりの姿はありませんでした。嵐の中に、ふたりは消えていました。

 わたしの知るところではありませんが……開け放たれた居間の窓から風が吹き込み、散らばっていた白い羽根を舞い上げていたことでしょう。


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