渚辺愛海とズオン・リー
「ただいまー」
築三十年ほどの一軒家。慶作くんが台所を覗き込むと、エプロンを付けたショートヘアの若い女性がいました。目鼻立ちがくっきりしていて、細い体型はタイトなジーンズがよく似合います。
「おかえり、ケイサク。今日はアミもいしょか」
滑らかながらもどこか変な日本語を話す女性に、慶作くんは笑顔でもう一度、「ただいま」と応えました。
「こんにちは、リーさん。お邪魔します」
「どぞ。アミは今日もおしゃれな。可愛い」
「嬉しい。慶作は服とか気付いてくれないから」
「ケイサクはいつもアミの顔ばかり見てる。服を見ないね」
リーと呼ばれる女性と愛海ちゃんが楽しそうに自分をからかうので、慶作くんは恥ずかしくても止めるに止められませんでした。
リーさんが晩ご飯の準備をしている途中の台所で手洗いとうがいを済ませると、慶作くんは冷蔵庫から魚肉ソーセージを取り出しました。
「それおやつ? わたしにもちょうだい」
「チョコとかもあるよ?」
「慶作と同じのがいい」
愛海ちゃんの希望で、慶作くんはいつもおやつにしているソーセージを渡しました。
「ケイサク、それひとつだけな。晩ご飯食べなくなる。アミは遊ぶ前に家に電話する。わかたか?」
「わかてまーす」
リーさんの口調を真似しながら、愛海ちゃんは魚肉ソーセージに噛み付きました。
八畳の広さのある慶作くんの部屋には、勉強机のほかに、パソコン用の机がありました。
小さなお尻を同じ椅子に乗せて、慶作くんと愛海ちゃんは、並んで動画投稿サイトを見ていました。
猫じゃらしに飛びついている仔猫の動画を見て、愛海ちゃんはため息をつきます。
「かわいーよね、ねこ。わたし将来、絶対スコティッシュフォールド飼うんだー」
「あー……お母さんがダメなんだっけ?」
「おばあちゃん。家の中で犬とか猫とか飼うのが考えられないみたい」
頭固いんだからと呟きながら、愛海ちゃんは右手のマウスを操作します。
「ハムスターは許してもらえたけど……ほら、大切にしても、すぐ死んじゃうから」
昔のことを思い出して沈んだ表情になりかけた愛海ちゃんは、慶作くんが何かをいう前に、ぱっと表情を変えました。
「慶作はさ、ペット飼うとしたら、どんなのがいい?」
「え? ペット? 考えたことなかったなぁ」
「犬と猫なら?」
「それなら、犬、かなぁ。わかんない。どうでもいいや」
「ふぅん。犬猫以外なら?」
「熱帯魚とか? すぐ死なせちゃいそうだよ」
「うさぎはどう? 可愛いしちゃんと懐くらしいよ?」
「寂しいと死んじゃうんじゃなかったっけ」
「迷信だよ。どうして死なせちゃうことばっかり考えるの?」
「……僕なんかに、ペットを育てられるのかな、って」
西江賀慶作くんは「どうすれば人に迷惑をかけずに済むか」ということをいつも考えている男の子で、その思考はときに「自分は人に迷惑をかける存在だ」という誤った方向に飛躍しがちでした。
自分自身さえ世話がかかる存在なのに、別の生き物を世話することができるだろうかと、そんな資格があるのかと、慶作くんは考えていました。
慶作ならできるよ、と愛海ちゃんが慰めたとき、扉がノックされました。
「またパソコンか。たまには外で遊ぶがいいよ。子供は走るがいいよ」
部屋に入ってきたリーさんは、座卓の上の空になったグラスとジュースのパックをお盆に載せて片付けました。
「ふたり、楽しそうな。何を話してたか?」
「ペット飼うなら何がいいって話。慶作は犬がいいんだって」
「ケイサク、犬ほしいか? シンサクさんに頼むがいい」
シンサク……真作とは、慶作くんのお父さんの名前です。
「シンサクさんお金持ちね。犬のひとつくらい、簡単よ」
「いや、いいんだよ、リーさん。ペット飼ったら餌とか病院とか、本当にたくさんお金がかかるだろうし。……第一、お父さんは忙しいから」
「そか? ケイサクは欲がないな。……アミ、そろそろ暗くなるね。帰るよ」
「はぁーい」
家に帰る愛海ちゃんを玄関まで見送ると、リーさんは、さぁ、と慶作くんを促します。
「ケイサク、今日はマナミが来るね。ささとご飯食べるよ」
「あ、忘れてた。リーさん、今日の晩ご飯は?」
「チャーハンとチンジャオロースーと酢豚と味噌汁よ」
「またたくさん作ったね。食べきれないよ」
「足りないよりは残るがいい。マナミにも食べさせる。あの人は頭いいが料理しない」
リーさんが家政婦として出勤してくる日は、大抵ふたりで一緒に晩ご飯を摂ります。それが雇い主である真作さんの希望でした。
息子を寂しくさせないように……家庭教師をつけたのも、それが理由のひとつでした。