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キマイラに捧ぐ  作者: 春戸稲郎
八月・終わりの物語
20/31

赤の逃避

 

 ………………

 ……ルス。ねぇ、ルス。

 なぁに。ケイサク。

 今日は、何月何日だっけ。

 ルスにはわからない。でも、ハチガツだとオモう。

 そう、なのかな。今、夏休みなのかな。

 どうしたの、ケイサク。

 最近ね、今が何日か、わからなくなるんだ。

 それは、タイセツ?

 とても困るよ。……ところで、今朝僕は、きみにご飯を準備したかな?

 それもワスれたの?

 うん。……でも、もっと大切なことも、忘れているような気が……

 ………………


 窓の外では燦々と、真夏の太陽が桜の木の瑞々しい葉を照らしていました。

 蝉の鳴き声が遠くから、近くから。

 もはや人体には危険なほどに暑いその日……校庭で遊ぶ児童すらいない学校に、慶作くんはいました。

 ひとり、教室に、ぽつんと自分の席に座っていました。蝉が鳴く以外には何も聞こえてこない教室は、ひたすらに静かでした。

 慶作くんがぼんやり黒板を眺めていると、教室前方の戸が開きました。

「あ、おはよう、愛海ちゃん」

 教室に現れた愛海ちゃんは、しばらくじっと、慶作くんの顔を見つめていました。

「どうしたの?」

「……わたしは、なんでもない。……おはよう、慶作」

 沈んだ表情で教室に入ってきた愛海ちゃんに、慶作くんは首を傾げました。

「愛海ちゃん、ランドセルは? なんで手ぶらなの?」

「……急いでたから、忘れちゃった」

「大胆な忘れ物だね。でも、僕もいろいろと忘れちゃったかも。朝起きたら、もう遅刻確定の時間でさ」

 隣の席に腰を下ろした愛海ちゃんに、慶作くんはにこやかに話します。

「でもおかしいんだ。誰もいないの。愛海ちゃんも遅刻にならないよ」

「そう」

「ずっと待ってるんだけど、先生も来ないんだよね。職員室に……」

「慶作」

 そこで、耐え切れなくなったように、愛海ちゃんが慶作くんの話を遮りました。

「今日、何月何日か、わかる?」

「えっと……あれ? 何日だったかな? 日直は誰だろう。黒板に日付がまだ……」

「八月十九日よ」

 慶作くんから目を逸らし、吐き捨てるように愛海ちゃんはいいました。

 そうだっけ、と慶作くんは笑います。

「そっか。夏休み中だったんだ。うっかりしてたなぁ」

「……ほんとにね。……リーさんと真奈美さん、すっごく心配してたよ」

「そうそう。珍しくね、リーさんが午前中にうちに来てたんだ。一言『夏休みでしょ』っていってくれればよかったのに」

 がたん、と大きな音を立てて、愛海ちゃんは椅子から立ち上がりました。

 そうして、悔しそうに苦しそうに顔を歪めて、ぽろぽろと涙をこぼしました。

「……どうして……こんなことに…………なっちゃったのかなぁ……」

 ぱたぱたと机に落ちる雫を見て、慶作くんは立ち上がってハンカチを差し出しました。

「どうしたの? なんで泣いてるの?」

「……わからないの? 本当にわからないの?」

 訴えるような痛切な目で見つめられ、慶作くんはハンカチを持った手を引っ込めます。

「何をいってるのか……」

「だって、慶作、夏休みを忘れて学校に来たの、八月に入ってから、これで三回目じゃない。それも忘れちゃったの?」

 慶作くんは、記憶を遡ろうとしました。

 しかしすぐに、〈真っ赤な記憶〉に遮られました。

「……あれ? 今日、何月何日だっけ?」

 問いかけに、愛海ちゃんは唇を噛んで、沈黙。

「誰もいないね。……でも、平日だったら、学校にはちゃんと来ないとね。お父さんに迷惑かかっちゃうし」

「……慶作、わたしがいるから」

 愛海ちゃんは慶作くんの肩を掴んで自分の顔を見つめさせました。

「わたしがいるから。リーさんも真奈美さんもいるから」

「なに? どうしたの?」

「……わたしがいるから……お願い。しっかりして。ちゃんと受け止めて」

 何度かためらってから、意を決した愛海ちゃんがいいました。

「慶作のお父さんは、もう、死んじゃったでしょ?」

 思いつめた表情の愛海ちゃんに対し、慶作くんはきょとんとしていました。

「知ってるよ。そんなこと」

「……!」

「お父さんは知らないおじさんに包丁で何度も刺されて殺された。……でも、それだけのことでしょ?」

 絶句する愛海ちゃんに、慶作くんは、再度、ハンカチを差し出しました。

「なんで泣いてるのかわからないけど、涙を拭いてよ」

 凍りついたように反応のない愛海ちゃんに、慶作くんは微笑みかけ、彼女の頬にそっと柔らかい布地を当てました。

「でも、弱ったね。誰も来ないんだもの。……僕は何か、勘違いをしてるのかな。先生からお父さんに連絡がいってなければいいんだけど」

「……なんで……どうして……」

「なんでって、お父さんは仕事で忙しいはずだからだよ。今朝もお父さんに電話をかけてみたんだけど、繋がらなかったし。僕のせいで迷惑はかけたくないしね。……とりあえず、職員室に行ってみようか。誰かいるかも」

 慶作くんの明るい提案に、彼の肩を掴んだまま、愛海ちゃんはうなだれていました。

 ……このときすでに、慶作くんの内部で、何かが破綻していました。


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