赤の逃避
………………
……ルス。ねぇ、ルス。
なぁに。ケイサク。
今日は、何月何日だっけ。
ルスにはわからない。でも、ハチガツだとオモう。
そう、なのかな。今、夏休みなのかな。
どうしたの、ケイサク。
最近ね、今が何日か、わからなくなるんだ。
それは、タイセツ?
とても困るよ。……ところで、今朝僕は、きみにご飯を準備したかな?
それもワスれたの?
うん。……でも、もっと大切なことも、忘れているような気が……
………………
窓の外では燦々と、真夏の太陽が桜の木の瑞々しい葉を照らしていました。
蝉の鳴き声が遠くから、近くから。
もはや人体には危険なほどに暑いその日……校庭で遊ぶ児童すらいない学校に、慶作くんはいました。
ひとり、教室に、ぽつんと自分の席に座っていました。蝉が鳴く以外には何も聞こえてこない教室は、ひたすらに静かでした。
慶作くんがぼんやり黒板を眺めていると、教室前方の戸が開きました。
「あ、おはよう、愛海ちゃん」
教室に現れた愛海ちゃんは、しばらくじっと、慶作くんの顔を見つめていました。
「どうしたの?」
「……わたしは、なんでもない。……おはよう、慶作」
沈んだ表情で教室に入ってきた愛海ちゃんに、慶作くんは首を傾げました。
「愛海ちゃん、ランドセルは? なんで手ぶらなの?」
「……急いでたから、忘れちゃった」
「大胆な忘れ物だね。でも、僕もいろいろと忘れちゃったかも。朝起きたら、もう遅刻確定の時間でさ」
隣の席に腰を下ろした愛海ちゃんに、慶作くんはにこやかに話します。
「でもおかしいんだ。誰もいないの。愛海ちゃんも遅刻にならないよ」
「そう」
「ずっと待ってるんだけど、先生も来ないんだよね。職員室に……」
「慶作」
そこで、耐え切れなくなったように、愛海ちゃんが慶作くんの話を遮りました。
「今日、何月何日か、わかる?」
「えっと……あれ? 何日だったかな? 日直は誰だろう。黒板に日付がまだ……」
「八月十九日よ」
慶作くんから目を逸らし、吐き捨てるように愛海ちゃんはいいました。
そうだっけ、と慶作くんは笑います。
「そっか。夏休み中だったんだ。うっかりしてたなぁ」
「……ほんとにね。……リーさんと真奈美さん、すっごく心配してたよ」
「そうそう。珍しくね、リーさんが午前中にうちに来てたんだ。一言『夏休みでしょ』っていってくれればよかったのに」
がたん、と大きな音を立てて、愛海ちゃんは椅子から立ち上がりました。
そうして、悔しそうに苦しそうに顔を歪めて、ぽろぽろと涙をこぼしました。
「……どうして……こんなことに…………なっちゃったのかなぁ……」
ぱたぱたと机に落ちる雫を見て、慶作くんは立ち上がってハンカチを差し出しました。
「どうしたの? なんで泣いてるの?」
「……わからないの? 本当にわからないの?」
訴えるような痛切な目で見つめられ、慶作くんはハンカチを持った手を引っ込めます。
「何をいってるのか……」
「だって、慶作、夏休みを忘れて学校に来たの、八月に入ってから、これで三回目じゃない。それも忘れちゃったの?」
慶作くんは、記憶を遡ろうとしました。
しかしすぐに、〈真っ赤な記憶〉に遮られました。
「……あれ? 今日、何月何日だっけ?」
問いかけに、愛海ちゃんは唇を噛んで、沈黙。
「誰もいないね。……でも、平日だったら、学校にはちゃんと来ないとね。お父さんに迷惑かかっちゃうし」
「……慶作、わたしがいるから」
愛海ちゃんは慶作くんの肩を掴んで自分の顔を見つめさせました。
「わたしがいるから。リーさんも真奈美さんもいるから」
「なに? どうしたの?」
「……わたしがいるから……お願い。しっかりして。ちゃんと受け止めて」
何度かためらってから、意を決した愛海ちゃんがいいました。
「慶作のお父さんは、もう、死んじゃったでしょ?」
思いつめた表情の愛海ちゃんに対し、慶作くんはきょとんとしていました。
「知ってるよ。そんなこと」
「……!」
「お父さんは知らないおじさんに包丁で何度も刺されて殺された。……でも、それだけのことでしょ?」
絶句する愛海ちゃんに、慶作くんは、再度、ハンカチを差し出しました。
「なんで泣いてるのかわからないけど、涙を拭いてよ」
凍りついたように反応のない愛海ちゃんに、慶作くんは微笑みかけ、彼女の頬にそっと柔らかい布地を当てました。
「でも、弱ったね。誰も来ないんだもの。……僕は何か、勘違いをしてるのかな。先生からお父さんに連絡がいってなければいいんだけど」
「……なんで……どうして……」
「なんでって、お父さんは仕事で忙しいはずだからだよ。今朝もお父さんに電話をかけてみたんだけど、繋がらなかったし。僕のせいで迷惑はかけたくないしね。……とりあえず、職員室に行ってみようか。誰かいるかも」
慶作くんの明るい提案に、彼の肩を掴んだまま、愛海ちゃんはうなだれていました。
……このときすでに、慶作くんの内部で、何かが破綻していました。




